1話 事の始まりはいつだって突然で
信号が赤から青に変わる。
横断歩道の手前に立っていた人々が、一斉に歩き始める。
学校からの帰り道。夕方になっても茹だるように暑い夏の日。流れる汗を拭いながら、俺は橙色に染まった空を見上げた。
もうすぐ、夏休みに入る。高校二年生の夏休み。来年は受験で忙しくなるだろうから、実質、今年が高校最後の夏休みだ。
今年は思いっきり遊んでやろう。海には行きたいな。夏祭りに言って、わたあめでも食べながら花火を見るのもいい。幸いなことに、俺は友達が多い方だから、誰か誘えば遺書に行ってくれるだろう。
視界に、綺麗な夕焼けの空が広がる。
今年の夏は楽しくなりそうだ。そんな予感がする。
不意に、どんっと誰かと肩にぶつかった。空を見上げて、別の事を考えながら歩いていたからだろうか。どうやら前方への注意をおろそかにしていたらしい。
「すみませ・・・」
すぐに振り返り、謝ろうとする。しかし、俺は謝罪の途中で言葉を詰まらせてしまった。
なぜなら、そこに立っていたのが、狼だったからだ。
いや、狼というのは適切な表現ではないかもしれない。正確には、二本足で立つ狼だ。ちゃんと人間の服も着ている。狼だけど。
「チッ、ちゃんと前見て歩けよ」
そして、その狼が舌打ちをして、人間の言葉を話して、去っていく。
「・・・は?」
数秒遅れて、間抜けな声が漏れる。
「・・・は?」
あまりに理解出来なさすぎて、もう一回。
今、誰が喋った? あの狼? まさか。デカかったな。身長二メートル以上あったよな? というか、二本足で歩いてなかったか? 本当に狼か? 犬じゃなくて? 飼い主は?
「・・・は?」
そして、三回目。
ああ、ダメだ。頭が回らない。
よし、一旦落ち着こう。・・・と思って、失敗した。
もし二足歩行の服着た狼が話しかけてきただけだったなら、あるいは無理やり落ち着くことも出来たかもしれない。言葉にするととんでもないパワーワードだけれど、見間違いだとか、コスプレだったとかで、無理やり納得しようと思ったのだ。
だけど、無理だった。
だって、知らないのだ。自分が今立っている場所を。
中世ヨーロッパを彷彿とさせる石畳の地面。規則正しく並んで建っている、赤茶色のレンガで出来た家。そして、通りを歩く人、猫、熊、トカゲ。もちろんというか、驚くべきことにと言うべきか、全員二足歩行で服を着ている。
・・・なんだよ、これ。
いやいやいや、え、何これ。ドッキリ!? 俺はさっきまで、学校からの帰り道を歩いていたはずだよな? それこそ、無意識に歩いていても間違えないくらいには慣れた道を。
「あ、そうか」
そこで、急にひらめいた。混乱極まった俺の頭が、一周回って冷静になったのかもしれない。
一瞬前までは全然回っていなかった頭が、今はいつにないくらいに冴えわたっている。まるで、雲のかかった空が晴れ渡っていくかのようだ。今なら、空も飛べそうな気さえする。
俺は、その冴えわたる頭で、たったひとつの真実を暴き出す。
一つだけ、こんな無茶苦茶なことが起こり得る状況がある。それはつまり―――――――
「なんだ、夢か」
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「夢じゃない、だと・・・!?」
中央に噴水のある広場。その隅っこで、俺は盛大にうなだれた。
まず最初に試したのは、頬をつねること。定番だ。結果は、少しの痛みと、頬が赤くなっただけ。
痛みが足りないんじゃないか? なんてドMみたいなことを考えて、次に試してみたのは、頭を建物の壁に打ち付けてみること。結果は、打ちつけた瞬間ごんっという鈍い痛みが額に走り、目の前をお星様が飛んでいるように見えただけだった。あと、たんこぶができた。
通行人に汚物をみるような目で見られ、子連れの母親が子供に「見ちゃダメ!」としかりつけていたのはさすがに傷ついたなあ。
とにかく、それで、「あれ、これ夢じゃないんじゃね?」と思い始めた俺は、とりあえずこの街をまわってみようと思ったわけだ。
もちろん、その途中でも色々と試してみた。
夢ならば空を飛べるんじゃないかと思って、突然ダッシュして助走をつけてから思いっきり全力でジャンプをしてみたり。夢ならば、一つ一億円するような高級果物がそこらで売られていてもおかしくないなと思って、八百屋っぽい店の商品の値段を端から端まで全て確認してみたり。その他、まあ色々だ。これだけ見ると、俺とんだ変態じゃねえか。
もちろん、それらは全て徒労に終わったし、この街を一時間以上歩きまわっても、見覚えのある場所なんて少しもなかった。もっとも、後者に至っては最初から期待なんてしていなかったけれど。
しかし、街をまわってみて、成果が全く無かった訳ではない。分かったことが、一つだけある。
それは、「分からない」ということだ。
より正確に言うならば、「分かるはずがない」ということが分かった、というべきだろうか。
最初から薄々感づいてはいたけれど、この場所では、人ではない動物が服を着て二足歩行で歩き言葉を話したとしても、不思議に思う人なんて誰もいない。
動物が喋ることが当たり前の地域なんて俺は知らないし、世界中のどこを探したとしても、おそらく見つからないだろう。
そしてもう一つ。
ここの人々は、日本という国を知らない。
八百屋で、人間の店主に尋ねてみた。「ここはどこだ」と。すると店主は、何を当たり前な事を、といった表情で、「中央都市アルバーンだ」と答えた。
当然俺はそんな名前の都市なんて知らない。聞いたこともない。だから俺は、再度、こう尋ねた。「日本という国は知っているか」と。
同じような問答を他の店でも繰り返し、俺が不審者として通報されそうになる直前、ようやく俺は観念した。そして、受け入れた。ここの人々は、日本という国を知らないと。
ちなみに、ジャパンでもヤーパンでもダメだったから、言語の問題という訳ではないだろう、ここの人々はなぜか皆日本語を話してるし。
そして、ついでに言うと、アメリカでもUSAでも、地球でもアースでもダメだった。
一つ。夢以外でこの状況を説明できる現象が頭をよぎっていた。あまりにも現実離れしすぎていて、すぐに却下してしまっていた考えだ。だけど、こんな現実離れした状況を説明するには、現実離れした現象を用いなければ不可能だろう。
だから俺は、一度捨てた可能性を、もう一度拾い上げる。
この状況を全て、余すことなく説明でき、それでいて、他の人が聞いたら一笑に付すような、そんな可能性を。
つまり、これはアレだろう?
「いわゆる、異世界転移ってやつだろう?」