記憶喪失のフリをしたら、鬼畜な義兄が優しくなりました。
鈍い頭痛と、鼻を突く薬品の匂いで意識が浮上した。
重い瞼を押し上げると、見慣れた天蓋付きのベッドの天井が目に入る。
「……っ」
身じろぎした瞬間、全身を軋むような痛みが走った。
そうだ、私は階段から落ちたのだ。
義兄であるベルトランから命じられた膨大な領地経営の書類整理を徹夜で終わらせ、ふらつく足で階段を下りようとしたとき、視界がぐらりと揺れて――そこからの記憶はない。
没落寸前の男爵令嬢だった私、リリアが、新興の伯爵家であるこの家に引き取られたのは三年前。両親が事故で急死し、母の再婚相手の連れ子だった義兄ベルトランだけが、唯一の身寄りとなってしまったからだ。
美しい金糸の髪に、氷のように冷たい青い瞳。
社交界では「若き氷の伯爵」ともてはやされる彼は、義妹である私に対して、ただひたすらに苛烈だった。
『お前のような出来損ないが、この家にいる価値を証明しろ』
『歩き方がなっていない。やり直しだ』
『誰の許しを得て休んでいる? その本を読み終えるまで夕食は抜きだ』
来る日も来る日も、辛辣な言葉と厳しい教育が降り注ぐ。私は彼にとって、伯爵家の体裁を保つための傀儡か、あるいはただの出来の悪い人形なのだろう。
思い出すだけで、胃の奥が冷たく重くなる。
また、あの地獄のような日々に戻るのか。失敗すれば冷たい目で見下され、罵倒される日々に。
「……気がついたか」
不意に、部屋の隅から低く冷たい声が響いた。
びくりと肩を震わせてそちらを見れば、豪奢な椅子に深く腰掛けるベルトランの姿があった。組んだ長い脚。形の良い眉は不機嫌そうにひそめられ、その青い瞳が私を睥睨している。
怒っている。彼の大事な仕事を滞らせた私を、きっとまた責め立てるのだ。
――嫌だ。
もう、これ以上傷つきたくない。あの冷たい目に射抜かれるのは、もう耐えられない。
逃げたい。その一心だった。
とっさに私の口から出たのは、自分でも驚くほど弱々しい、震える声だった。
「……あの。あなたは、どなた、ですか……?」
ピシリ、と。
空間が凍りつくような音がした気がした。
ベルトランの表情から、一切の感情が抜け落ちていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、ベッドの傍らまで歩み寄ってくる。その足取りは、いつもの隙のない完璧なものではなく、どこかひどく覚束ない。
「……今、なんと言った」
「ご、ごめんなさい。私、何も思い出せなくて……ここはどこですか? 私は、誰……?」
必死に怯えた小動物を演じる。心臓が破裂しそうなほど早鐘を打っているが、引き返すことはできない。私は記憶喪失になったのだ。そうすれば、少なくとも「出来損ないのリリア」として責められることはないはずだ。
ベルトランの大きな手が、私の頬に伸びてきた。
叩かれる。
そう思ってぎゅっと目を瞑ったが、触れた手は拍子抜けするほど優しく、そして……ひどく震えていた。
「嘘だ……そんな、嘘だと言ってくれ、リリア」
絞り出すような、ひどく掠れた声。
恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景があった。
あの、冷徹で傲慢な義兄が、ベッドにすがりつくように膝をつき、顔を歪めて狼狽しているのだ。血の気を失った顔は青白く、その目には……うっすらと涙すら浮かんでいるように見えた。
◇◇◇
「……頭部の打撲による、一時的な記憶障害かと思われますな」
急遽呼ばれた老医師、クラウス先生は、ふむと顎髭を撫でながらそう宣告した。
彼は亡き両親の代からこの家に出入りしている専属医だ。診察の最中、私はこっそりと彼に向けて『お願い、話を合わせて』と必死に目配せをした。
長く私を診てきたクラウス先生は、私の小さな嘘に気づいたようだった。しかし、部屋の隅で頭を抱え、まるで世界が終わったかのように絶望しているベルトランを一瞥すると、小さく溜息をついて私の嘘に乗ってくれた。
「どれくらいで記憶が戻るかは個人差があります。無理に思い出させようとするのは逆効果です。くれぐれも、お嬢様にストレスを与えぬよう、心安らかにお過ごしいただくのが肝要かと」
「……ああ。分かっている」
ベルトランの声は、信じられないほど覇気がなかった。
クラウス先生が一礼して部屋を出て行くと、寝室には再び重苦しい沈黙が降りた。
やりすぎただろうか。
いくら私を嫌っていたとはいえ、身内が記憶を失ったとなれば、彼にも体面というものがある。面倒なことになったと怒るかと思ったが、今のベルトランからは怒りよりも、深い慟哭のようなものが感じられた。
「あの……」
気まずさに耐えかねて声をかけると、ベルトランが弾かれたように顔を上げた。
彼はゆっくりとベッドに近づき、やがて私の手を取った。その手つきは、まるで壊れやすいガラス細工を扱うかのように、ひどく慎重で優しい。
「……俺の顔も、名前も、分からないか」
「はい……申し訳、ありません」
「謝るな! 君は何も悪くない!」
突然の大きな声に肩をビクッと跳ねさせると、ベルトランは「すまない」と苦しげに顔を歪め、私の手の甲に自分の額を押し当てた。
「俺は、ベルトラン。お前の……義理の兄だ」
「お兄、様……?」
「ああ、そうだ。そして……」
ベルトランはふっと顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見つめた。
その青い瞳には、今まで見たこともないような熱が宿っていた。氷が溶け、熱いマグマが噴き出してきたかのような、狂おしいほどの熱。
「俺は、お前を誰よりも愛している。お前の全てを愛し、守るためだけに生きている男だ」
「…………はい?」
予想外すぎる言葉に、私の思考は完全に停止した。
今、なんと言った?
