紺色
「私はそんなふうに思ってない」
光が差し込む教室に響いた軽い破裂音から一呼吸置いて、くぐもった声がした。じわ、じわと熱くなりだした左頬に自分の手を置いてみると、成程、いやに沁みて仕方ない。
右に向いていた己の顔を錆び付いたブリキの人形のようにじわりと動かすと、アーモンド型をした瞳が濡れ羽色に染め上がっている様が見えた。鼻の頭は一寸赤みを帯びていて、華奢な体を震わせる度に細い輪郭線がぼやけていく。
綺麗だと思った。年より2つ3つ幼く見える丸顔が、普段は天真爛漫の代表のようなそれが今は影を落としてくしゃりと歪んでいる。好きになった人の見たことのない表情に、胸が締め付けられたり踊らされたりと忙しい。
ぐずぐずと鼻を鳴らす姿はおもちゃの取り合いに負けてしまった幼子のようで非常に愛らしい。ようしようし、と頭を撫でてあげたいがそれはどうにも叶わないらしい。
肩で息を吸うのが、まだ水気の多い瞳が、少し赤くなった頬が余りに近くて遠すぎる。ひょいと手を伸ばせば届く、届く。
また響いた。弾けた。ダリアが頭を振った、赤血球を含んでそうなそんな花弁が舞って散って砕けて裂けた。
そんなもの最初から咲いてなかったことに気が付いたのはその数秒後、片付けないとなあと下を向いたら何も落ちていなかったからである。
じわんと右手が痛み出す。彼女にまた叩かれたのか。これじゃあまるでおかずに手を伸ばして叱られた飼い猫ではないか。
彼女がふらっと立ち上がり、顔をぐしゃりと二三度潰した。いつもの低血圧かと思って、支えないとと、いやしかし今は朝でないから大丈夫ではないか。
そんなことを考えていたら、正面の扉が右にすいと開いた。ぱた、ぱたと力無い足音が桜に消えていく。ついに一人になってしまった。
隣の席に目をやると、一度も染めたことがないのだろう、筆にしたらさぞ書き心地のよさそうな柔らかい髪が目についた。やましいことは全く無い、純粋に触りたいと思った
恐らくあまりにも視線を感じたのか、訝しいを貼り付けたままの顔を上げた彼女はこちらを見て目を丸くした。どうしたの、と小さく問うた口がいかにも柔らかそうでむしゃぶりつきたくなった。
名前はもう覚えていない。珍しいとも思わなかったからありふれたものだったのだろう。ただ、紺色の制服が良く似合っていことは記憶している
よく教科書を忘れる生徒だった。次の時間割を覚えない生徒だった。幸運なことに彼女は世話を焼くことは嫌いじゃなかったようで、その度に仕方ないなあと手を差し伸べてくれた。
今思うと出来の悪い、これはあくまでも出来の悪い振りなのだが、それを哀れんだ故の優しさだったのかもしれない。
それでも良かった。それが泥団子だろうが金塊だろうが、彼女から渡されたということが重要だった。好きだった。
それからは我武者羅である。席替えで机が遠のけば忘れ物は無くなったが、テスト前になると途端に記憶力が低下する。出席番号は自分が12番で彼女が17番だった。
彼女は数学が得意で、進学コースの授業を受けることになった。大学生になる気は無いのに、微分積分を無理矢理詰めて蓋をして、最後まで教室の場所を覚えられないままだった。
初めて図書委員になった。筒井康隆が好きだと言っていたから、それから野菜売り場に行く度に極彩色に目が持っていかれるようになった。これは今も続いている。
吹奏楽だけは出来なかった。彼女は昔からピアノを続けていたらしく、なんとなく形が似てるからとそんな理由で木琴だか鉄琴だかをぽろぽろ叩いていた。音楽室の真向かいに美術室があったから、ポスターカラーも持っていないくせにイーゼルは取り扱えるようになった。
暗転。春である。少しばかり濁った空の下で、数多の卒業生が筒を片手に楽しげにしている。薄桃色の紙吹雪が祝言を挙げながら手を叩き、新たな門出を喜んでいる。
形式ばかりの式は小一時間前に終わった。校歌は忘れた。
掲示物は取り外され、黒板には似たような別れの言葉が40足らず述べられていた。ロッカーは伽藍堂としていて、誰か一人ぐらい忘れ物をしていそうなものなのになあと思った。
己の胸元に付けられた生花からはリボンが生えていて、これを作らされた下級生のなんと可哀想なことか。いかにも目出度いといったそれは彼女とおそろいだったことを思い出して、きちんと持って帰ることにした。
教室には誰もいない。全くの孤独、一人である。
最後までこの制服が似合わなかった。制服は紺色だった。