剣を抱く
――― 君のために、これを置いていく どうか息災で ―――
いくつの季節が過ぎていったのだろうか。いくつ年が過ぎても彼の人が託していった身の丈を越す程大きな剣の重さは変わらず腕を痺れさせる。
どこかに置いておくのも忍びない。かの人の影へと縋りたい一心でいつもこうやって抱きかかえている。
このあたりのものとは全く異なる意匠である剣の装飾は、粗野なものではなく装飾を施されなんともいえない優美さを感じさせる。
とは言え、これは『人斬り包丁』だ。装飾の優美さに騙され、少しだけ抜くと蒼い刀身が顔を写す。そこに映る自分の顔は青ざめているように見え、そのせいか背筋が泡立ち冷たいものがなぞり落るとすぐにしまってしまうばかり。
幾人もの血を吸ったであろうこの刀身は穢れを知らぬといった顔。「気高い」というのはこのようなことをいうのだろう。橋の世界より他を知らぬ少女は、今日も変わらず彼の人の帰りを待ちこの長い橋の上座っていた。幾度もの野分にも耐えたが、次の野分に持ちこたえるかどうかはわからない。
紅葉が描かれたぽっくりを鳴らしながら、きぃと小さな音を立てる橋を渡る。今日は霧が出て先の方まで見ることはかなわぬが、眼を閉じても広がる知った世界は蜃気楼のように浮き上がる。
浮き上がる向こうからは普段とは違う…活気とでもいうのだろう。いくつもの人の気がそこにある。
陽の気が収まり、陰の季節は秋となり、実りの恵みに感謝を、という収穫期の祭りも近いからかしら――
彼の人を待つのに季節を、日を数えることをしていない。ただ、虚しさばかりが募るから。ぼんやりと見つめる橋向こうはほんのりと感じる活気は、祭事独特のものだ。
――ああ、音が聞こえる。秋の音、秋の祭りの音。虫の音、色を変えた葉が落つる音。囃子の音。しゃんとなる銅拍子、てんとなる鼓、りんとなる鈴、とんとなる太鼓。………彼方まで響く竹笛の音。
かの人笛がとても上手だった。春になれば鳥と共に、夏は蒼林に、秋は葉の音に。冬は…一面に敷き詰められた雪に、山へと音を響かせた。そのたびに必ず遠くで獣の声が応えるように聞こえのは…あれは、何の獣なのだろう。一度聞いたのだがどうにも覚えることができなかった。
その音を…あくまでもお零れに預かった村の者が彼の人は竹笛を教えを請い出向くようになった。少女はそれがたまらなく嫌だった。彼女だけの特別な音を、くれてやるようでとても嫌だったが、機嫌を崩した彼女のためにと吹いてくれる笛は…何よりも好きだった。村で勧められたのであろう、酒がほのかに香るのもこの時ばかりは許した。
祭りが近い…ということはあの赤い花も咲いているのだろう。
毒のある赤い花。蛇やもぐらを嫌ってそれを畑の近くに植えているのだが、酔狂な者が村にあるすべての道の端にこれを植えたのだそうな。赤い道がぐっと伸びているのは遠目に見るからこそ美しく感じるのだろう。
ある日、彼があの花が唇を染めたようだ、とあの人がそう言ってくれたがあまり嬉しくはなかった。どんなに麗しくとも、毒のある花なのだから。
こうして、この剣を置いて行ったのは彼の乙女心のわからなさなのだろう。
剣なぞいらぬ。
彼さえいればよかった。
彼がいのちと同じ程大切にしていたものでは意味が無い。
彼でなければ意味が無い。
とは言え、行かぬ訳がいかなかった。
異人である彼が、この地に長く留まるわけにはいかなかったのだ。
詳しい事情はわからない。たとえ事情があっても分かりたくもない。ただ、彼がここから去ったというのが全てなのだから。
山の色はところどころ彼と同じ髪色に染まり、川面は彼の目と同じ色の蒼穹をうつす。その川面に映る己の姿は、彼に見てもらっているようで心の慰めになる…いつもと同じように橋の上から川面を覗き込んだ。
川面が移すのは一面の蒼、川辺にうつす燃えるような赤い花。
それと…飛ばされ舞い降りた、いちまいの紅葉がくるくると回りながら流される。――川面が写すのはそれだけの世界。
顔を上げると向こうへと顔を向けた。聞こえる竹笛の音は、彼の人のもの。
「いま、まいります」
軽やかな足取りで彼女は橋を歩く。ぽっくりの足音は霧の中響き渡り―――
橋は崩れていった。
前触れもなくがらがらと静かに崩れていった
そこでは時折、異国の刀を抱えた少女が目撃されたそうな。
今はもう、いない。