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第一話 出会い

一億年ぶりに書きました。練習を兼ねてぽちぽち書いていく……予定です。合う人はゆっくりしていってね!合わない人は他に素晴らし作品を探しに行ってどうぞ。

見上げれば雲ひとつない澄みきった青空だった。其処へ向かって浮き上がっていくような、底へ向かって落ちていくような、ともすれば恐怖に近い感情を覚えるほど深くて広い空だった。読みかけの文庫本に栞を挟んで傍らに置き、眼鏡を外して表紙の上に乗せる。そうして、もう一度空を仰いだ。昔に比べてずいぶんと悪くなった視界に広がる鮮烈な青色が目に染みる。

「……」

ふと、昔のことを思い出した。ずっと忘れていた幼い頃のことだ。子供の頃、私はよく空を眺めた。辛いときや苦しいとき。そして、悲しいとき。胸の内側に溢れてくるもので息が詰まり、溺れてしまいそうなとき。決まって空を眺めた。空を見つめ、流れていく雲を見つめ、青と白で頭の中を塗り潰そうとした。そうすれば、言葉にできるもの、できないもの。私自身を取り巻いて押し潰そうとしてくる様々なものに耐えられるような気がしていた。子供の頃、空は私の拠り所だった。

「……!」

脚に走った振動が懐かしい記憶から現実に引き戻す。振動の元はジーンズのポケットに入れたスマートフォン。端末を取り出し、眼鏡をかけ直す。画面表示は電話の着信。かけたこともなければ、かかってきたこともない、数日前に初めて知ることになった電話番号が表示されている。緊張、しているのだろうか。身体が妙に熱い。じわりと首筋、背中に汗が浮く。胸の内側で心臓が跳ねている。応答表示に伸ばす指先がかすかに震えた気がした。

「……」

画面に浮かぶ『応答』表示に触れる。通話状態に切り替わった。一秒、二秒、三秒とタイムカウントが始まる。僅かな躊躇のあと端末を耳に当て――

「――もしもし」

声を、出した。どうなるだろう。荒っぽい男の怒声が聞こえるだろうか。聞くに耐えない女の声が聞こえるだろうか。あるいは――あのメールの文面から想像した声が聞こえるだろうか。もしも、想像していた通りの声が聞こえたとしたら。私はどう答えるだろう。

「――」

反応はない。数秒にも、数十秒にも、あるいは数分にも感じる沈黙が続く。もしかしたらとっくに通話は切れているのかもしれないと思ったとき、ふと、スピーカーの向こうでかすかに息を吸う気配がした。

『…想像、していたよりも、優しい声ですね』

一拍置いて、スピーカーから流れてきた声。それはメールの文面から想像していたものより少し低いが、それ以外は考えていた通りの柔らかな声だった。

「…それは良かった。私の方は、想像していた通りの声が聞こえていますよ」

先ほどまでの緊張あるいは不安をよそに、いつも通りに喋り出せた。内心そっと胸を撫で下ろす。

『えっと…はじめ、まして…と言うのもなんだか不思議な気分ですね…』

電話の向こうにいる彼女とはしばらく前からメールでやり取りをしている。知り合いというほど互いのことを知っているわけではないが、初対面というほど知らないわけでもない。

「確かに、『初めまして』という感じではありませんね。本当に、不思議な気分です」

思わず笑ってしまう。電話向こうの彼女も楽しげに笑う。こうして電話が来たということは、事前の取り決め通りに彼女はこちらに到着している。文庫本をバッグにしまい、ストラップを肩にかけて立ち上がる。

「私は今、駅前広場にいます。今どの辺りですか?迎えに行きます」

『…ああ、やっぱり。きっと、あなただろうなって思ってました』

「えっ…?」

予想していなかった彼女の言葉。

『えっと、こっちです。東雲さんから見て左の方。横断歩道のところにいます』

彼女の声が示す方へ目を向ける。駅前広場と駅舎を隔てる道路の向こう。青に変わったばかりの歩行者信号の下。私に向かって小さく手を振る少女がいた。小さな空色のキャリーバッグを傍らに置いた、白いワンピース姿の少女がスマートフォンを耳に当て、こちらを見ている。

