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後編 太宰桜子の物語

 最近になって、美月の様子がおかしい。

 彼女の幼馴染である太宰桜子は、そういった変化を感じていた。

「蘭世ちゃん、この卵焼きは美味いぞ!」

「要らんし、ちょっと離れてくれる?」

 以前までは桜子と一緒に昼食を食べていた美月だったが、転校生の江戸川蘭世が来てからは、彼女の席で食べるようになった。昼休みになっても、美月はずっと蘭世と話している。

「何だかなあ……」

 一見すると仲は悪く、時々口論をしているようにも思える。しかし桜子には分かった。美月は自身と話している時よりも笑顔が輝いている。本当に、楽しそうに。

「せめてこの肉団子を一個食べて欲しい。美味だぞ」

 美月は弁当のおかずを蘭世に分けた。箸を彼女の口に向けて、あーんをしようとしているのだ。

「仕方ないなあ、じゃあ頂きます……」

 ああ、きっとこれからさらに仲良くなって、趣味を共有し合って、色んな場所に出かけるんだろうなと桜子は思った。そう思うととても……とても憎かった。

「美月の秘密を知ってるのは私、最初に知ったのは私なんだよ。美月と一番話してるのも私だし、美月に一番触れてるのも私だし、美月にとっての一番は私。きっと美月のお父さんやお母さんよりも美月のことを知ってるし、江戸川さんなんてそもそも論外なんだよ。それなのにさ、何あの顔? まるで小さい子供みたいな笑顔しちゃってさ。私見たことないよ美月のあんな顔。可愛いな、可愛いけどそれが私じゃなくて江戸川さんにしてるって言うのが本当に憎い。ああもうどうやって、どうやったら私にもその顔をしてくれるのかな、美月……?」

「太宰さん、どうしたの?」

 隣に同級生がいることも忘れて、桜子は呪いのような独り言をぶつぶつと呟いていた。

「ううん、何でもないよ」

 桜子は同級生に対して笑顔を見せたが、箸を握る手は怒りと恐怖で震えていた。どうにかしないと、美月を取り戻すために何ができる。彼女はご飯を食べている間、そのことについてずっと考えていた。


「そういえばあんたの秘密、他にも知ってる人いたよね?」

「ん?」

 一方その頃、蘭世は放課後に見たあの光景を思い出していた。美月の頭から猫耳が生えたことは今でも夢か幻のように感じている。

 だが、その隣にいた人物の名前をド忘れしてしまった。

「あの、誰だっけ……親友ちゃん」

「ああ、桜子のことか」

 そうだ、太宰桜子だった。彼女はいつから美月の正体を知って、共に寄り添ってきたのか、蘭世はふと気になった。

「あの人は幼馴染って感じ?」

 美月は考えるように天井を見上げて、指で何かを数えた。

「そうだな、幼馴染であり、ズッ友であり、そして大切な親友だ。幼稚園の頃から一緒だったもので、もう十年以上の付き合いになる」

 それって全部同じような意味では、と蘭世は突っ込むのをぐっと堪えた。美月はどこか、昔を懐かしむような表情をしていた。

「幼稚園の時分、吾輩はうっかり猫の状態で水浴びをしてしまい、桜子に目撃されてしまってね、その時は焦ったよ。吾輩は火が付いたように泣いた。だが桜子は涙を流す吾輩の傍にいてくれた。その時に自身が猫人間である事、そしてそれを今まで隠してきたという事を吾輩は全て話した。嫌われるのを覚悟した上でね。それを聞いた上で桜子は一言、隠し事は良くないと言った。自分に正直に生きるべきだと励ましてくれた」

