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十年間、王女の影武者をしていたわたしに、王女の婚約者が「君と踊っていたのか」と言った

作者: みぎみみ
掲載日:2026/10/31



 春の舞踏会の、三曲目のワルツが始まった。


 大広間の天井から下がるシャンデリアの光が、磨きこまれた床に映りこんで、まるで水面の上を踊っているようだった。楽団の弦がゆったりとした三拍子を刻む。百組の男女がいっせいに回りはじめる。


 わたしの手は隣国の第一王子、エルヴィン殿下の手の中にあった。


「今年も三曲目ですね」


 殿下がわたしの耳元で言った。


「はい。殿下が三曲目をお選びになるのは十回目です」


「数えていたのですか」


「王女ですもの。礼儀として」


 殿下が小さく笑った。笑うと、目尻に細い皺が寄る。二十五歳になった殿下の笑い方は、十五歳だったころと、少しも変わらなかった。


 わたしはこの国の第一王女、アメリア殿下――ということになっている。


 淡い金の髪を高く結い上げて、王女の紋章の入った真珠の首飾りをつけて空色のドレスを着て。顔には、ほくろを隠すための白粉。右目の下の、小さなほくろ。本物のアメリア様にはないものだから。


 わたしの本当の名前はルイーゼという。


 十年前、王都の孤児院から連れてこられた。王女様と同じ年で、背格好と髪の色と顔立ちが、驚くほど似ているという理由で。


 それから十年、わたしは、アメリア様の影武者をしている。


「去年の約束を覚えていますか」


 殿下がわたしを回しながら言った。空色のドレスの裾が、ふわりと広がった。


「わたしの国の、北の湖の話の続きを。冬になると、湖が凍って氷の下で魚が光るという話」


「覚えております。光る魚は本当にいるのですか、とお尋ねしました」


「いるのです。今年の冬、確かめてきました」


 殿下はワルツの拍子に合わせて、わたしの手を少しだけ強く握った。


「青白く光る、小さな魚でした。氷の上に寝そべって一晩じゅう見ていました。……あなたに、見せたいと思いながら」


 わたしの心臓がどくん、と鳴った。


 だめ。


 この人が話しかけているのはアメリア様だ。わたしではない。


「では、今年は、わたくしの番ですね」


 わたしは声が震えないように、少しだけ顎を上げた。


「去年、殿下に教えていただいた詩集を読みました。最後の詩がいちばん好きです。夜明け前の空の色を知らない鳥の羽にたとえた詩」


「あの詩が?」


「はい。その鳥はきっと、まだ誰にも名前を呼ばれたことがないのだと思いました」


 殿下の足がほんの一瞬だけ止まりかけた。すぐにまた拍子に乗った。


「……あなたは、毎年、わたしが思ってもみないことを言う」


 三曲目のワルツが、終わった。


 殿下はわたしの手を取ったまま、深く礼をした。わたしも、ドレスの裾をつまんで膝を折った。


「来年の春に、また」


「はい。来年の春に」


 殿下の手が離れていった。


 その温かさが指先から消えていくのをわたしは毎年、こうして見送る。




 舞踏会のあと、わたしは、王宮の東の塔の、いちばん上の部屋に戻った。


 扉を開けると、望遠鏡の前に座っていた娘が、ぱっと振り返った。


「ルイーゼ! どうだった? 殿下、お元気だった?」


 アメリア様だった。


 わたしと同じ淡い金の髪を無造作に一つに束ねている。着ているのは袖口にインクの染みがついた、くすんだ緑の部屋着。机の上には、星図と、羽根ペンと、食べかけの林檎。


 本物のアメリア王女は、人の多い場所が、何より苦手な方だった。


 十年前、九歳のアメリア様は、初めての舞踏会で、百人の視線を浴びた瞬間に気を失って倒れた。それから、人前に出ようとするたびに息ができなくなった。王妃様は娘を守るために、影武者を探させた。


