夏懐古
縁側で夕涼み——そんな事ですら贅沢に感じる今日この頃。
「如何お過ごしでしょうか」
突然、耳元で囁かれた静かな声を、やけに遠く感じてしまう。
この世の全てを見透かしたような顔で都会に出て早三年。
一台の扇風機と共に過ごす夏も、もう三年。
あの旅立ちの日にした顔を——僕はもう忘れてしまったのかもしれません。
六畳一間、アパートの窓際に腰を掛け、今日も夕日を凝視する。
その先に何があるというのか……詩人紛いの言葉も、もはや力を失いました。
抜け殻——鳴き続ける事も出来ない以上、ミンミンゼミにも敵おうはずがありません。
ただ何も得ず、何も与えず、今日という日をやり過ごす。
「もし……如何お過ごしでしょうか」
再び聞こえた声に、嫌々ながらも振り返えりました。
「お久しぶりで御座います」
そこには幾分逆光に照らされてはいましたが、確かに人がいたのです。。
先にも述べたように、お世辞にも広いとはいえないこの部屋に、自分以外の誰かがおられます。
勿論、知り合いでもなければ、迎え入れた覚えも御座いません。
不審者——と罵れば簡単だったのかもしれませんが、ご覧の通り、僕は抜け殻です。
「さて、どちら様でしょうか」
間抜けな言葉だと罵って下さい。
危機感もなく、焦燥感もなく、自ずと口から出た言葉がそれだったのですから。
「お久しゅう御座います。よもや、私のことをお忘れですか?」
されとて、その御仁は微笑ましいものを見るかのように笑ったのです。
「はて、僕にはあなた様のような人物に知り合いなど……」
見てくれだけで言うなれば、綺麗な人でした。
場にそぐわぬどころか、生まれ落ちた時代すら間違えてしまったかのような透明感。
手を伸ばせど届かず、然りとてそれは其処にあるもの。
そんな言葉が自然に思い浮かぶ程度に、それはこの僕にっとって異質だったのです。
「左様で御座いますか。では、思い出すも出さないも人次第、自己紹介は後々に」
口元に人差し指を当て、その御仁はまたしても微笑んだのです。
これには僕も呆気を取られ、元々持ち得なかった毒気すらも失ってしまいました。
「ご用件をお聞きしても……?」
そのため、この様な無様な言葉を掛けてもお見逃しください。
僕にはもう、状況把握に努めることしか出来なかったのです。
「残暑見舞い申し上げます。立秋間近、ご無沙汰しております」
三度、客人は微笑みました。
その言葉が元々、文字として記されるためにあったのだとしても、違和感も感じません。
どうしてこの御仁はそれほどまで綺麗に微笑まれるのか。
僕には不思議でなりません。
「客人、何がそんなに可笑しいのでしょうか」
思わず口をついて出た言葉は、またしても何とも度し難い不様なものでした。
しかし、客人はその言葉にも気分を害すことなく、
「可笑しいも何も、私はそもそも、そういったもので御座います。そういう風にしか出来ないものであります故、貴方様にも今一度お見知り置き頂きたく存じます。それに——約束とは双方で交わすもので御座います。私に見覚えは御座いませんか」
そう首を傾げます。
無論、僕にはその御仁に見覚えもなければ、記憶をどれだけ浚おうが欠片すらも思い出せません。
「すいません。忘れてしまっていたのなら、謝罪します。そもそも僕にはあなたの存在すらも思い出せないのです。宜しければ、今一度、お教え頂けませんか」
恥を凌いで僕は客人に頼みました。
いやいや、そもそもそこまでして知りたかったのかと言われれば首を傾げざるを得ませんが、何故でしょうか。知らないといけない。知っていたのなら、思い出さないといけないという焦燥にも似た感情を覚えてしまったのです。
「可笑しな人ですね。私が何者なのかは貴方自身が一番知っているはずでしょうに。見て見ぬ振りをしているのではなく、見失ってしまっているのですよ」
見失っていると申されても、それではまるで、この御仁が常、僕の近くに居たかの様な物言いではないか。
何もかもを見失い、何もかもを放り投げた私にとって、確かに失くしたものは多いでしょうが。それでも、ここまで特徴のある御仁を忘れてしまうとは到底思えません。
しかし、そこでピンときてしまったのです。
ああ、成る程、これはそういう事ですか。
よくある小説の様に、よくある唄の様に、「破れた夢」が形となって僕の前に現れましたか。
これはまた、夏の季節も粋なことをしてくれるものです。
挫折して、何もかもを失って、それでもまだ、僕の目にこうして現れてくれるというのでしょうか。
「客人。悲しいかな、今はまだ歓迎出来る状況にありません。何故なら、僕にはまだ、それを受け止める度量も、受け入れる立場も御座いません。早々にお引き取り下さい」
何の躊躇もなく出たその言葉に、それでも客人は微笑みました。
「何を勘違いなさっておられるのか。私はあなたの夢でも無ければ客人と呼ばれる立場でもありません。思い出して下さいませ。忘れてしまったのなら、耳をすまして下さいませ。ほら、聞こえますでしょう? この季節のみ鳴く、あの声が……」
言われた通りに耳を澄ませど、聞こえてくるのは街の喧騒と蝉の鳴き声。
「はて、それでは君は——」
「良き日をお過ごしになられておりました。良きお顔で駆け回っておられました。私はそれをずっと見ておりました。ずっと見ておりました故、その様な顔をなされる姿は見たく御座いません。思い出して下さいませ。残暑見舞い申し上げます。それは其処にあり、形は無く、唯、あるものなのです。ようよう考えて下さいませ。残る時間もあと僅か、お体にはどうぞお気をつけ下さい」
その言葉と同時に客人の姿は薄れ、私は幻想の様な時間から解放されました。
その言葉が何を意味していたのか。
今となっては分かりません。
唯、今になって思い出したのです。
幼い日にはしゃいだ、あの夏の日を。
何も持たず、何も無かったにも関わらず、毎日を燦燦と暮らしていた日を。
暑いと述べながらも、それでも笑っていられたあの日々を。