 美月の目は輝いていた。その表情を見ると、蘭世も何か込み上げてくるような気がした。

「一人で生きるよりも、趣向を同じくするものと友人になり、心を通わせる方が、やはりずっと楽しい。彼女の考えを吾輩は大切にして、今まで過ごしてきたのさ」

 心を通わせる。自分の「好き」を隠して生きてきた蘭世とは正反対の言葉だった。

 そうか、そういう考えも悪くないのかもしれない。

「桜子、こっちに来てくれないか?」

 美月は徐に立ち上がり、遠くに座っていた桜子を呼んだ。

「蘭世と友達になったぞ」

「まだ友達になったとは言ってないけど……」

 仲が悪いわけではないが、友達だと認めると負けたような感じがあるので蘭世は否定した。

「そうなの、良かったね!」

 桜子は素直に喜び、そして蘭世の方に向き直った。

「美月の友達なら、私にとっても友達みたいなものだね。初めまして、私は太宰桜子!」

「どうも、江戸川蘭世です……」

 ぎこちない様子で握手をした。これで友達が二人に増えたということだろうか。

「仲良くしましょうね、江戸川さん!」

 だが、桜子の態度にはどうも違和感があった。人との関わりに敏感な蘭世は、桜子が無理をして笑っているような気がした。

「ええ、よろしく」

 できれば関わって欲しくない。彼女はそう語っているような気がした。顔が笑っていても目が全く笑っていない。

「良いな、これも青春の戯れだ」

 美月はそんなことには気付かず、二人の様子を静かに眺めていた。

 だがその後、彼女の身に異変が起き始めた。


「む、数学の教本が無い」

 その日の六時間目の授業で、美月が数学の教科書を失くしたと言い始めたのだった。

「数Ⅱの教科書と間違えたん?」

「いいや、そういうわけじゃない」

 昨日ちゃんと確認したはずなのに、どうして。美月は何度も探したが、やっぱり見当たらない。

「痴呆症かな?」

「そうかもしれん」

 蘭世は少しふざけたような表情を見せた後、机を美月の方に寄せて教科書を見せた。

「こういう時のために友達がいるんでしょ?」

 蘭世の姿が、何だか美月には頼もしく見えた。

「忝い」

「何を畏まってるのよ、武士かよ」

 教科書が見にくかったので、美月は蘭世の方に体を寄せた。彼女の息遣いがはっきりと聞こえてくる。互いに何も喋らない沈黙の時間が流れていく。

 美月はいつもとは違う不思議な感覚を味わいながら、静かにノートを書き進めた。

「チッ……!」

 そして二人の姿を眺めていた桜子は、小さく舌打ちをした。


 そして無事に授業は終わり、今日も帰る時間になった。

「何とか終わったな、ふう……」

 美月は安心していたが、その一方で蘭世は呆れたような表情をしていた。

「まったく、次からは気を付けなさいよ」

 周りの同級生たちは段々教室を離れていき、人が少なくなっていく。