 そうしてわたしが来た。


 最初の一年は毎晩、泣いていた。


 朝から晩まで、王女になるための稽古だった。歩き方、座り方、扇の持ち方、お辞儀の深さ。ワルツ。王家の歴史。隣国の言葉。間違えると、教育係の老女官が、扇でわたしの手の甲をぴしりと打った。


 いちばんつらかったのは名前だった。


 ――あなたは、今日からアメリア様です。ルイーゼという名前は、二度と口にしてはいけません。誰かに呼ばれても、振り向いてはいけません。


 孤児院で、ルイーゼと呼んでくれたのは、院長先生と、仲のよかった年下の子たちだけだった。その名前まで取り上げられたら、わたしには何も残らなかった。


 ある夜、与えられた小さな部屋の寝台で、毛布をかぶって泣いていると、扉が細く開いた。


 寝間着姿のアメリア様が、一冊の本を胸に抱えて立っていた。


 ――ねえ。あなたの、本当の名前は何ていうの。


 わたしは毛布から顔を出して首を横に振った。言ってはいけないと言われていた。


 アメリア様は寝台の端にちょこんと座った。


 ――わたくしね、人がいっぱいいると、息ができなくなるの。だから、あなたが代わりに行ってくれるんでしょう。ごめんなさい。わたくしのせいで、あなたは名前を取られちゃったのね。


 アメリア様は抱えていた本をわたしの膝の上に置いた。星の図鑑だった。


 ――二人だけのときは本当の名前で呼ぶわ。だから、教えて。


 わたしは長いあいだ黙っていた。それから、蚊の鳴くような声で言った。


 ――ルイーゼ。


 ――ルイーゼ。


 アメリア様はうれしそうに、何度もその名前を口の中で転がした。


 ――きれいな名前ね。星の名前みたい。


 その夜から、わたしは泣かなくなった。昼は王女で夜はルイーゼ。この東の塔の部屋でだけ、わたしはわたしに戻れた。


「お元気でした。北の湖の、光る魚の話をしてくださいました」


「まあ。本当にいたの? どんな色?」


「青白い、と」


「青白い……発光する魚なのね。北の、寒い湖で。どういう仕組みなのかしら。月の光を溜めておくのかしら」


 アメリア様は目をきらきらさせて星図の端に何か書きつけた。


 わたしは空色のドレスの留め具を外しながら、くすりと笑った。


 十年間、ずっとこうだった。わたしが舞踏会や式典に出て、戻ってきて何があったかを話す。アメリア様は星と、本と、遠い国の話にだけ目を輝かせる。


 姉妹のような、と言ったら、不敬になるだろうか。でも、わたしにとってアメリア様は、この広い王宮で、たった一人、本当の名前を呼んでくれる人だった。


「ルイーゼ」


 アメリア様が羽根ペンを置いた。


 さっきまでの明るい声が、すっと沈んでいた。


「……婚礼の日取りが、決まったわ」


 わたしの指がドレスの留め具の上で止まった。


「秋の、収穫祭のあと。エルヴィン殿下が、来月から王宮にご滞在になって婚礼の準備をなさるの。毎日、わたくしとお茶をなさりたいって」


「毎日……」


「毎日よ。式典の日だけじゃなくて。舞踏会の夜だけじゃなくて。毎日、殿下とお会いするの。わたくしが」


 アメリア様は両手で顔を覆った。


 わたしはドレスを半分脱ぎかけたまま、その場に立ち尽くした。


 分かっていた。いつか、この日が来ることは。


 十歳の春に婚約が結ばれたとき、王妃様はおっしゃった。婚礼までのあいだだけ、ルイーゼが代わりを務めなさい。婚礼のあとはアメリアが、自分で殿下の妃になるのだから、と。


