3)誓って、見たり触れたりしていない
まだ夜が明けきらないうちに目が覚めた。
エレノアの意識は戻っただろうか。
ベッドから降りようとして身体を少し捻っただけで手首にも足にも痛みが走る。
折れてもいない軽い怪我でこんなにも痛く不便なら、手も足を折っているエレノアはどれだけの痛みがあるのだろう。
自分なら耐えられるのに。
剣の修行において切り傷や打ち身などよくあることだった。
修行で使う剣は本物とは違う。ただ、重さは同じくらいなので当たれば当然痛い。いつだって腕など打ち身や浅い傷だらけだった。
修行の場で剣をやり取りする相手には、日ごろの鬱憤をただぶつけてくるような者もいた。
そんな怪我をあまりしたことがないであろうエレノアにとって、骨を折った痛みに耐えるのは気の毒に思う。
そろそろ意識が戻っているかもしれず、自分の身体が眠る部屋までいってみることにする。
長い髪をそのままにしておくと邪魔だがそのために侍女を呼ぶ気にもなれず、そっと鏡のある引き出しの中を開けてみた。リボンでもあれば髪を束ねようと思う。
何か悪いことをしているような気持ちになりながら、エレノアの引き出しを開けて少し探った。
リボンのようなものはそこには入っていなかったが、輪にしたゴムに大きめのおもちゃのような玉がみっちり通してあるものがあった。他に髪をくくれるようなものが見つからず、その玉が繋がった輪で髪を束ねたらなかなかうまくできた。
勝手に使うのは気が引けたが材質からそれほど高価そうには見えなかったので、何か言われたらもっといい物を買ってやればいいだろう。
そういえば、エレノアに髪飾りのひとつも贈ったことがないと気づく。
友人たちの中には自分のように家が定めた婚約者がいる者もいた。
その婚約者から髪飾りやネックレスをねだられたという、自虐的に見えて少しの自慢が混じった話を聞くことがある。
そんなときはエレノアがそうしたものをねだってくるような女性ではなくてよかったと思うと同時に、甘えてもこないことに少しの淋しさを感じた。
「俺だってエレノアに何か欲しいと甘えられたら、買ってやるくらいのことはしたさ」
そんな独り言がぽとりと落ちて、磨き込まれた石の廊下に吸い込まれていく。
今はそれよりも、自分の身体が目覚めるかどうかだ。
小さな灯りがぽつぽつとあるだけの足元に気をつけながら、エレノアの眠る客間に向かった。
まだ夜明け前ということもあってか、客間あたりにひと気はない。
部屋の中には誰かがついているかもしれないが、今の自分はエレノアの姿なのでここに入っても特に問題はないだろう。
音を立てないように扉を開ける。部屋の中は暗く、奥に小さな灯りが少し見えた。
その奥に進んであやうく声を上げそうになった。
『俺』がベッドの下に倒れている。
「大丈夫か!」
ついいつもの口調になってしまったがかまっていられない。
俺の姿のエレノアが、エレノアの姿の俺を見て、ヒュッと息を吸い込んだ。
「……フィンリーさま……なのですか……? どうしてわたくしの姿を……」
いつも聞いている自分の声とは少し違うが、たしかに俺の声だった。
「そうだ、僕だ。大丈夫か!?」
エレノアを抱き起そうとして、そんな力がこの手に無くて愕然とする。
そうか、身体がエレノアだから、俺の身体を持ち上げることなどできるわけがないのか。
それでもどうにか俺の身体を起こし、肩を貸してベッドに座らせることができた。
俺の顔が苦痛に歪む。エレノアが痛みに耐えていた。
「誰か呼ぼうか。水でも飲めば少し落ち着くかもしれない」
「いえ、大丈夫です……。少しこうしていれば」
エレノアは軽く目を閉じて肩で息をしている。
きっと目覚めて自分の身体に違和感を覚えた俺のように、エレノアも鏡に映してそれを確かめたくなったのだろう。
ただこちらの身体は、腕と足を折っている。立とうとしてうまくいかなったのかもしれない。
「今は、いつ、なのでしょうか」
「あの大階段から落ちたのが昨日の夕方前で、今は翌日の早朝だ。
それで思い出したが、今日は学園の創立祭だな。僕も君もこんな状態では参加はできないが」
「階段から落ちた? どういうことでしょうか。そのことと、フィンリーさまとわたくしがこのようになってしまっていることと、何か関係があるのでしょうか……」
「覚えていないのか? 昨日の大階段でのことを」