「さて、私たちも帰りますか」

 今日は美月と一緒に帰っても良いな、と思っていた蘭世だったが、後ろから歩み寄って来た桜子に呼び止められた。

「美月と二人で話がしたいんだけど」

「ん……ああ、分かった」

 突然言われたので戸惑ったが、ひとまず蘭世は頷いて教室を出た。

「それじゃあな」

 桜子は手を振って見送り、その後美月に近付いた。

「聞いたよ、教科書失くしたんだって?」

「ああ、少々油断した」

 美月は誰もいないことを確認すると、猫耳と尻尾を出した。桜子はその耳に優しく触れ、そして撫で始める。

「困った時は、私のこともちゃんと頼ってね。美月のことを一番知ってるのは私なんだから」

「そうだな……」

 尻尾が小さく左右に触れる。桜子の言葉に少しも疑いを持たず、美月は彼女に身を任せていた。

 まさか……桜子が犯人だと知らずに。

「江戸川さんに頼るのも良いけど、もっと私のことも頼ってね。私なら、きっと美月の力になれるから……」

 外は既に日が暮れ始め、賑やかで明るかった教室が暗くなり始めた。

「ああ、よろしく頼む」

「さ、もう遅いから早く帰ろう」

 美月の安心しきった表情を見て、桜子は一瞬にやりと笑った。これで良いんだ、これで。


「なーんか、怪しいんだよな……」

 その様子を、陰から蘭世は見守っていた。桜子の様子を不審に感じていた彼女は、帰るふりをして監視していたのだ。

 やはり桜子からは危険な匂いがする、気のせいであれば良いのだが……

「やべ、そろそろ帰るか」

 以前のような失敗はしない。蘭世は二人が話を終えるのを見て、足音を消しながら逃げた。

「何で私は、いっつも隠れなきゃいけないのさ!」

 このまま何も起きずに過ごしたい。蘭世にとってはそれが一番の願いだった。


 桜子は美月と一緒に帰った後、自室で鞄を開いた。

「ああ美月、私の可愛い美月……!」

 そこには彼女が失くしたはずの教科書があった。桜子はそれを手に取り、光悦の表情を浮かべながら頬ずりをした。

 桜子の部屋にあるクローゼットには他にも美月の私物が保管されていた。鉛筆や消しゴムから、シューズ等の大きな物まで。

「ほんとたまんないよね、美月が物を失くした時のあの顔。泣きそうになって、どうしようっていう表情で私を見るの。あの子は私しか頼れないんだよ。私以外に頼らせない。美月が困って、私がそれを助ける。こういう時、私はあの子の友達なんだなあって思える。うふふっ……」

 このような行動に及んだ理由はただ一つ、美月に見られたいから、認められたいから、興味を引きたいから、気にかけられたいから、気にされたいから、愛されたいからだ。

「もっともっと盗まなくちゃ。ああそうだよね。こんなんじゃ全然足りないよ。もしバレたらどうなるだろうって、もし美月にバレたら引かれるんじゃないかって、そのギリギリのスリルが本当にゾクゾクしちゃうよっ!」

