頭取りの家
引き戸が大きな音を立てて開いた。たくさんの靴が溢れている玄関で、新品なのかよれてしまっているのか分からないスニーカーを脱いだ。
室内は電気が一切点いておらず月明かりと街灯の明かりだけが頼りだった。一足だけ用意されているスリッパを履き、わたしは左の廊下に進んだ。
広い二部屋に続く廊下は短くも長くもない距離だ。左手の縁側から入る明かりのおかげで転ぶことはなさそうだった。外は隣接する家や、道路を挟んで停車する白の軽トラが見えた。もっと遠くは海が見える。
虫の声と部屋から寝息とイビキが聞こえ始めた。手前の部屋の障子に水色の光が動く模様を伴って映っている。わたしはそ手始めにその部屋へ入った。
仏壇と光る提灯、お供え物の果物、壁に二つの遺影と埃を被ったピアノがある部屋だった。床は畳で特有の臭いはしない。押し入れには何も入っていなかった。ピアノの蓋の上に布が掛けられている。ピアノの上にはわたしの知らないファンシーな人形が座っていた。
もう一つの、奥の部屋は襖が隔てているだけで、部屋は繋がっている。襖を引いて部屋に入った。
タンスと、タンスの上にある物が入ったカゴがある部屋だった。押し入れには何も入っていない。タンスは何か服のような物らしき物体が入っていたが、記憶の中でよく覚えていないのか、ぼやけて何が入っているのか分からなかった。カゴの中は白いタオルと書類が入っていた。文字はぼやけている。
仏壇からリンの鳴り、お線香の香りが漂ってきた。仏壇前に戻ると、何も無かった仏壇内に戒名がはっきりと書かれた位牌などが現れた。外から聞こえてくる虫の鳴き声を消すようにイビキが大きくなった。イビキの持ち主はこの部屋で寝ているのか、はたまたイビキではない何かか。
わたしは玄関まで戻り、今度は右にある、居間という部屋に入った。
廊下は暗く夜だったが、対照的に、この部屋は電気が点いていないにもかかわらず明るかった。テレビは映像が映っているがぼやけている。角に点いていないヒーター、二つ並べた足の短いテーブル、テーブルの上には海産物が使われた料理が並んでいたが匂いは無い。何か食器類が入っている戸棚が壁沿いに一つ。戸棚の中で何匹も折り鶴が重ねられて作られた大きな鶴が存在感を放っていた。記憶の持ち主にとって何か思い出深い物の一つなのだろうか。
他人の家へ勝手に上がるのは今回が初めての経験だった。わたしは人の記憶を象り形にする家業を継がなければならなかったが、未成年のわたしにはまだ早い仕事だった。何故わたしが記憶に入って仕事をしているのか。先代の父がころりと死んでしまったからだ。
開いていた戸棚から鶴がころりと落ちる。父も簡単に死んでいった。この記憶の中で。
まだ行っていない場所から包丁とまな板の音、トイレの水が流れる音、階段から誰か降りてくる音が聞こえてきた。心なしかイビキが唸るような、口を開かずに何かを話すような音へ変わってきている。わたしは玄関に戻って帰らなければならないが、居間から出ることが出来なかった。
襖が開かない。縁側から足音が聞こえてきた。家業にあたって一番危ないのは、記憶の中で自由に動ける人間と会うことだ。階段の足音はただ降りてくる音が永遠に続いているだけであり、外からの足音とは違って近づいては来ない。
砂利の上をすり足で歩く音がゆっくりと大きくなる。一定のテンポではない音がわたしの呼吸をみだしていった。
やっとの事でわたしは襖を開けることが出来た。しかし足音は近づいてくるだけであって何者も近づいてはいなかったのだ。
唸っているのか、何かを話しているのか分からない声はわたしの中から聞こえてきていた。
○ ○ ○
二世帯住宅として建てられた家は年老いていた。
宗二の祖父と祖母が死んでからは拍車を掛けたように壊れていった家には、もう住めないほどに壊れてしまったのだ。宗二は父親と、父の兄、弟とその家族で家の前に立っていた。『頭取り』という店が昼に来るために待っていた。
「あと十分ぐらいで来るな」
父親の兄は祖父の形見の腕時計をしていた。彼は腕時計を捨てるつもりだったらしいが、頭取りに止められた為に、渋々着けているようだった。
「頭取りって何なの?」