 影武者は婚礼の祭壇には立てない。


 分かっていた。分かっていたのに。


「……アメリア様。殿下はお優しい方です。きっと、アメリア様が人の多いところが苦手でも、分かってくださいます」


「そうじゃないの」


 アメリア様は顔を覆ったまま、首を横に振った。


「そうじゃないのよ、ルイーゼ。わたくし……わたくし、好きな人がいるの」




 アメリア様の好きな人は、宮廷天文官の青年だった。


 三年前から、東の塔に、星の観測を教えに来ている。下級貴族の三男で、口下手で、髪はいつもぼさぼさで、星の話をするときだけ、別人のようによくしゃべる人。


「あの人と、彗星の軌道を計算しているときだけ、息が苦しくないの。人がそばにいても、平気なの」


 アメリア様は星図を胸に抱いて、ぽつりぽつりと話した。


「でも、そんなこと、言えないでしょう。わたくしは王女で、エルヴィン殿下との婚約は二つの国の約束で。……だから、黙って、婚礼の日を待つつもりだった」


 わたしはアメリア様の隣に座ってその背中をさすった。


 小さな背中だった。わたしと同じ年で、同じ背格好のはずなのに、わたしの手の下でひどく小さく感じた。


「わたくし、殿下のこと、何も知らないの」


「え?」


「十年間、殿下とお話ししたのはルイーゼでしょう。わたくしはルイーゼから話を聞いていただけ。北の湖のことも詩集のことも。殿下がどんなふうに笑うのか、どんな声なのか、わたくし、ほとんど知らないのよ」


 アメリア様は星図から顔を上げてわたしを見た。


「殿下は、十年間、ルイーゼと踊っていたのよ」


 わたしの胸がぎゅっと締めつけられた。


 そうだ。


 十年間、三曲目のワルツの相手はわたしだった。北の湖の話を聞いたのも、詩集を教えてもらったのも、来年の春にまた、と約束したのも。


 でも、殿下が見ていたのはアメリア王女だ。わたしではない。


「……殿下は、アメリア様とお話ししていたと、思っていらっしゃいます」


 声が少しだけかすれた。


「だから、大丈夫です。わたしが聞いた話は、全部、アメリア様にお伝えしてきました。十年分。殿下とのお茶の席でも、きっと、お話しできます」


 アメリア様は何か言いかけて口を閉じた。


 それから、わたしの手をぎゅっと握った。


「ルイーゼ。あなたはそれでいいの?」


 わたしは答えなかった。


 窓の外で、春の夜空に星が一つ流れた。




 ひと月後、エルヴィン殿下が、王宮に到着した。


 毎日の午後、王宮の南の庭の東屋でお茶の席が設けられた。アメリア様は真っ青な顔で、それでも毎日、東屋に向かった。


 わたしは侍女としてそのお茶の席に付き添った。


 淡い金の髪を焦げ茶に染め粉で染めて。白い頭巾で額を隠して。右目の下のほくろはそのままにして。王女と同じ顔の侍女がそばにいたら、さすがに怪しまれる。染め粉と頭巾と、うつむいた顔で、わたしはただの侍女になった。