 桜子は狂ったように笑いながら自身のコレクションをしまった。そして次の日、また事件が起こってしまう。


 今度は一時間目の授業中、美月がいつものように筆箱を開けた時に気が付いた。

「むぅ?」

「どうした、今度は何を失くしたの?」

 蘭世はとっさに異変に気付き、周りに聞こえないように小声で美月に聞いた。

「失くした前提で話をされるのは心外だが……鋏が無いようだ」

 美月は筆箱に少し大きめの鋏を入れていたのだが、どうやらそれが無くなっていたらしい。奇妙なことに、最近は全く使っていなかったようだ。

「盗難、だろうか」

 彼女は割と深刻そうな顔をしていた。本来笑うべきところではないのだが、急に険しい表情をされたので蘭世は思わず吹き出してしまった。

「いや有り得ないでしょ。あんたの私物を盗むとか、かまちょじゃあるまいし」

 蘭世は笑いながら鋏を美月に貸そうとしたが、その時にふと自分の放った言葉を繰り返した。

「ん、かまちょ……?」

「どうかしたのかい、蘭世?」

 首を傾げる美月を見て、彼女は正気に戻った。

「何でもない、大丈夫」

 もしかすると、あの人がやったのかもしれない。蘭世がそんな考えを巡らせている中、桜子はまたその状況を静かに眺めていた。

「ふふっ……」

 そして今日も放課後に……なる前に、事態は大きな動きを見せることとなる。

「では次回の小テスト、忘れずに勉強すること」

 授業が終わり先生が退室した後、桜子が珍しく蘭世のもとに歩み寄って来た。

「ねえ江戸川さん、ちょっと来てくれないかな?」

「ふぇ?」

 蘭世は一瞬動きが止まったが、しばらくしてゆっくりと頷いた。

「ん、分かった」

 桜子たち二人が教室を出て、一人だけ取り残された美月は奇妙そうな顔をした。

「はて、どうしたのか」

 だが敢えてその理由を聞くようなことはせず、彼女は鞄を開いて鋏が本当に無いのか確認し始めた。もしかしたら自分の勘違いかもしれないと、そう思いながら。


「こんな所まで連れてきて、何の用?」

 桜子が立ち止まった場所は階段の踊り場だった。後ろの廊下は移動教室で生徒たちが行き交っているが、ここには誰もいない。

「そんな怖い顔しないでよ、私たちは友達でしょ?」

「下手な嘘をつくのはやめて。そんなこと、どうせ欠片も思ってないくせに」

 二人を取り巻く世界は周りの賑やかな雰囲気からは完全に切り離されていた。桜子の表情が薄暗くて見えない。蘭世は何だか気味が悪かった。

「へえ、分かってたんだ」

 彼女の声が徐々に低くなっていく。上っ面だけの優しさが剥がれ、本性が露わになる。

「もう美月と関わらないでよ。あの子はあんたみたいなのが気安く話しかけて良い人じゃない。あんたとは釣り合わない、カッコ悪い、憎たらしい……」

 しばらく沈黙が流れる。別に蘭世は驚きも、怒りもしなかった。ただ何かを確信したように、桜子にこう聞いた。

「やっぱり美月の私物を盗んだの、あんただったのね」

 昨日の彼女の態度と、美月に対する言動で気付けた。桜子は裏で美月を傷付け、彼女の悲しむ顔や不安になった顔を見て楽しんでいる。蘭世には到底理解できない考えだった。そして……許せない。

「そんなことは聞いてない。今はあんたについて喋ってるんだけど」

「親友が困ってるのに、そんなことって何?」

 段々懐疑心が怒りに変わってきた。抑えなければいけないと思っても、我慢が効かない。

「あんたは美月のこと、何とも思ってないわけ?」

 すると桜子の体が小刻みに震え始めた。そうか、これがこの子の「触れられたくない」部分なんだな、と蘭世は感じた。

「何言ってるのあんた、頭がどうかしてるんじゃないの。私はいつだって美月のために考えて行動して尽くしてるの。私がしたことで美月が迷惑するなんて有り得ない。私はいつだってそう。美月にとって迷惑なあんたと違って、美月にとって邪魔なあんたと違って。美月にとって鬱陶しい存在のあんたと違って、あんたと、あんたと、あんたとはね……!」