「さぁ。お父さんもよく知らない。初めて会うからな」
宗二と父親は他県に住んでる。この家には祖母の葬式ぶりで、五年ぶりだった。祖父が死ななければ二度と立ち寄らなかったかもしれない。
久しぶりに見た従姉妹は潮風に軋む髪を気にしている。年が一つしか離れていないにもかかわらず、話しかけづらい雰囲気と成長に彼は挨拶も出来ていない。
「あれじゃない?オレンジの車」
田舎の坂道を上ってくる明るい車が、喪服姿の宗二達を存在感だけで消しにかかっていた。
オレンジのワゴンから出てきた人は喪服姿だった。丸い頭の形を生かした短髪で、若い男だった。
「ここはあまり変わっていませんね」
頭取りは遠くに見える海や山、家の向かいにある錆びた軽トラを見て呟いた。誰も拾わなくてもいいような話し方をしてく。彼の言葉をよく聞き取ろうとするのは従姉妹だけだった。
「四代目の、今日のことなんだが」
頭取りと接点があるのは父の兄だけだった。頭取りは叔父からボロボロになった内装が見える家を見ながら話し込み始めた。
「家をそのままには出来ませんが」
「形として残したいんだ」
「模型でも構わないのでは」
「そのままがいいんだ。だから呼んだのですが」
浜訛りがありながらも叔父が話していく。
しばらくして頭取りがワゴンに戻っていった。
「少し離れた方がいいかもしれない」
「叔父さん、あの人って何者なの?帰るの?」
「頭取りってのは、人の記憶の中に住んでいる人間だ。頭取りは人の記憶を形にするんだ。その道具を取りに行ってる」
今は四代目なんだが、三代目はころりと死んだ。それもこの家の中でな。
「まだ子供なのに偉いなぁ」
宗二の父は子供を目に映していた。宗二は若い大人に見えていた。
「ほら離れろ。巻き込まれて死んじまうぞ」
砂利を踏みながら離れる彼らと反対に、頭取りは何も持たずに家へ入っていった。
× × ×
隣家で昼餉をご馳走になっている間に、頭取りは折り鶴を重ねて作った鶴を片手に戻ってきた。
「私が作ったやつ…」
まだ俺が小学生の時に、鶴の折れない従姉妹の前で鶴が折れることを自慢した翌年に、従姉妹が対抗心を燃やして作った物だった。当時の俺は得意げに見せてくる従姉妹を見ても、ブームが去って行ったこともあり「ふーん」の一言で終わったのがいけなかったのか、矜恃を傷つけられたらしい従姉妹は取っつきにくくなったのだ。
「きれいな家でしたね。物も少なく人も少ない。その分、とても良くない物でした」
「と、言うと」
「一度では終わりませんでした。これはそこの少年にでも持たせると良いでしょう。明日、全て終わりますので、朝に返してもらえれば良いです」
細い目が無表情のまま、更に細められ、頭取りは鶴を俺に渡した。
みんなで今日は住めないほど壊れた家で泊まることになった。驚くことに、家は昔と変わらない、壊れていない家に戻っていたのだ。
「そうでしょう。最初から壊れていると見えていたのは、貴方と叔父殿だけでしょうね」
巻き寿司をお手玉のようにして遊んでから食べた頭取りは、とても行儀が悪かった。
× × ×
ガラガラと音を立てて玄関を開けた。宗二は「ただいまぁ」と気の抜けた声を出した。自身の声に誰からも返事が無い。今日は何か用事があっただだろうかと履きつぶしているスニーカーからスリッパに履き替えた。
家に入って左の、一番奥にある部屋を見た。泊まりに来ると必ず用意される部屋だ。
荷物さえ置いてない部屋に、宗二は置いて行かれたかと思った。しかし今日に帰ると言われていないので父親が帰ることは無い。ならば、どこに荷物が消えたのか。押し入れに荷物は無く、それどころか布団さえなかった。
隣の仏間は宗二達以外の人が泊まりに来た時に使われる。父親の弟が帰ってきたので何か物があるはずだが、ピアノと仏壇以外は何も無かった。
盆提灯の明かりが宗二の顔を照らしている。帰ってから手を合わせていなかったなぁ、とマッチでロウソクに火を着けて線香を差す。リンを鳴らした。
水色の明かりに花柄の模様が回っている。盆提灯だけが部屋の中の唯一の明かりだった。ロウソクを消して障子を閉める。今度は家族が集まる居間へ向かった。