『えっと…やっぱり『初めまして』ですね…。えへへ、なんだか急に緊張してきました…。初めまして、東雲薫さん』

吹き抜けていく爽やかな風に乗って白い裾が遊ぶ。陽光に照らされて深く、鮮やかに艶めく髪が揺れる。『見惚れる』とはこのことを言うのだろう。私よりもずっと年若い少女のはにかんだ笑顔に私はただ見入った。

『あっ、今、そっちに行きますね』

点滅し始めた信号を見て彼女は通話を切り、スマートフォンをしまう。そこで私も我に返った。バッグを背負い直し、深呼吸をひとつ。キャリーバッグを引きながら小走りに横断歩道を渡り、駅前広場に入ってくる少女を待つ。

「お待たせしました…!」

息をかすかに弾ませた少女と間近で向かい合う。

「うん。遠いところから本当にお疲れさまでした」

少女を労いながら、内心があまり表情に出ないという自分の質を今日ばかりは感謝したい気分だった。こうして目前に見る少女は圧倒される美貌の持ち主だった。まさに『モノが違う』というやつだ。長い睫毛に彩られた涼しげな目元。透き通るような白い肌。顔形のひとつひとつが小さく、美しく、均整が取れている。時折眺めるテレビの向こう側で活躍する女優やアイドルに引けを取らない。彼女自身は至って普通にしているのだろうが、まとっている雰囲気からして群を抜いている。

「ああ、そうだ。挨拶が遅れて申し訳ありません。初めまして。天際穹さん」

そう言うと、パッと華やかな笑みを少女――天際穹は浮かべた。



「重く、ないですか?」

「ええ、このくらいなら大丈夫ですよ。それに、店はすぐ近くですから。ほら、あの角にある店です」

心配そうにこちらを気遣う穹に笑いかけ、行き先を指差す。店までの距離を見て穹は安心したようにほっと息を漏らした。

「すみません。荷物を持っていただいて…」

「段差が多いとこの手のバッグは持ち運ぶのが大変ですから。私も以前よく苦労したものです」

閑職に回される前は出張する機会も多く、キャリーバッグにはよく世話になった。持ち運びに便利な反面、雨に濡れやすかったり、段差に引っかかったり、思った以上の重さになって積み降ろしに苦労することもあった。そんな自分の記憶と比べると、穹の荷物は少々不安になるほど軽い。旅行で数日滞在するという話だったが、年頃の少女の荷物がこれだけ軽いものだろうか。少し気にはなるが、わざわざ問うほどのことでもない。

「こっちまでは迷わずに来られましたか?」

当たり障りのない話題を振る。

「はい、なんとか…。人が多くて、出入り口もたくさん入り組んでて、迷いそうになりましたけど…」

困ったように笑う穹の言葉に私も苦笑を返す。

「それでも、きちんと目的地まで到着できるのは大したものですよ。私が初めてこちらに出てきたときは何度も何度も迷って苛立つのを通り越して泣きそうになったものです」

仕事に遅刻して先輩にこっぴどく怒られたこと、わざわざ早起きしても遅刻ギリギリになったこと、散々な目に遭った思い出が蘇る。

「今は『コレ』がありますからね」

ジーンズのポケットからスマートフォンを引き出し、指先に摘んだまま軽く振る。

「そうですね。困ったときは大体スマフォで何とかなっちゃいます」

便利な世の中になったものだ、と言いかけて口を噤む。あまりにも年寄りじみた言葉は穹も面白くないだろうと思ってのことだ。私自身もせっかくの機会に余計なことは言いたくなかった。

「このお店ですね?」

話をしているうちに目的地の喫茶店に到着する。窓から見える店内は程よい人の入り具合。

「ええ、ここです」

私が答えるや穹は先に店内に入り、扉を押さえて私を招く。

「どうぞ、東雲さん。先に」

荷物を持った私に対する気遣いをありがたく受け取り、穹の横を通って入店する。薄く香水をつけているのだろうか。それともシャンプーなどの匂いなのだろうか。ほの甘い香りが鼻をくすぐった。