エレノアはあの階段でのことを覚えていなかった。
覚えていることを順序立てて聞いてみると、学園の図書室で一人過ごしてそこを出たところまでは記憶しているという。
「では図書室を出て、どこに向かったのかは覚えていないと、そういうことなんだね?」
「……はい。図書室からどう歩いたか、思い出そうとしても何も浮かんでこないのです」
「僕と会ったことは?」
「フィンリーさまと会った? それが大階段のことなのでしょうか。
申し訳ありません、フィンリーさまとお会いしたことは覚えておりません……」
俺と会ったことをエレノアが覚えていない。
ということは、俺があの大階段で婚約の白紙を伝えたことも記憶にないのか。
エレノアが覚えていないことに、どこかほっとした気持ちになった。
昨日それを告げたときには絡んだ紐がようやくほどけたような思いがしたのに、おかしな話だ。
これからどうやって元に戻れるかが一番の問題である以上、そこに婚約を白紙に戻したいと告げたことが入り込んでくると厄介な気がするから、これでよかったのだ。
まずは互いの身体を取り戻してから、それからゆっくり今後のことを考えればいいと思うと少し心が軽くなった。
それから俺の姿のエレノアに、これまでのことを話した。
二人して学園の大階段から落ちたこと、エレノアを迎えにきていた馬車の従者が意識のない二人を乗せてこのローレンス家に運び込んでくれたこと。
俺はエレノアの部屋で昨日のうちに目を覚ましたこと、駆けつけた俺の両親に今はここから無理に動かさないほうがいいとエレノアである俺が言ったこと。
そして、これからどうしたら元に戻れるかと二人で考えなければならないこと。
「……では、フィンリーさまはわたくしの部屋のベッドでお休みになったのですね……。とても恥ずかしいです……」
エレノアは顔を真っ赤にして消え入りそうな声でそう言った。
残念なことに赤面したのは自分の顔であり、単に照れている自分の顔を見るという、珍しいのにまったく嬉しくもない光景だ。
「意識がなかったとはいえ、勝手に私室のベッドを使うことになったのは申し訳なかった」
「待ってください、その服はどうやって……」
ハッとしたようにエレノアが目を見開いて俺を見た。
「あ、ああ、これはまだ僕の意識が戻らないうちに、君の侍女が着替えされてくれたみたいだ。ぼ、僕は何も見てないし、何も触れてもいない、誓ってもいい、本当だ!」
そんな誤解だけは絶対に解いておかなければ。俺の名誉がかかっている。
二の腕のあたりには少し触れてしまったが、わざわざ言わなくてもいいだろうか。
「というか、君だっていつまでもその服を着ているわけにもいかないだろう。僕の身体を見ることになるのは君も同じだ」
「……そんな……。どうしたらいいのでしょう……フィンリーさま、わたくしどうしたらいいのでしょうか」
「……ごめん、少し意地の悪い言い方をしてしまった。でも、僕だってどうしたらいいか困っていると分かってほしい。お互いどうしても避けられないこともある。そこを気にしていたら物を食べることも水を飲むこともできなくなる。僕に疚しい気持ちは一切ないと誓うから、とにかく今は、二人が無事に自分の身体に戻ることだけを考えよう」
エレノアは俺の言葉にうなずいてくれた。
この恥ずかしい罪悪感と戦っていかなければならないのは、俺も同じなのだと分かってほしかった。
空が明るくなり始めるまで、エレノアと今後の話をした。
エレノアはどうしても自室に戻りたいという。
それもそのはずで、姿は俺でもいつもの部屋で過ごすのがエレノアにとって最善だ。
使い慣れた物が手元にないのは不便であるだろう。
「あの、わたくしの部屋にフィンリーさま用のベッドを入れてお世話をしたいと、父に承諾してもらうのはダメでしょうか。
わたくしの部屋の奥には、ドアの向こうに寝室がもうひとつあって繋がっているのです。
幼い頃は侍女の部屋として使っておりました。
今はクローゼットにしておりまして、あまり大きくはないですがベッドはそのままにしてあるのです。そこを少し片づければフィンリーさまのお部屋のようにできると思うのですが……」
「エレノア、いくら僕たちがその……婚約中とは言っても、君の御父上がそれを許すとは思えないのだが」
エレノアの続きの部屋で寝泊まりするなど、俺の心臓がいくつあっても足りない。