 彼女の息は荒かった。まるで発作を起こしたかのような言葉の羅列と、思わず恐怖を感じるような声。だが蘭世は一歩も引かず、桜子を睨み続けた。

 だがそんな時間も長続きしなかった。チャイムが鳴り響き、休み時間は終わりを告げる。

「私は許さないから、絶対に!」

 桜子は最後にそう言い残し、何か言おうとする蘭世の元を去っていった。


 その後、蘭世はずっと自身の机で頭を抱えていた。

「困ったな……」

 別に美月と会話禁止になっても蘭世は何も困らない。彼女が悩んでいるのは、真実を美月に伝えるべきかどうかだ。

「そうしたらあいつも懲りるだろうけど、だけど……」

 美月は悲しむだろう。今までずっと信じてきた親友が裏切ったと分かれば、自分だって泣くと思う。

 だから蘭世はこれからどうするべきか悩んでいた。このまま何もしないでいると、桜子はまた何か美月に悪いことをするかもしれない。

「どうした蘭世ちゃん、体調でも悪いのか?」

 桜子は一体何をしたいのだろう。美月の心を傷つけても、得られるものなんて何も無いのに。そんなことで注目を浴びても、きっと虚しくなるだけなのに。

「誰か来てくれ、蘭世ちゃんの様子がおかしい!」

「少しは黙らんか今集中してるんだよおバカキャット!」

 隣にいた美月に対して蘭世は大きな声を出して怒った。まったく、今は美月のためを思って考え事をしていたのに。

「何かあったのか?」

 蘭世は返答に困った。誤魔化すべきか、それとも正直に答えるべきか。

「ああいや、親友ちゃんとの話でね」

「桜子と何を話したのだ?」

 ダメだ、これ以上は誤魔化しようがない。蘭世は覚悟して、彼女の前で真実を告げることにした。

「実は、あの子……」


 その日の六時間目は体育の授業があり、生徒たちは慌ただしく着替えを済ませて体育館に向かった。

「あっ、シューズ忘れちゃった!」

 しかし美月と一緒に歩いていた桜子はその道中、忘れ物をしたことに気付いてしまう。

「本当か?」

彼女は即座に振り返った。今ならまだ取りに行けるし、鍵も開いているだろうか。

「ごめん、先行ってて!」

 桜子は美月に謝り、走りながら教室に戻った。途中ですれ違った蘭世は、彼女の焦った様子に違和感を持った。

「ん?」

 何というか、美月に対する言い方もわざとらしかった。以前のこともあり、桜子がまた何かを企んでいるのかもしれないと蘭世は不安に感じ始めた。

「私も忘れ物したんだけど……戻って良い?」

 彼女がそう言うと、美月は何かを察したように頷いた。

「分かった、何かあったら教えてくれ」

 蘭世はできるだけ桜子に気付かれないように、彼女の後を急いで追いかけた。


「美月がいけないんだよ。私の言うことをちっとも聞かずに、江戸川さんにばっかり頼って、私の物にならないから……」

 誰もいない教室に入った桜子は、自身の机から袋に入った薬を取り出した。鞄から美月の水筒を取り出し、そこに薬を入れる。

「お薬、ちゃんと飲んでよね……!」

 ダメ押しのように、桜子は水筒を横に小さく振って薬をよく混ぜた。彼女は額から汗が噴き出て……そして、にやりと笑っていた。

「大好きだよ、私の大切な美月」

 最後に水筒を元あった場所に戻し、桜子は美月の制服を手に取って匂いを嗅ぎ始めた。

「ああやっちゃったよ。もう取返し、つかないよお!」

 制服は良い匂いだった。何だかとてもゾクゾクして、息を吸う度に美月を感じる事ができる。桜子は心の底から楽しかった。これから薬を飲んだ美月がどうなるのか、考えただけでも興奮が止まらなかった。