「いらっしゃいませ。お二人でよろしいでしょうか」

白と黒が調和した制服をきっちり着込んだ店員の問いに頷く。

「テーブル席でよろしいですか?」

「…テーブルで良いですか?」

「えっ?あっ、はい。大丈夫です…」

普段、こういう喫茶店に立ち寄ることは少ないのだろうか。空はそわそわとした様子で周囲を眺めている。

「テーブルでお願いします」

「承知いたしました。こちらです」

店員に案内されて席に落ち着く。

「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」

一礼して去っていく店員を見送り、備え付けのメニュー表を広げる。

「さ、どうぞ」

穹にも見えるように置く。

「私もここは初めてなので何がオススメかは紹介できませんけれど」

「そうなんですか?」

「何度か外から見かけては入ってみたいと思っていたんですが、なかなか機会に恵まれなかったもので」

無為な仕事。無味乾燥とした毎日。淡々と流れていく時間に押し潰され、新しいこと、新しい場所へ踏み入っていく気力は今日の今日まで萎えきっていた。

「…今日は、その機会ということですか?」

「そういうことです。天際さんには感謝しないといけませんね」

穹に笑いかけると彼女も楽しげに笑い返してくれた。こんなにも和らいだ気持ちになるのは久しぶりだった。

「もう食事は済ませていますか?軽食もありますよ」

「えっと…飲み物だけで…」

穹が言いかけたとき。

「あっ…」

小さく、可愛らしい音が響いた。穹の白い頬がみるみる桜色に染まり、隠すようにお腹を押さえて縮こまる。

「ちょうど私もお腹が減ってまして。一緒に、食事もしましょうか」

「…お願いします…」



それぞれメニューを選び、店員に伝える。

「かしこまりました。出来上がるまで少々お待ち下さい」

一礼して去っていく店員をもう一度見送る。水を一口飲み、考えを巡らせる。どんな話をしていけばいいだろうか。ここまでの動きは事前に考えていたが、肝心のここからをどうするかまでは考えきれていなかった。

「あの…今日は、ありがとうございます。急な話だったのに、こうして会っていただいて」

先に口を開いたのは穹だった。

「お礼を言われるほどのことは…。それを言うなら、私も、君に会ってみたかった。色々と不安に思ったでしょう。会ってくれたことにお礼を言うなら、私の方こそ、です」

世辞でもなんでもなく、本心だった。

「お互い様というやつですね。実際会ってみたら、とても綺麗なお嬢さんで驚きましたが」

「へっ!?そっ、そんな…綺麗だなんて…。そんなことは…。それに、東雲さん、驚いたようには…」

「見えなかった?」

穹の言葉尻を引き継ぐ。

「…はい。見えませんでした…」

「実は…ともったいぶるような話でもないですね。私、内心があまり顔に出ない質のようで。知り合いには『驚かせ甲斐がない』とよく言われてますよ」

一度会話が始まると、思った以上にすんなりと話せる。

「それで…」

穹は私の説明に得心がいったとばかりに頷く。

「…やっぱり、メールでやり取りしていたときから思ってた通り…。広場にいる東雲さんを実際に見て、思った通りです」

両手でコップを握り、一口飲んで穹は嬉しそうに笑った。

「思った通り?」

「はい。『素敵なおじ様』って感じだなって…」

そこまで言って恥ずかしくなったのか、穹の頬が先ほど以上に赤くなる。

「すっ、すみません…。変なことを言っちゃいました…」

最初に彼女を見たときの印象は深窓の令嬢。一線を画する美貌に触れ得ざる神秘性を感じたが、こうして話をしてみると印象がガラリと変わる。微笑ましい年頃の少女そのものだった。庇護欲、あるいは父性とでも言うのだろうか。不思議な感覚が胸を満たす。

「いえ、謝ることはありませんよ。こんな冴えないオジサンには過ぎた評価でとても嬉しい」

「オジサンだなんてそんな…」

一言交わすたびに気持ちが解れる。最初は互いにぎこちなさが残っていたものの、最初にメールをやり取りするキッカケになった本の話になった辺りから自然な会話ができるようになっていく。

