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4)幼き日の思い出とエレノアの恋心

エレノアの部屋にフィンリーがいる。その姿が自分自身である事実にまだ慣れずにいた。

同じ年のフィンリーの幼い頃は、自分よりもいつも少し小さかった。

エレノアよりも明るいきれいな発色の金色の髪にジェードグリーンの瞳。薄茶色の自分の瞳に比べ宝石のように美しかった。

祖父同士が兄弟であるエレノアとフィンリーは、その祖父たちによって幼い頃に互いを婚約者だと決められた。

フィンリーがカートフォード家の誰かに連れられてローレンス家にやって来るたび、あまり活発ではないエレノアの手を引いて、庭を駆け回った。

秘密の抜け道に案内してほしいと言われたことを思い出す。

エレノアが知らないと答えると、じゃあ二人で探そうと言ってあまりエレノアが行ったことのないあたりまでぐんぐん連れていかれた。

そこにはローレンス家に長く務める庭師が丹精込めて作っている花畑があった。

これはエレノアが最近知ったことだが、庭師は花を掛け合わせて珍しい色の花を咲かせようといろいろ試みており、そのあたりは庭師のいわば実験の畑だった。

その時、子どもにも珍しいと感じる緑色の花があった。ガーベラのような形で花びらの色がきれいな緑色。

エレノアがしゃがみ込んでその花を見ていると、急にフィンリーがどこかへ走った。

そして庭師の手を引いて戻ると、


「この緑色の花を一本ください。エレノアにあげたいんだ」


そう庭師に頭を下げた。


「黙って花を折らなかった坊っちゃんは素晴らしいです。では私が坊っちゃんに一本差し上げましょう。花もお嬢様のことも大切にしてくださる小さな貴族様、これをどうぞ」


庭師は剪定鋏を入れ、緑色の花を切ってフィンリーに手渡した。


「ありがとう!」


フィンリーは庭師にきちんと礼を言い、緑色の花をじっとみつめるとそれをエレノアに差し出した。


「この花が好きなのだろう? これは僕が育てたものでも買ったものでもないけど、いつかエレノアにこの花を持ちきれないくらい贈れるような人間になるから待っていてほしい」