愛している? 守るためだけに生きている? あの、私をゴミを見るような目で見ていた義兄が?
「事故とはいえ、君をこんな目に遭わせてしまった俺を許してくれ。だが安心しろ、もう二度と、君に指一本触れさせない。これからは俺が全てを叶えよう。君はただ、俺の腕の中で微笑んでいてくれればいい」
熱に浮かされたように甘い言葉を紡ぎながら、彼は私の手の甲に、指先に、そして手のひらに、何度も何度も執拗に口づけを落としていく。
そのあまりの豹変ぶりに、私は恐怖とは違う意味で背筋に戦慄を覚えた。
――ちょっと待って。
これ、記憶喪失のフリ、やめられなくなってない……?
◇◇◇
それからの日々は、まさに天国と地獄が反転したかのような異常なものだった。
「あーん、だ。リリア」
「えっと……お兄様、私、さすがに自分で食べられます……」
「駄目だ。まだ手が震えているじゃないか。お前の柔らかい唇に銀のスプーンをぶつけて怪我でもしたらどうする。ほら、口を開けて」
真剣な顔でスプーンを差し出してくるベルトランを前に、私は躊躇しながらも小さく口を開いた。
運ばれてきたのは、舌の上でとろけるような最高級の牛肉の赤ワイン煮込みだ。以前の私なら、使用人の残った硬いパンと冷めた薄いスープしか与えられなかったというのに。
もぐもぐと咀嚼する私を、ベルトランはまるで世界で一番尊い生き物を観察するかのような、甘く蕩けた瞳で見つめている。
「美味しいか?」
「は、はい……とても」
「そうか、よかった。専属の料理長を王都から引き抜いてきた甲斐があったというものだ。デザートには南国から取り寄せた果物がある。後で一緒に食べよう」
……え? 王都から引き抜いた? 南国から取り寄せた? この数日の間に?
私は咳き込みそうになるのを必死に堪えた。
彼が私に与えるものは、食事だけではない。
殺風景で隙間風が吹いていた私の部屋は、最高級のふかふかの絨毯が敷き詰められ、壁には美しい絵画が飾られた。さらには王都で一番人気の仕立て屋が呼び出され、クローゼットには一生着きれないほどのドレスや宝石が詰め込まれた。
そして何より異常なのは、当主として激務だったはずのベルトランが、付きっきりの看病と称して片時も私のそばから離れようとしないことだ。
『お前のような出来損ないが、この家にいる価値を証明しろ』
かつて私を蔑んでいたあの氷の伯爵は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
記憶喪失という名の仮面の下で、私の猜疑心は膨れ上がるばかりだった。
◇◇◇
「……ふむ。お怪我の経過は極めて順調ですな」
数日後。往診に訪れたクラウス先生は、頭の包帯を取り替えながら満足げに頷いた。
部屋には今、私と先生の二人きりだ。先ほどまで私の手を握って離さなかったベルトランは、「領地の境界線に関する火急の案件」とやらで、泣く泣く執事に引きずられて執務室へと向かっていった。
「先生……っ!」
扉が閉まったのを確認するなり、私は先生の袖に縋るように掴みかかった。
「私、どうしたらいいんでしょう! お兄様が……お兄様が、おかしいんです!」
「おかしい、とは?」
「あんなに優しくされる理由がありません! あれは絶対に、何か裏があるんです。私が記憶を失ったのを利用して、私を油断させてから、もっと酷い罰を与えるつもりなんじゃ……!」
恐怖で震える私を見て、クラウス先生は困ったように眉尻を下げ、長く白い髭を撫でた。
「お嬢様。ベルトラン様は、裏表のあるような器用なお方ではありませんよ」
「でも、あんなに私を憎んでいたのに……っ」
「憎む、ですか。……不器用な男の愛情表現というのは、時として呪いのように見えるものですな」
先生の言葉の意味が分からず、私は目を瞬かせた。
愛情表現? あの、寝る間も惜しんで書類仕事を押し付け、些細なミスで冷たい言葉を浴びせてきた日々が?