「お待たせいたしました」

気付くと注文した料理が運ばれてくるまで会話が弾んでいた。穹はサンドイッチと紅茶。私はパスタと紅茶。それぞれ受け取る。

「ご注文はお間違いないでしょうか?」

「ええ。大丈夫です」

「では、ごゆっくり」

一礼する店員に会釈を返し、視線を戻すと穹がじっと私の手元を見ていた。

「どうかしましたか?」

「へっ?あっ、いえ…」

「?」

「あの…大したことじゃないんです…。ただ、その…東雲さんのイメージがコーヒー派って感じだったので…」

わたわたと言い募る穹が可愛らしくて笑みがこぼれた。ほんの少し身を屈め、内緒話をするように声をひそめる。

「実は…苦いのは得意じゃないんですよ…。これでもかと甘くしないと飲めないんです…」

神妙な顔をしていた穹はそれを聞くや小さく吹き出した。クスクスと目に薄っすら涙を浮かべて笑う。それは私まで嬉しくなる光景で、久しぶりに『幸せだ』と素直に感じた。私は食事をしながら多く会話をするタイプではなかったが、穹もそうだと聞いて静かに食事を進める。ふと思いついたので、穹が紅茶を飲んだところで話を振る。

「ああ、そうだ。天際さん。デザートにケーキを頼みたいのですが、天際さんもどうですか?」

腹の虫が訴え出るほど空腹だったのなら、サンドイッチだけでは少し足りないかもしれないと水を向けてみる。

「あの…私も、いいんですか…?」

「ええ、もちろん。このパンケーキはどうでしょう?」

「わっ…美味しそう…」

穹の目が輝く。思いつきは間違っていなかったらしい。ちょうどこちらに顔を向けた店員に向け、手を上げる。

「追加をお願いします。パンケーキセットをひとつと、ショコラケーキをひとつ。それと、紅茶のお代わりを二人分お願いします」

「かしこまりました。紅茶は先にお持ちしますか?」

「料理と一緒でお願いします」

「かしこまりました。少々お待ち下さい」

腕時計を見る。時刻は十一時を回っている。デザートを食べ終わり、店を出る辺りで昼時に向けて人が増え始める頃合いだろう。さて、このあとはどうするべきか。私一人で考え込んでも答えは出そうになかった。

「天際さんはこのあと、何か希望はありますか?行ってみたいところや見たいものは?」

聞いた途端、穹の動きが止まる。

「……」

「…?」

穹は『どうしよう…何も考えていなかった…』と言わんばかりの表情をしている。私とは正反対に内心がよく顔に出るのだな、と思いつつ考えを巡らせる。メールをやり取りする中で唐突に出てきた旅行の話。旅行にしては少なく思える荷物。何か、訳ありの予感がした。

「天際さん」

「……っ」

ピクリと穹の肩が小さく跳ねる。やましいことがあり、大人に叱られること、咎められることを恐れる子供のような反応だった。

「初めて顔を合わせて幾らも時間が経っていない私に言われても難しいと思いますが…何か事情があるなら、話しても大丈夫ですからね」

「……」

反応は特にない。だが、反応を得るための言葉ではなかったのでそれ以上は言い募ることはしない。紅茶を飲み、このあと何をするか考えることにした。目的が定まっていないとすれば遠出は難しい。近場をあれこれと見て回るのも落ち着けないだろう。ふと窓の外に目をやったとき、良い案を思いついた。