エレノアはそのフィンリーの言葉より、坊っちゃんはなんと素晴らしいのでしょうと涙ぐんだ庭師に驚いた。


その日フィンリーからもらった珍しい緑色の花は、次の日母に押し花にする方法を教えてもらい、今もエレノアの机に飾ってある。

あれから何年過ぎただろうか、日が当たらないようにしていても花びらの緑色が少しずつ色褪せてきていた。

緑色の花はフィンリーとの思い出でもありながら、亡き母との最後の思い出でもあった。

押し花を母に教わりながら作ったその年の冬に、母は病によって遠いところに旅立った。

母は作り方を教えてくれながら、秘密を教えてくれた。


「この花の色はフィンリーさまの瞳の色に似ているわね。

このきれいな緑色がずっと色褪せないといいのだけど。

実はね、わたくしも旦那さまから初めていだたいたオレンジ色のバラをドライフラワーにしたのよ。いつまでも手元に置いておきたくて。

そのことを旦那さまにお伝えしたら、それからはオレンジ色のバラしかいただけなくなったの。

わたくしが喜ぶだろうといつもオレンジ色のバラを抱えてくる旦那さまに、他にもたくさん好きな花があるとは言えなくなってしまったわ」


母は優しく笑いながら話してくれた。

そしてこの話には母の知ることのない続きがあった。

母の命日に父は毎年オレンジ色のバラを墓前に供えている。

これからも母は父からオレンジ色のバラしかもらえないかもしれないけれど、この話をしてくれた時のように母は虹の向こうで優しく微笑んでいると思えた。


フィンリーがあの幼い日の『いつか持ちきれないほどこの花を贈る』という約束を叶えてくれる日がくるという希望は、押し花の緑色のように少しずつ色褪せていった。

入れ替わる前のフィンリーはエレノアに何の興味もなさそうだった。

人は成長していく中でぽとりぽとりと何かを落としながら歩いていく。

冒険心や庭で拾ったすべすべの石、幼い視点から見た未来の大きな夢。

そうしたものをひとつずつ落として、空いた手に現実を掴み直していく。

フィンリーが落としたものの中にエレノアがあったのだと、そんなふうに理解していた。


侍女のナタリアがやってきて、フィンリーをエレノアの部屋の続きに移すことになったと伝えにきた。

エレノア姿のフィンリーは無事にお父様を説得できたようだ。

何人かの従者がフィンリーの荷物とフィンリーであるエレノアを運び出す。

自分の部屋に到着すると、部屋にエレノアの姿のフィンリーがいた。

この部屋の主であるかのように上手に振舞っている。


「奥の部屋に荷物を持っていって。あとはわたくしがやります」


従者たちは丁寧に荷物を運び、すぐに下がっていった。


「エレノア、その……いろいろと大丈夫か」

「痛みは大丈夫です」

「それならよかった」


フィンリーはよかったと言いながらまだ心配そうな顔のままだ。

エレノアは鏡に映った自分しか知らなかったから、こういう顔をする自分を見られることを面白く感じている。

今のエレノアは鏡に映ったフィンリーの顔をまっすぐに見られないでいる。

フィンリーとまるで見つめ合っているように思えてしまうからだった。

こんな近い距離でフィンリーと向かい合ったことはなく、心臓が壊れてしまうのではと思うほど速く打ち続けるから、あまり鏡は見ないようにしている。


クローゼットのように使っているこの部屋のベッドはエレノアの心が疲れたときの『逃げ場』だった。

子供の頃に母にもらったウサギのぬいぐるみやおきにいりの絵本などが棚に飾ってある。

それらに囲まれたこの部屋はエレノアの癒しの空間だった。

成長していく中で落としていくはずのものを、エレノアは大事に置いていた。

そしてベッドの正面の壁には、エレノアが刺繍をした『サンプラー』が掛かっている。

サンプラーは、刺繍のさまざまなステッチの練習布だ。

AからZまでのアルファベットを刺繍して、その周囲をいろいろなステッチで縁取る。

このサンプラーは『F』の文字だけをたくさん、何種類ものステッチで刺繍したものだ。

フィンリーに気づかれてしまうだろうか。

フィンリーの『F』をサンプラーに選んだことを。

翼を広げた鳥が木の実を咥えている図は、カートフォード家の紋章の一部だ。

エレノアは誰に見せるわけでもないのだからと、それをサンプラーの中央に刺繍した。

フィンリーは所在無げに部屋の中を見回しており、サンプラーに目を留めないかハラハラする。

フィンリーは、明け方にやって来たときとは別のワンピースを着ていた。

目を隠して湯浴みをすると言っていたのでそういうことなのだろうが、それについて何かフィンリーが言ってくることがなくてよかった。

そういうエレノアも下の用事を済ませている。

折った腕を気遣われながら、下男がすべて処理してくれた。エレノアもずっと目を閉じていた。

下男に触れられることに抵抗があったが自分の身体はフィンリーなのだと言い聞かせ、なんとかそのなんとも言えない時間をやり過ごした。


「エレノア、もし起き上がれるようだったら、その……君のことを教えてほしいんだ。週末までは学園の創立祭後の休みだが、御父上から週明けには登園できるだろうと言われたよ。僕は君として学園に行かなくてはならなくなった」