ドンドンドンドン。ワァワァワァワァ。がさりがさり。
野球中継特有の音と、新聞紙の音が聞こえた。曇りガラス戸の玄関から見える外は暗く、台所から匂う夕飯の香りに宗二は居間に入る。
開けっ放しの窓の外は午前辺りの明るさ、ようは居間だけが別の時間帯であったが彼は気づかない。敷いてある座布団に座って誰かを待った。
テーブルの上には刺身や煮物、漬け物がそれぞれ大きな皿に分けられて鎮座していた。
食べてもいいか。いいや、まだ誰も来ていないし駄目だろう。でもお腹は空いた。つまみ食いぐらいはいいだろうか。
普段はそこまで食い意地を張らず、大人しく待っていられるタイプの人間であったが、この時ばかりは自制が効かない。小皿によそって箸を選んでいる時にやっと、宗二は戸棚に入っている鶴に気づいた。
宗二が幼い頃に死んだ曾祖母が使っていたイスの後ろにある戸棚は、皿以外に鶴やお菓子、曾祖母が気に入った物が入っている。彼は昔、中に入っていたお菓子をよく貰っていた。
鶴は確か、頭取りが持っていったんじゃ。それも渡されて自分が枕元に。
テーブルの上には海産物を使った料理が並んでる。それも美味しそうな見た目をしていたが、食欲に訴えかけるようなモノではないのだ。手に持っているモノは食べ物ではない。
テレビには何が映っているだろうか。野球中継だろうか。しかし何も見えてはいないのだ。どんなに目を凝らし近づいて観ても、何が映っているのか、本当に野球なのかも分からない。
この部屋には誰も居ないにもかかわらず、窓側に置かれた新聞が捲れている。捲られていなくとも捲る音だけがするのだ。
気づいてしまってからは宗二の手には負えなかった。外から砂利を踏んで近づいてくる音、何かを食べる音、捲る音、テレビの音。誰かの視線。
彼は無意識に、くたびれたスニーカーを履いていた。も外は暗く、「もう遅いから遊びに行くな」と言われているような声が居間から聞こえてしまっていた。居間から見た外はまだ明るい時間帯であるというのに。
重たい時計の音が鳴る。十二時になると鳴る時計だ。宗二も子供の頃はよく跳ねて驚いたが、今の彼にとっては跳ねるよりも酷く、心臓が飛び出していくほどであった。
「またハエ、殺しに行くの?待って、今行くから」
小学生ぐらいの背丈の少女が桃色の虫たたきを持って、宗二の後ろに立っていた。日中に虫たたきで、駐車場にいる大きなハエを叩き殺していたことがあった。勿論、二人の仲が悪くなるずっと前のことだ。海が近いからか、家から魚特有の臭いからか、集まってきたのだろう。
嬉々として殺していた頃と違い、宗二は大人になっていた。今では虫を見ただけでも悲鳴を上げてしまうし、記憶の中のあのハエは、まるまると太り、重たい液を出して死んでいったのだ。
「もう暗いからあかねちゃんは家にいなよ。俺は用事があるから」
「用事って何?そうじだけズルイ」
従姉妹は虫たたきを大事そうに持っている。
「待ってよ。今行くから…」
とてもゆったりとした時間だった。あまりにも人間からかけ離れた動きは、宗二にとっても普通ではなかった。ただ靴を履いているだけなのに、宗二を、その虫たたきで叩き殺そうとしている未来が見えてしまうのだ。
「ちょっと失礼。上野宗二さんでよろしいですか」
目の細い男が靴箱から顔を覗かせた。従姉妹は桃色の虫たたきを男に振り落とすが、彼は叩かれる前に二人の間に躍り出た。宗二には男の体が柔らかく伸びて這い出たように見えた。
嬉々とした表情のまま従姉妹は虫たたきを手にして構えている。男は何も持たずにいた。
彼は彼女をよく観察した上で、彼女の鼻と顎を掴んで二つに裂いた。
鼻は上に、口の中に親指を入れ込まれたまま下に裂かれた。裂かれた彼女は萎びた風船のようになって床に落ち、徐々に透明になって消えていった。最後に彼女は「今行くから…今…」と高い声で言った。宗二にはそう聞こえたが、この男にとっては違うらしく「おぞましい一言なり」ぽつりと響かない声で言った。
「頭取りさんは何故ここに?」
背を向けていた頭取りの男は首だけで振り返り、鶴を返してもらうと言った。宗二はもう朝であればこの暗い外は何か分からなかった。