「天際さん」

「えっ!?あっ、はい!」

私と同じように何かを考え込んでいたのか。穹は驚いた様子で顔を上げる。

「このあとのことですが、欲しい本があると言ってましたよね?近くに大きな本屋があるので、そこを見に行きませんか?」

「えっと…はい、お願いします」

好きな本を見て回れば、多少なり気持ちが解れるかもしれない。そのあとは近くにある静かな公園で少し休み、映画館に行って様子を見ようと決めた。



「わっ…すごい…」

駅前のコインロッカーに荷物を預け、本屋に入ると穹は小さく感嘆の声を上げた。広いフロアに大型の本棚が並び、多種多様な本が所狭しと並ぶ。本好きなら心躍る光景だろう。

「すごいでしょう。私も何度かここを使っていますが、見るたびに楽しくなる光景です」

「こんなに大きいとは思いませんでした…」

落ち着いた音楽の流れる店内を歩きながら穹は目を輝かせている。

「こんな本まで置いてるんだ…!」

目に留まった本を手に取って喜ぶ穹。本屋を選んだのは正解だった。喫茶店で感じた気まずさ、よそよそしさは鳴りを潜め、表情は自然な明るさを取り戻している。

「天際さんは普段どんなところで本を?」

「わたしの住んでいるところの本屋さんはあまり大きくなくて…。なかなか欲しい本が見つからないことも多いんです。だから、ほとんど通販ですね」

答えながらも視線は本棚を行き来している。よほど楽しいのだろう。同じ本好きとしては彼女の気持ちはよくわかった。

「目的の本をピンポイントで買えるのはいいですが、こうして本に囲まれて目に留まるものを探す楽しみがありませんからね」

「!」

私の思った通りだったらしい。穹はコクコクと勢いよく頷く。

「天際さんの欲しいと言っていた本があるとすれば…」

案内板を眺め、文庫コーナーを探す。つい先日発売されたばかりなので在庫の心配はしなくていいだろう。アタリをつけ、穹の方へ向き直る。

「どうしますか?このまま見て回ってから目当ての本を探すもよし、先に目当ての本を見つけるもよし、というやつですよ」

「それじゃ見てまわ…あっ、いえ、早く本を見つけて買いたいです…」

「そうですか?普段あまり店内を見る機会がないので色々と見て回ろうと思ったのですが…」

そう言って穹に笑いかける。

「あう…その、やっぱり…ゆっくり見る方で…」

言外に私に遠慮しなくてもいいのだと伝えたつもりだったが、上手く伝わったらしい。あちらこちらと視線を巡らせて楽しげに通路を進む穹のあとに続き、ゆっくりと歩いていく。

「……いいもんだなぁ…」

穹の華奢な背中を眺めながら普段の口調に戻してつぶやく。久しく感じていなかった『幸せ』『楽しい』という感覚。胸を暖かくするそれをじんわりと噛み締めた。



かの有名なアルベルト・アインシュタインが残した名言がある。曰く――『熱いストーブに手を置く一分間は一時間に等しく、美しく愛らしい女性と過ごす一時間は一分に等しい』――というものだ。

「名残惜しいけど楽しかったです」

お目当ての本が入った袋を大切そうに抱え、満足げに笑う穹を見てそんなことを思い出す。ゆっくりと歩き回りながら本を眺め、言葉を交わす。それだけのことなのに、穹と過ごす時間は飛ぶように過ぎていく。

「それは何より。時間もちょうどいい頃合いですね」

スマートフォンを取り出し、映画館のウェブサイトを開くのと合わせて時刻を確認する。上映開始まで二十分ほど。座席予約は済ませているので、あとは映画館に行って発券するだけでいい。

「映画館に行くのは本当に久しぶりです。なんだかワクワクしてきました…!」

「映画館はすぐそこですが、早めに行きましょうか」

「はい!」

いくつか上映しているもののうち、意外にも穹が選んだのは巨大ロボットと巨大怪獣が人類存亡をかけて戦うという作品だった。

「実は私も見てみたいと思っていた作品なんですよ」

「そうなんですか!?」

「ええ。実はこの手の題材がとても好きでして。しばらく前からなかなか手を伸ばせていませんけど、アニメも見ていましたよ」

「…意外です」

目を丸くしている穹に苦笑する。

「年甲斐がなくて引いてしまいますよね。お恥ずかしい」

「そんなことないです!」

穹は私の言葉を勢いよく否定する。

「どんなことでも、好きなことは素敵なことです…。好きなことは、いつまでも好きなままでいいんです…。恥ずかしいなんてことは絶対に…絶対にありません」

何か思うところがあるのだろうか。まるで自分に言い聞かせているような、頑なな、どこか悲壮感に近いものが漂う言葉だった。

「……」

「……」

少しの間、穹と私の間に沈黙が降りる。彼女の内心を推し量ることはできないが、先ほどの言葉が彼女にとって大きな意味を持つものであることは薄っすらと感じることができた。