「はい。あまり友人はいないので覚えることは多くないかと思います」

「そんなこともなかったように思うが。君のほうはまだうまく歩けないだろうから、登園できるのは少し先になるな」

「そうですね。杖を使えば歩けないこともなさそうですが、無理をしてのちのちフィンリーさまのお身体に何かあっては大変ですから」

「……起き上がることができるなら、向こうの部屋でお茶でも飲まないか。誰に頼めばいいか教えてほしい」

「はい、わたくしに付いている侍女はナタリアだけですので、すべてナタリアにお申しつけくだされば」

「わかった、すぐにお茶を頼んでくる。身体を起こすのに手を貸そう、痛みがあったら言ってほしい」


エレノアはゆっくりとベッドから降りた。フィンリーが揃えてくれたのはカートフォード家から届けられたフィンリーの室内履きだ。

初めて見るフィンリーのこうした私物に、エレノアは手に取ってよく見てみたい気持ちになったがそんなことをできるはずもない。

フィンリーがエレノアの手を取りそっと支えてくれる。

エレノアの心臓はまたドキドキと跳ねている。こんなに近くにいてはそれが聞こえてしまうのではないかと心配になる。

フィンリーは壁に掛けられた『F』の文字ばかりのサンプラーに目を留めることはなく、エレノアは使い慣れたモスグリーンのソファに深く座った。


「……黒髪がクラリス嬢、茶色の髪がブランシュ嬢、なるほど。

昼の休みにはエレノアは三人で東の中庭のテーブルで軽食をとっていると。

話題によっては、頭を打ったせいでよく覚えていないと言うことにするよ」

「ええ、そうしてください」

「それから、僕たちが元に戻る方法についてなんだが、君はどうしたら戻れると思う?」


フィンリーはティーカップを静かに置き、二人にとって一番大事なことについてさらりと言った。


「わたくしは、その大階段を落ちたという時のことを覚えていないのでなんとも言えないのですが、同じようにそこから落ちたら元に戻る……のではないでしょうか。

フィンリーさまはどうお考えですか」

「僕もエレノアと同じように考えていた。こうなった時の状況を再現できれば、元に戻るのではないかと。ただ……今もこうして大怪我をしているのに、今度はもっと酷いことにならないとも限らない。もっと身体に悪くなさそうな方法はないだろうかと思う」

「本当にどうしたらいいのでしょう……」

「ただひとつ言えるのは、君と僕が一緒にいないと戻れないという気がしているんだ」

「……そうですね。もし今、どちらかが別の方と一緒に落ちるなんていうことになったら、ややこしいことになりそうですね」


フィンリーが驚いたような顔をした。

まるでそんなことは思ってもいなかったという、そんな顔を。


「そうか、そんなことになったら大変だ。僕はずっと君のそばを離れないようにする」


エレノアの心臓が最高速度で鳴り始めた。

フィンリーの言葉が頭の中で繰り返される。

甘い意味などどこにもなく、ただこれ以上今の状況を悪化させたくないという思いだけの言葉なのに、まるでとても仲のいい恋人同士の間で交わされるもののように聞こえてしまった。


「あ、いや、そういう意味ではなく……いやそういう意味というのはそういう意味ではないこともなくて……ああ何を言っているのか……弱ったな」


エレノアの少しの沈黙で何か気づいたフィンリーが焦った顔になる。


「これ以上ややこしいことにならずに、この状況が早く元に戻ることが大事ですものね」

「ああ、そうだ。そう言いたかったんだ」


フィンリーに助け船を出すと、少し安心したような顔になった。

こんなふうに焦ったり困ったりする自分の顔が少し楽しくてふっと笑いがこぼれる。


「なんだエレノア、笑うことはないだろう」

「フィンリーさまごめんなさい、自分の顔なのですけど、面白くてつい」

「自分の顔が面白いなんてエレノアは面白いな」


今度はフィンリーさまが笑った。

まるで仲がいい婚約者同士みたいで、エレノアはこんな時間がずっと続けばいいのにとうっかり思ってしまう。

冷めてしまったお茶を飲み干しても、鼓動の速さは収まらなかった。

そしてほんの少しのお茶の苦味が、いつまでも残った。

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