「充電完了、だね」

 そして彼女は、何事も無かったかのように自身のシューズを持って体育館に向かった。


 教室に戻って終礼の時間になっても、桜子は遠くから美月の様子を観察していた。

「江戸川さんはあそこか」

 美月は一人だった。いつ彼女が水筒に手を付けるか分からなかったが、どうやらその様子も無い。そうしていると、蘭世が美月の机の横を通り過ぎた。

 その際に水筒が落ちてしまい、桜子は一瞬ヒヤリとした。

「えっ、まずいかな……?」

 しかし特に問題は無さそうだった。蘭世は落ちた水筒を拾い、美月に何かを言った後に返した。

 大丈夫、私は失敗しない。

「ありがとうございました!」

 全員の礼で学校が終わると、桜子はすぐに美月のもとに駆け寄った。

「あー、私先に帰っとくね」

 蘭世は桜子の姿を見ると荷物を持って帰り始めた。なるほど、今日のことで遠慮しているのか。

「誰もいなくなったし、ちょっと一休みしてから帰ろうか」

「ああ、そうだな……」

 ほんの一瞬だけ美月が見せた悲しそうな顔に気付かず、桜子は頷いて彼女に近付いた。

 美月はいつものように猫耳を出し、水筒のお茶を飲んだ。

「ふふっ」

 よし、上手くいった。美月が飲み終わった瞬間、桜子はそう思った。

「そういえば、今日は鋏が無くなっていた」

「えっ、今度は鋏が無くなったの?」

 まるで最初から何も知らなかったかのように、桜子はわざとらしく驚いた。

「君は何か知らないか?」

 桜子は考えるようなしぐさを見せた後、申し訳なさそうにこう答えた。

「うーん、分かんないかな……ごめんね」

 美月は何回か頷いた後、唐突に大きな欠伸をし始めた。

「ねえ、一つ聞きたいんだけど、美月は江戸川さんのことをどう思ってるの?」

 薬が効き始めた。桜子はそう確信し、最後の質問をした。

「蘭世ちゃんは、大切な友だ。君と、同じくらい……」

 段々声が途切れ始めた。美月はここで眠るまいと耐えるが、だんだん睡魔に負けて瞼が重くなっていく。

「私に、何かしたのか……?」

「ようやく気付いたんだね、その水筒には睡眠薬が入ってたの」

 どうして、何のために。美月はそう聞こうとしたが、もう言葉も発せない程に意識が薄れていた。

「おやすみ、美月」

 美月は猫耳と尻尾を出したまま、机に突っ伏して完全に眠ってしまった。


「ああ、そんな無防備な姿になっちゃって。本当に可愛いね、可愛すぎて私死んじゃいそうだよぉ!」

 桜子は美月の寝顔を見て息を荒くしながら、なんと自分の鞄から鋏を取り出した。

 それはまさしく美月の持っていた……盗まれた鋏だった。

「でもいけない子。私のことを見捨てて江戸川さんとばっかり喋って、笑って、楽しんでいるなんて」

 鋏を彼女の猫耳に向ける。彼女はそのまま、耳をゆっくり切り落とすつもりだ。

「一生消えない傷を付けてあげる。そうしたら美月も私から目を離せなくなって、私しか愛せなくなるでしょ?」

 美月が気付いて起きる様子も無い。もう彼女を止める者は誰もいない。

 そして桜子は、持っている鋏に力を込めて……


 その手を力強く、美月が掴んで止めた。

「なっ……!?」

 桜子は目を大きく見開いて驚いた。どうして、今の今までちゃんと眠っていたはずなのに。

「残念だよ、吾輩は信じていたのに」

 そう、蘭世から全てを伝えられた美月は、それでも桜子のことを信じて彼女がどう動くのかを見守っていたのだ。美月は怒るわけではなく、軽蔑するわけでもなく、ただただ悲しそうな顔をしていた。

「どうして……?」

「吾輩は目を瞑っていても相手の場所が分かる。君が何をしようとしていたかも、吾輩には見えていた。いや、聞こえていた」

桜子は数歩後ろに下がった。だが美月は歩み寄り、彼女との距離を詰めていく。

「そうじゃないよ、どうして睡眠薬を飲んでも平気なの!?」

 美月がそれに答えようとすると、後ろからの声によって遮られた。

「最初から分かってたのよ、あんたが水筒に変な薬を入れてたのはね」

 それは先に帰ったはずの、蘭世だった。彼女は眉間にしわを寄せながら、扉の横で仁王立ちをしていた。

「彼女が伝えてくれたのさ。終礼で水筒を拾った時にね」

 桜子は脳内の映像を引きずり出した。あの時だ。蘭世はすれ違いざまにわざと水筒を落とし、美月にメッセージを伝えていたのか。

「しかし、目を瞑っていても居場所が分かるということを君は知らなかったのだな。いかに、吾輩の外面だけに執着していたかが伺える」

「違う……私は美月のことを、誰よりも大切に思ってるの!」

 美月本人に拒絶され、桜子は頭を抱えて蹲った。持っていた鋏が床に落ち、大きな音が鳴り響く。

「幼稚園の時に美月が猫耳を出すのを見て、私はとっても驚いた。だけど貴方が泣きながら誰にも言わないでくれって私に向かって叫んだ時、これは私だけに見せてる姿なんだって気付いたの。私が、私だけが一番なんだって思った。その時に思ったの。他の子なんて要らない。どうなったって私は知らない。でも美月だけは私が守るって。美月は、私のことだけ見てれば良いって!」