ドアがあるとはいえ、ほとんど同じ部屋ではないか。
そもそも婚約中とはいえ、手すら繋いだこともないのに、同じ……部屋などというのは……。
まったく見るつもりがなかったことはあらゆる神に誓えるが、不可抗力で目に入ってしまったエレノアの身体のことを思い出すのは危険であるし、髪や肌からさわやかな甘い匂いが立ち上ってくることにも戸惑いしかない。
腕や指先ですらしっとりと柔らかいなんていうことを、俺は本当に知らなかったのだ。
そんなエレノアの目が近くにあれば、俺は俺を信じられる。
「フィンリーさまのこのお身体は、大怪我をなさっています。そこを父にわたくしであるフィンリーさまが強く訴えてくだされば、なんとか……」
「なるほど、そっちは一人でベッドを降りることもままならないのだから、エレノアである僕のところまでやってくることも指一本触れることもできない、そういうわけだな」
「そうすれば、お互いぎゅっと目をつむって着替えなどを手伝うとか、できるのではないでしょうか」
それだけではない、互いに相手が『今の自分の身体』をどう扱っているのか……いわば『監視』にもなる。
エレノアが俺の身体をエレノアの部屋に置きたがった理由の一番はこれなのではないか。
俺が一人になったらエレノアの身体を好きに見たり触れたりすらできることを恐れているのだ。
信頼されていないような思いはするがエレノアの気持ちを考えれば仕方がない。
俺は名ばかりの婚約者でロクな会話もしてこなかった友人以下のただの男で、エレノアは嫁入り前の女性なのだ。
俺と身体が入れ替わっているなんて、恐怖ですらあるだろう。
もしも直前に婚約を白紙にしたいと伝えたことを覚えていたら……。とんでもないことになるところだった。
これは……もしかしたら……もしかしなくても……エレノアに最大限に優しく、信じるに足る婚約者であると思ってもらう必要があるのではないだろうか。
婚約者として男として一人の人間として、エレノアの信頼を得なければならない。
そうでなければ入れ替わってしまったまま、誰にも気づかれることなく過ごすことなど不可能なのだ。
「なるべく早く、エレノアの部屋に君がいられるように、御父上に君として願い出ることにする」
「お願いします」
「それから、失礼だとは思ったが、君の引き出しを開けてこれを借りた。勝手なことをしてすまなかった」
くるりと身体を反対に向けて、髪をくくっている物を見せた。
「いえ、問題ありません。同じ部屋にいればこういう小さいこともすぐに解決できますね」
エレノアは一瞬おどろいたような顔をしたが、特に何か言うこともなかった。
その戸惑いのしぐさを見たら、身体が元通りになったら何か髪飾りを贈ろうと決めた。
婚約白紙のことはわずか一晩で俺の中で無かったことになりつつあった。
驚くようなことが昨日からずっと続くなか、こうしてエレノアとたくさん話をしたのは家同士が婚約を決めてからほぼ初めてということをすっかり忘れてしまうほど、自然な会話ができている。
もっと早くこうしてエレノアとの時間を過ごしていたら、俺は婚約を白紙になどと言い出すことは絶対になかった。
エレノアに気づかれないくらいの小さなため息をついた。
「それと……少し言いにくいのだが、君の侍女がいつもどおり朝に湯浴みをするらしい。僕は目の上に布を置いてすべて侍女に任せようと思っているが、それで大丈夫だろうか」
「……はい。それ以外に方法もございませんし……」
エレノアは下を向いたまま小さな声で答えた。
「決して見ないし触れないと約束する」
「ご配慮ありがとうございます」
お互い貴族だから、湯浴みや着替えのときに侍女や下男任せにするのは当たり前のことだが、エレノアはもっと抵抗するのではないかと思っていた。
目の上に布を置いてという案に、それ以外に方法もないと受け入れてくれてありがたかった。
感情よりも状況を優先できるエレノアに、さすがに公爵家の令嬢だと感じた。
自分の中のエレノアがいつまでも幼い頃のままであるのを上書きしなければならないと思うと同時に、同じ学園で三年も過ごしていながら婚約者のことをここまで知らないままどうにもしてこなかった自分を恥じた。
「それではいったん部屋に戻る。君はもう少し眠るといい」
エレノアの掛け物を直し、音を立てないように廊下に出た。