「君は記憶の中にいる。記憶は変わることはなく、常に同じ時間が流れている。見ろ、ここは夜にもかかわらず部屋はまだ昼頃だ」
部屋の自然な明るさが、暗い廊下へ落ちている。
「これはわたしが取り出した鶴の記憶だ。君はその記憶の中に立っている。わたしはこの家の記憶を形として残すことを生業としているのだ」
「どうやってここから出られるんですか」
意識すると聞こえてくる虫の音や、誰かが寝ている寝息やイビキが聞こえてくる。しかしその音は実際には存在していない。
頭取りは答えずに台所へ足を動かした。宗二も何も言わずに着いていった。
橙色の豆電球が一つ点いているだけで、広い台所を全て照らすことは出来ていない。トントントンと出されたまな板から何かを切る音が聞こえている。テーブルに空の皿と、料理が乗った皿があるが、宗二には食欲はなかった。
「食べないのか。身が持たないぞ」
菜箸を使って食べる頭取りは、美味しそうに食べていた。どんなにいい匂いだとしても、美味しそうに見えたとしても、勧められたとしても彼は食べなかった。
曾祖母が使っていた、開いていた部屋を通り過ぎて二人は奥のトイレへ向かう。宗二は今もこのトイレが苦手だ。大きな蜘蛛がいるのもそうだが、アンモニア臭と雰囲気が嫌いだった。昔観てトラウマになったホラー映画を思い出してしまうからかもしれなかった。
電球を替えたばかりなのか嫌に白い電球が細長いトイレを煌々と照らしていた。それ以外には何も無く、宗二はほっとしていた。先入観による緊張感がまだ胸に残るも、彼にとっての一番嫌な場所はここだからだ。
今度は二段目から上が見えない階段を通り過ぎて洗面所、風呂場、物置を見たが何も無かった。従姉妹のような人に会ったのはあれっきりであり、頭取りの後ろにピッタリとひっついて宗二は歩いていた。
「二階には誰がいるんだ?」
「従姉妹の両親です。子供の頃に何度か一緒に寝ました」
「従姉妹は後ろの?」
階段を踏み外しそうになりながらも宗二は後ろを見なければならなかった。後ろを向きたくなくとも、頭取りはずっと宗二と、後ろの従姉妹を見ていたからだった。
結局は何も無かった。従姉妹も、上った階段も、床も、一階自体が無かった。そう、何も無かったのだ。
○ ○ ○
葬式は簡素であった。
着てきた服が喪服で良かったと、わたしは火葬場の休憩室で上野一家とお茶を飲んでいた。
上野宗二様は自分の影に怯えておられた。なに、彼の兄でさえ、ご自身の影と仲が良ければ自分がおかしいのではないかと疑うのは当たり前のことで。
「その言い方は好かん。昔みたくしゃべれ」
「ふん。身内が死んだにもかかわらず、お前は淡泊な者だな」
死んだのは上野宗二であり、祖父も祖母もうんと昔に死んでいる。
彼の父は業が深く、宗二のような気弱な息子にまでいくほどだった。彼の父は過ぎ去った記憶になったとしても現に影響を及ぼす人間だった。その執念とも呼べるモノが一番に影響したのが宗二だっただけの話。
簡単に言えば、彼は自身の父の記憶に魂ごと引き寄せられてしまったのだ。
「それはお前の方がだろう。なんせ昔、親父の所為でお前の親父さんが死んだのに、『ひつようなぎせいですね』とか淡々と言ってたじゃねーか」
「本当に必要だったんだ」
「あ?」
「本来であれば、わたしも死んでいた。父が、記憶の中で助けてくれなければ死んでいたからな」
宛がわれた広い休憩室に、わたし達二人だけが寂しく居た。
「腹の中で父が話していた。イビキだと思っていたのはわたしの父だった。何か唸っていると思ったら、あかねちゃんがな、わたしを殺そうとしたんだ。そしたら父の声が腹からして、気づいたら現に戻ってきていた」
あかねも彼の父に囚われ、最早形だけの存在になっていた。
湯飲み茶碗の隣に、あの鶴と、桃色のピンセットを置いた。ピンセットは虫たたきで殺した虫を摘まむためにある物だ。
「にい。トイレ行かんの?」
宗二の弟が手を拭きながら戻ってきた。わたしは兄である彼がしている腕時計を回収して部屋を後にした。
「今日は火葬少ないんやって。にい?どうした?」
「宗二、お前」
人のいない火葬場の廊下を腹の中で唸る父と一緒に、わたしは記憶から出て行った。