 瞳から涙が溢れてきた。喪失感と怒りが混じって、桜子の心はあっけなく崩れてしまった。

「どうして江戸川さんのこと蘭世ちゃんって呼ぶの!? 私のこともちゃん付けで呼んでよ、もっともっと可愛がってよ! 私寂しいよぉ!」

 美月は唖然とした、かける言葉も見当たらない。どうすれば良いのかも分からない。

 だが、蘭世は泣き喚く桜子を強引に立ち上がらせた。

「都合の良いこと言って、逃げ出すんじゃないよ!」


 そして、蘭世は盛大な頭突きを桜子に命中させた。

「うあっ……!?」

 彼女は一瞬何が起きたか理解できず表情が固まり、何の受け身も取れず後ろに転んでしまった。

「あのなぁ、他の奴がどうだって良いとか、美月が私のことだけ見てれば良いとか、そんなことあいつが本気で望んでると思ってんのか、あんたは!?」

 桜子は顔を顰めながら立ち上がるが、その言葉に何も言い返せなかった。

「あんたはただ美月を独り占めして、それを正しいことみたいに思い込みたかっただけだろ、それなのに可愛がれだが何だが、寝ぼけたことばっかりぬかしてんじゃねえよ、このドアホ!」

 そして、最後に蘭世はとどめを刺した。

「美月は悲しんでるぞ、他でもねえあんたのせいでな!」

「そんな……」

 桜子は慌てて彼女の表情を見た。美月は確かに泣きそうな顔をしていた。それでも桜子に手を伸ばして、必死に笑っている。

「それくらいにしてくれないか。桜子もきっと分かってくれたから、な?」

 彼女の言葉に首を傾げながら、蘭世は少し後ろに下がった。

「私が悪いの? 美月が悲しんでるのは、私のせい……?」

「それくらい、自分で考えたらどうなのだ」

 突き放すような言い方ではなかった。美月は自分がされていたように、桜子の頭を優しく撫でていた。

「じゃあ美月は、私のことなんかどうでも良いの? 美月の求めてることは何なの、何が欲しいの?」

 自分の求めているものは何か。迷うことも無く、美月はすぐにこう言った。

「吾輩は君と一緒にいたい。だけど君だけじゃない、蘭世と三人で一緒に過ごしたい。二人とも、吾輩のズッ友だから」

 桜子だけが一番じゃない。そして蘭世だけが一番でもない。二人共、美月にとっては大切な友だった。

「今すぐに認めなくても良い。少しずつ寄り添って、話し合って、仲良くなってはくれないだろうか」

 自分だって悲しいはずなのに、美月はそれでも蘭世のことを優先した。桜子はそれにようやく気付き、大きな声を上げて泣いた。

「ごめんなさい、私、私ちっとも分かってなかった……!」

 美月は桜子を抱き締め、彼女が落ち着くまで傍にいることにした。彼女がこのように泣いたのは、もしかすると初めてかもしれない。

「愛想尽かしてもおかしくないのに、あいつの懐広過ぎんだろ……」

 蘭世も口を挟むことは無く、その場を温かく見守っていた。


 その翌日、桜子は今まで盗んだ物を美月に全て返した。

「今まで……本当にごめんなさい!」

 流石の美月も驚く程量が多かった。中学校の頃や、さらには小学校の頃に失くしたと思っていた物まで返ってきた。

「これ、吾輩のリコウダァではないか……」

 何がともあれ、無くなった物は全て取り返す事が出来たので美月は安心した。

「それと……夏休みに、ホームステイに行くことにしたよ」

「本当か!?」

 ホームステイ。以前から外国が苦手だと言っていた桜子にしては、意外な判断だと美月は驚いた。

 だが、それにはちゃんとした理由があった。

「私、今まで美月に頼ってばかりだったでしょ。だからアメリカに行って、今まで経験したことの無いものにたくさん触れて、成長していきたいの」