 お茶の席はぎこちなかった。


「アメリア殿。去年の春にお話しした、詩集のことですが」


「ははい。あの、夜明けの……鳥の、詩」


「そうです。あなたはあの鳥は、まだ誰にも名前を呼ばれたことがないのだと思った、とおっしゃった。わたしはあれから一年、ずっとその言葉を考えていました」


「そ、そうでしたか……」


 アメリア様はわたしから聞いたとおりのことをたどたどしく答えた。殿下は穏やかに相づちを打った。でも、殿下の目が、ときどき、ほんのわずかに曇るのをわたしは見た。


 三日目のお茶の席で殿下が言った。


「アメリア殿。北の湖の、光る魚のことをどう思われました?」


「あ、あの……月の光を溜めておくのでしょうか」


 殿下の手がティーカップの上で止まった。


「……月の光」


「ははい。その、発光の仕組みが、気になって」


「舞踏会の夜、あなたは、光る魚を見たいとおっしゃいましたね。氷の上に寝そべって、一緒に見てみたい、と」


 わたしの背中を冷たいものが走った。


 言った。去年の春の舞踏会で。わたしが。


 アメリア様には、その一言を伝えていなかった。恥ずかしくて。王女の身代わりで、そんなことを口にしてしまった自分が、恥ずかしくて。


 アメリア様の顔から、血の気が引いていった。


「そ、そう、でしたかしら……」


 殿下はしばらく黙っていた。


 それから、ティーカップを受け皿に戻した。かちり、と小さな音がした。


「失礼。わたしの記憶違いかもしれません」


 穏やかな声だった。


 でも、そのとき、殿下の目が、ほんの一瞬、東屋の柱の陰に控えていたわたしのほうを見た。


 わたしはうつむいた。頭巾の陰で、心臓が、壊れそうなほど鳴っていた。




 その日の夕方、わたしは、アメリア様の使いで、王宮の図書室へ本を返しに行った。


 図書室の長い廊下を歩いていると、角の向こうから、足音が近づいてきた。わたしは侍女らしく壁ぎわに寄って頭を下げた。


 足音がわたしの前で止まった。


 ぱさり、と、床に何かが落ちる音がした。


 顔を上げずに、目だけで見ると、わたしの足元に、一冊の薄い本が落ちていた。濃紺の表紙。金の箔押しの題。


 去年の春、殿下が教えてくださった詩集だった。


 わたしは反射的にそれを拾い上げていた。侍女なら、当然のことだ。落とし物を拾って持ち主に返す。


「ありがとう」


 頭の上から、殿下の声が降ってきた。


 わたしはうつむいたまま、詩集を両手で差し出した。殿下の手がそれを受け取った。指先がほんの一瞬だけ、わたしの指に触れた。


「その詩集の、最後の詩を知っていますか」


 殿下が静かに言った。


 わたしの喉がひくりと鳴った。


「……侍女の身では存じ上げません」


「そうですか。夜明け前の空の色を知らない鳥の羽にたとえた詩なのですが。最後の一行がとても好きで」


 殿下はそこで言葉を止めた。


 待っているのだ、と分かった。わたしが続きを言うのを。


 ――その鳥の名をわたしだけが知っている。


 最後の一行が喉元まで出かかった。去年の春、殿下にこの詩集を教えてもらってから何十回も読み返した。暗記してしまうほど。


 わたしは唇を噛んだ。


「……失礼いたします」


 深く頭を下げて殿下の横をすり抜けた。廊下の角を曲がるまで一度も振り返らなかった。


 角を曲がってから、壁に背中をつけてずるずると座りこんだ。


 心臓がうるさかった。


 言いそうになった。あと少しで。


 その夜、わたしは眠れずに王宮の西の庭に出た。


 十年間、舞踏会のあとはいつもこの庭に来た。噴水のそばの、古い石のベンチ。ここだけは誰も来ない。王女のドレスを脱いで、ルイーゼに戻れる場所だった。


 月が明るかった。噴水の水音が夜の静けさの中で細く響いている。


 わたしはベンチに座って膝を抱えた。


 殿下は気づいたかもしれない。


 気づいたら、どうなるのだろう。十年間、王女の名前を騙っていた孤児。王家が隣国の王子をあざむいていたことになる。二つの国の約束が、壊れるかもしれない。