「…ありがとう、ございます」

「えっ…?」

「大切なことを教えてもらえたので、そのお礼です」

穹に笑いかけ、前を向く。穹が言ったことを失ってしまったとき、人は様々なしがらみの中で好きなことを好きと言えなくなり、建前が本音に変わり、いつしか好きであったことを忘れ、時に侮蔑や揶揄をするようになるのだろう。

「わたし…その、変なことを勢い込んで言っちゃったのに…お礼なんて…」

「いいんです。私が、いいことを教えてもらえたと思って、天際さんにお礼を言いたくなった。ただ、それだけのことですから」

不安そうな穹にもう一度笑いかける。

「さぁ、上映が始まった映画に途中から入っていくのはあまり好きじゃないので、少し急ぎましょうか」

「そう、ですね…。うん、私もそれは好きじゃないです」

私の言葉に穹は笑いながら頷く。そして、歩調を早めて私の隣に並んだ。



「――すっごかったです…」

余韻から抜けきらない様子で穹がつぶやく。

「ええ。確かにあれはすごかった…」

私も穹と同じく、映画を見終わった余韻に浸っている。鋼鉄の軋む音、巨大怪獣と巨大ロボットがぶつかり合う轟音がまだ身体の芯を震わせているような気がする。

「すごかったです…。なんていうか…すごかったです…」

上気した頬。とろりと惚けた目。妙に艶めかしい横顔から意識的に目をそらす。昼間は汗ばむくらいの陽気だったが、日が傾きつつある今は心地よい気温に変わっている。興奮で火照った身体を風が優しく撫でていく。

「楽しんでもらえたようで良かった。うん、私も、とても楽しかった」

こんなに充実した時間を過ごしたのはどれくらいぶりだろうか。あまりにも楽しく、温かく、幸せな時間だった。だからこそ、迫ってくる夕暮れの気配に、一日が終わりへと向かう気配に、寂しさを覚える。そして、また死んだような日々に戻ることを思うとあまりにも虚しい。

「東雲さん…?」

「ん…ああ、すみません…。少し、考え事をしていました」

表情――には出ていないはず。仕草にでも内心が出てしまったのだろうか。穹が心配そうにこちらを見ていた。

「さて、このあとはどうしましょうか。少し早いですが夕食にしますか?」

「夕食…そうですね…ゆう、しょく…」

言いかけ、穹の動きが止まる。

「…?」

この様子には覚えがあった。本屋に行く前、行きたいところ、やりたいことはないかと聞いたときの反応と同じだった。

「天際さん…?」

「はっ…!?はいっ!?」

何やら挙動不審だ。

「お腹が減っていないのなら、少し早すぎるかもしれませんが、宿に戻りますか?そうするなら、近くまで送っていきますよ」

「――っ!」

何気なく口にした申し出。それが引き金となったのか。穹は意を決したような表情を浮かべた。

「あっ、あの!しっ、しっ、しののめさん!」

緊張しているのか。あるいは不安なのか。穹は裏返りかけた声で私を呼ぶ。

「はっ…はい…」

突然の豹変に気圧される。

「しょ、初対面でこんなことを言われてとても…とても困って迷惑に感じると思いますけど…!」

穹は固く目を閉じ、膝の上で握った拳を震わせ、大きく息を吸った。

「わたしを、東雲さんのお家で生活させてくれませんか!?」

内心が顔に出ないのは他人に言われ、自覚もあり、よく知っていた。しかし、本当に驚いたときは関係なく表情に出るのだとよく晴れた初夏の休日、私は天際穹という少女に教えられた。こうして私は天際穹と出会い、共に過ごしていくことになる。

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