思えば夏休みも、美月は桜子と過ごすことが多かった。今までとは違う過ごし方も良いかもしれない。まだ先の話だが、彼女は笑顔で頷いた。

「分かった……亜米利加でも頑張るんだぞ」

「うん、行ってくるね」

 桜子は今までで一番の笑顔で、自分の机に戻っていった。

 彼女の変化を感じられるやり取りだったが、やはり最後にもう一度突っ込みたくて、美月は改めてこう言った。

「しかし、よく君はここまでの物を盗んだな……」

 良い感じの雰囲気には騙されない。盗まれた美月の私物は、大きな紙袋から溢れ出てきそうな程あった。


「ああホームステイか、以前そんな手紙来てたな……」

 そして放課後、美月は今までの経緯を蘭世に説明した。彼女は話半分に聞き、最後にそう答えた。

「君は興味があるのか?」

「あるわけないでしょ、もう捨てたわ」

 ある意味案の定の反応だった。しかし気付けば、教室に残っている生徒は美月たち二人だけになってしまった。

「ていうかさ、あんたはそのホームステイとやらで彼女が生まれ変われると思ってんの?」

 その言葉の意味を美月は一瞬理解できなかった。蘭世もそれを察したのか、間髪入れずにこう付け加えた。

「あの子の歪みは簡単には直らない。かれこれ十年近くも拗らせ続けた趣味趣向が、一月程度で直るとは思わない」

「そういうことなら、吾輩も同じことを思っていた。今は大人しくなっても、何かの拍子でまた元に戻ってしまう可能性だって十分にあるはずだ」

 でも、と美月は蘭世が何か言う前に遮った。

「吾輩は言っただろう。少しずつでも良いから変えていくべきだと」

 そこまで言うと、ようやく蘭世も納得した様子で壁に身を預けた。

「もちろん吾輩も変えていきたい。高校生活で様々な知識や経験を積み重ねて、卒業する時にはスウパァグレェトウルトラアルティメット美月になってみせるさ」

「いや、あんたのバカは一生直らないから」

 さて、色々と事件もあったが、これでようやく美月は平和な日常に戻る事ができた。

 だが、彼女はふと何かを思い出した。

「そういえば、君の描いた漫画を読んだぞ」

 蘭世はその言葉に一瞬呆気にとられ、そして吹き出した。

「はっ、私の落書きを……!?」

 絶対に引かれる。彼女はそう思っていたが、意外にも美月にとっては面白かったようだった。

「綺麗な絵で話も入ってきやすかった。男同士の激しい恋愛というのも良いものだな」

「おいコラ待てデカい声でそんなこと言うな!」

 誰かが聞いていたらどうするつもりなのだろう。蘭世は慌てて辺りを見回したが、その反応が面白かったのか美月は笑い始めた。


「ははっ……そんなに怒るなよ、これで許してくれ」

 美月は頭を小さく左右に振って猫耳と尻尾を出した。そういえば、蘭世の目の前で出すのはこれが初めてかもしれない。

「えっ、それケモ耳じゃん!?」

 蘭世は当然ながら大きく驚いた。無言で触って良いかと視線を送ってくるので、美月も無言で頷いた。

 触れた感触は……やはり完全に動物のそれだった。最初は違和感があるが、段々慣れてくるとその柔らかさや細かい動きがクセになってくる。

「肉球は出せんのだ、すまないな」

 美月は謝ったがそれでも十分だった。漫画やアニメで度々目にする猫耳に、実際に触れるというだけでも蘭世にとっては満足だった。

「もうちょっとだけ、モフらせて……!」

 何というか、もう全てがどうでも良くなってしまった。圧倒的な可愛さから来る破壊力に、蘭世は最後に本音が出てしまった。


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