 それより、怖いのは。


 ――殿下に、嘘つきだと思われること。


 十年間、三曲目のワルツの相手はわたしだった。北の湖の話を聞いたのも、詩集の話をしたのもわたし。光る魚を一緒に見たいと言ったのもわたし。


 全部、本当のわたしの言葉だった。


 でも、名前だけが、嘘だった。


 砂利を踏む音がした。


 わたしは弾かれたように顔を上げた。


 月明かりの中に、背の高い人影が立っていた。


 エルヴィン殿下だった。


 夜着の上に、濃紺の外套を羽織っている。黒い髪が夜風に少し乱れていた。殿下は噴水のそばで立ち止まってわたしを見下ろした。


 染め粉で焦げ茶にした髪。頭巾は部屋に置いてきてしまった。右目の下の、小さなほくろ。


「……やはり、あなたでしたか」


 殿下の声は静かだった。


「アメリア殿の侍女。三日間、ずっと東屋の柱の陰にいた。わたしが光る魚の話をしたとき、あなたの肩が震えていた」


 わたしは立ち上がった。逃げなければ、と思った。でも足が動かなかった。


「殿下、わたくしはただの侍女で」


「十年前の、最初の舞踏会」


 殿下が一歩、近づいた。


「十五歳のわたしは、初めて会う婚約者に緊張して、ワルツの最初の一歩であなたの足を踏んだ。あなたは痛いとも言わずに笑ってこう言った。殿下、わたくしも、ワルツは今日が三回目です、と」


 わたしの口から、小さな声が漏れた。


 覚えている。十歳の、初めての舞踏会。王女の影武者として初めて人前に出た夜。ワルツは三回しか練習していなかった。


「あのとき、あなたは、右目の下を手袋の指でそっと押さえた。白粉が落ちていないか、確かめるように。……わたしは、その下に、小さなほくろがあるのを見た」


 殿下がわたしの目の前で立ち止まった。


 月明かりが殿下の顔を照らしていた。眉が寄っている。唇が固く結ばれている。


「今日の午後、東屋でアメリア殿の顔をよく見た。ほくろはなかった」


 殿下の手がわたしの右目の下にそっと伸びた。


 触れる、寸前で止まった。


「十年間、わたしは」


 殿下の声がかすれた。


「君と、踊っていたのか」


 噴水の水音が遠くなった。


 わたしの目から、涙がこぼれた。


 ごまかせなかった。ごまかしたくなかった。十年間、ずっと、この人に、本当の名前を呼んでほしかった。


「……はい」


 声が震えた。


「十年間、殿下と踊っていたのはわたしです。王女様ではありません。わたしはルイーゼといいます。王都の孤児院から来た、アメリア様の影武者です」


 言ってしまった。


 膝から、力が抜けた。わたしは石のベンチに崩れるように座りこんだ。


「申し訳、ございません。殿下を十年間、あざむいてきました。罰はいかようにも。でも、アメリア様は悪くないんです。あの方は人の多い場所に出ると、息ができなくなってしまう。王妃様がアメリア様を守るためにわたしを」


「ルイーゼ」


 殿下がわたしの名前を呼んだ。


 十年間、一度も呼ばれなかった名前。


 わたしは顔を上げた。


 殿下がわたしの前に片膝をついていた。濃紺の外套の裾が、夜露に濡れた砂利の上に広がっている。


「罰など、考えていない」


「でも」


「わたしが今、考えているのは一つだけだ」


 殿下はわたしの手を取った。


 十年間、三曲目のワルツのたびに握ってきた手。毎年、離れていくのを見送ってきた手。


「北の湖の光る魚を一緒に見たいと言ったのは君だった」


「……はい」


「夜明けの鳥は、まだ誰にも名前を呼ばれたことがない、と言ったのも」


「はい」


「わたしが十年間、来年の春を待ちわびていた相手は君だったのか」


 わたしは答えられなかった。答えたら、もう、戻れない気がした。


 でも、殿下の手はわたしの手を離さなかった。


「わたしは、婚約者のアメリア殿に、恋をしているのだと思っていた。十年間、ずっと。……でも、今日、東屋でアメリア殿と話して分かった。わたしが恋をしていたのは、舞踏会の三曲目の、ほくろを白粉で隠した人だった」


 わたしの目から、涙があふれた。


「殿下は、アメリア様と、ご結婚なさる方です。二つの国の、約束で」


「分かっている」


「わたしは、孤児で、影武者で名前さえ、誰にも」


「だから、わたしが呼ぶ」


 殿下はわたしの手を両手で包んだ。


「ルイーゼ。……ルイーゼ」


 呼ばれるたびに、胸の奥で何かがほどけていった。


 十年前、孤児院を出るときに置いてきた名前。教育係の老女官に、二度と口にするなと言われた名前。アメリア様が東の塔の部屋でだけ、こっそり呼んでくれた名前。


 その名前をこの人が、月明かりの下で何度も呼んでいる。


 わたしは泣きながら、笑ってしまった。


「殿下。そんなに何度も呼ばれたら、すり減ってしまいます」


「すり減らない」


 殿下は真面目な声で言った。


「十年分、呼べなかった。まだ、ぜんぜん足りない」


 噴水の水が月の光を砕いて、きらきらと散った。わたしは殿下の手を自分から握り返した。


 十年間、毎年見送ってきた手をはじめて自分から。




 翌朝、アメリア様は、東の塔の部屋で、わたしの話を最後まで黙って聞いていた。


 聞き終わると、アメリア様は、星図を机の上に置いて、立ち上がった。


「ルイーゼ。今から、父上と母上のところへ行きます。一緒に来て」


「アメリア様?」


「わたくし、十年間、あなたに守られてきたわ。今度はわたくしが、あなたを守る番よ」


 アメリア様の手は震えていた。顔は真っ青で唇は白くなっていた。人の多い場所が怖い方が、自分から、国王陛下と王妃様の前に出ようとしている。


 わたしはその震える手をぎゅっと握った。


 王の謁見の間には、国王陛下と王妃様と、エルヴィン殿下がいた。


 アメリア様はわたしの手を握ったまま、陛下の前に進み出た。息が浅く速くなっている。わたしはその背中にそっと手を当てた。


「お、お父様。お母様。殿下」


 アメリア様の声はかすれていた。それでも止まらなかった。


「わたくしは、エルヴィン殿下と、結婚できません」


 謁見の間がしんと静まり返った。


「殿下が、十年間、舞踏会で踊ってこられたのは、わたくしではありません。ここにいる、ルイーゼです。殿下が恋をなさったのもルイーゼです。そして、わたくしにも、好きな人がおります」


 王妃様が口元を扇で覆った。


「二つの国の約束は、王家の娘と、殿下との婚姻のはず。……お父様。ルイーゼを王家の娘にしてください」


 わたしは息をのんだ。


「十年間、ルイーゼは、この国の王女として、舞踏会に出て、式典に出て民の前に立ってきました。民が知っている王女の笑顔はルイーゼの笑顔です。わたくしではありません。ルイーゼこそ、この国の王女です」


 アメリア様はそこまで言って膝から崩れそうになった。わたしはとっさにその体を支えた。


 国王陛下は長いあいだ、黙っていた。


 それから、エルヴィン殿下のほうを向いた。


「エルヴィン殿。そなたの考えは」


 殿下は一歩前に出て深く礼をした。


「わたしは、ルイーゼを妻に迎えたいと思います。孤児でも影武者でも。十年間、三曲目のワルツを踊ってきた人を」


 陛下はわたしを見た。


 わたしはアメリア様を支えたまま、陛下の目を見返した。足が震えていた。怖かった。でも目をそらさなかった。


「ルイーゼ。そなたはどうしたい」


 陛下の声は静かだった。


 十年間、誰も、わたしにそれを訊かなかった。王女の代わりに何をするか、は言われた。わたし自身が何をしたいか、を訊かれたのははじめてだった。


 わたしは息を吸った。


「……わたしは、ルイーゼとして殿下と踊りたいです」


 声が震えなかった。


「王女の名前ではなく、自分の名前で。来年の春の、三曲目のワルツを」


 陛下はしばらくわたしを見ていた。


 それから、隣の王妃様と、目を見交わした。王妃様が扇を下ろして小さくうなずいた。目の端が濡れていた。


「十年間、娘を守ってくれた者を娘として迎えることに何の不足があろう」


 陛下は玉座から立ち上がった。


「ルイーゼを王の養女とする。……アメリア。そなたの天文官のことは、あとでゆっくり聞かせてもらおう」


 アメリア様がわたしの腕の中でわっと泣き出した。


 わたしも泣いていた。


 エルヴィン殿下が、わたしたちのそばに来て、黙ってわたしの手を取った。




 翌年の、春の舞踏会。


 大広間の扉の前で、侍従長が、高らかに名前を読み上げた。


「第二王女、ルイーゼ殿下!」


 百人の視線がいっせいにわたしに集まった。


 足がすくんだ。


 十年間、何度も浴びてきた視線のはずだった。でも今夜は違う。今まで、この人たちが見ていたのはアメリア王女だった。わたしはその陰に隠れていればよかった。


 今夜、この人たちが見ているのはわたしだ。孤児院から来た、ルイーゼという名前の娘。


 ひそひそと、ささやく声が聞こえた。あれが影武者だったという。十年間、王女の代わりに。王の養女に。隣国の王子と。


 扇を握る指が汗ばんだ。喉がからからに乾いた。


 大広間の向こうに、エルヴィン殿下が立っていた。


 百人の人垣の向こうから、まっすぐにわたしを見ていた。目が合うと、殿下は、ほんの少しだけ顎を引いた。


 ――大丈夫。


 声は聞こえなかった。でも、そう言われた気がした。


 わたしは扇を閉じた。背筋を伸ばした。十年間、王女として歩いてきた足で、今度は、ルイーゼとして、大広間の床を一歩、踏み出した。


 一歩。もう一歩。若草色のドレスの裾が、磨きこまれた床の上をすべっていく。ささやき声は、まだ聞こえていた。でも、もう、足はすくまなかった。


 十年間、この床を歩いてきたのは、ずっと、わたしだったのだから。


 わたしは淡い金の髪を自分の好きな形に結っていた。ドレスは空色ではなく、自分で選んだ若草色。顔には、白粉を薄くはたいただけ。右目の下の小さなほくろは隠さなかった。


 大広間の隅で、アメリア様が、宮廷天文官の青年の腕にしがみついて、真っ青な顔で、それでも笑って手を振っていた。人の多い場所に、自分の足で出てきたのは十年ぶりだった。


 三曲目のワルツが始まった。


 エルヴィン殿下が、わたしの前に立って手を差し出した。


「ルイーゼ殿下。一曲、お相手を」


「はい、殿下」


 殿下の手を取った。温かかった。十一年間、毎年握ってきた手。でも、今年は、はじめて自分の名前で握る手。


 ワルツの拍子に合わせて殿下がわたしを回した。若草色のドレスの裾が、ふわりと広がった。


「ルイーゼ」


「はい」


「今年の冬、北の湖に行こう。氷の上に寝そべって、光る魚を一晩じゅう」


「寒そうですね」


「外套を二枚持っていく」


 わたしは笑った。殿下も笑った。目尻に細い皺が寄った。


 三曲目のワルツが終わった。


 殿下はわたしの手を取ったまま、深く礼をした。わたしも、ドレスの裾をつまんで膝を折った。


「来年の春に、また」


 十年間、毎年聞いてきた言葉を殿下は言わなかった。


 かわりに、わたしの手を離さなかった。


「来年の春もその次の春も。……もう、見送らなくていい」


 殿下の指がわたしの右目の下のほくろに、そっと触れた。


 十年間、白粉の下に隠してきた、わたしだけの印に。




(完)


お読みいただきありがとうございました。

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