「ベルトラン様は、若くしてこの家を継ぎ、血のにじむような努力で伯爵家を立て直されました。その過程で、人に甘えることも、甘やかすことも忘れてしまわれたのでしょう」
「……」
「お嬢様を厳しく指導されていたのも、いつかご自身に万が一のことがあっても、お嬢様が一人で生きていけるように……という、彼なりの不器用すぎる『守り方』だったのやもしれませんぞ」
嘘だ。
そんなの、ただの詭弁だ。
でも、もしそうだとしたら。記憶を失った(と思っている)私に対する今の異常なまでの溺愛は、枷が外れた彼の「本当の感情」だというのだろうか。
「……いずれにせよ、今さら『嘘でした』なんて言えません……」
「ええ。今真実を告げれば、ベルトラン様はショックのあまり寝込むか、あるいは……」
クラウス先生は意味深に言葉を濁し、おほほ、と笑った。ちっとも笑えない。
◇◇◇
その日の夜。
就寝前のブラッシングをメイドに頼もうとしたところ、なぜか寝着姿のベルトランが現れた。
「俺がやろう」
「えっ、でも、お兄様はお仕事でお疲れでしょうし……」
「君の髪に触れる時間は、俺にとって何よりの癒やしだ。お願いだ、俺にやらせてくれないか?」
すがるような、そしてどこか熱を帯びた青い瞳で見つめられ、私は小さく頷くことしかできなかった。
私の背後に回ったベルトランは、銀のブラシでゆっくりと、丁寧に私の長い髪を梳き始めた。
「……綺麗な髪だ。月光を編み込んだように美しい」
「あ、ありがとうございます……」
「以前の俺は、君のこの美しい髪を褒めることすらできなかった。本当に、愚かだったよ」
自嘲気味に呟く彼の声は、ひどく甘く、そして重い。
一定のリズムで髪を梳かれる心地よさと、彼の放つ独特の香水の香りに包まれ、私の頭は少しずつぼんやりとしてきた。
「リリア」
「はい」
「記憶が戻らなくても、構わない」
ふいに、背後から強く抱きしめられた。
ビクンと肩が跳ねる。彼の大きな体が私の背中をすっぽりと覆い、首筋に熱い吐息が懸かった。
「過去の俺がどれほど愚かで、君を傷つける男だったか……本当は、思い出してほしくない」
「お兄様……」
「このまま何も知らない君を、俺だけのものにできたら。……外の世界など何も知らず、俺の腕の中だけで生きていってくれたら、どんなにいいか」
それは、切実な願いのようでもあり、背筋が凍るような呪縛のようでもあった。
私の華奢な肩を抱き込む彼の腕の力は強く、まるで私がどこかへ消えてしまうのを極度に恐れているかのようだ。
胸の奥で、トクン、と奇妙な音が鳴った。
恐怖ではない。今まで感じたことのない、甘く痺れるような熱。
あんなに憎んでいたはずの義兄の不器用な本音に触れて、私の心に小さな綻びが生まれ始めていた。
――だめだ。これ以上絆されたら、本当に後戻りできなくなる。
私はぎゅっと目を閉じ、己に言い聞かせた。
これは私がこの家で無事に生き延びるためについた、ただの嘘なのだと。
◇◇◇
私が「記憶喪失」になってから、ひと月が経とうとしていた。
その間、ベルトランの過保護ぶりは加速する一方だった。
私が少しでも咳き込めば即座にクラウス先生が呼ばれ、庭を散歩したいと言えば「風が冷たい」と彼自身のマントで簀巻きにされ、あげくの果てには抱き上げられて移動する始末だ。
かつて私に冷たい視線を浴びせていた使用人たちも、当主の異常な溺愛ぶりを見て態度を豹変させた。今や私は、この伯爵家で最も丁重に扱われる、腫れ物……いや、壊れやすいガラス細工のような存在になっていた。
「……退屈だわ」
ふかふかのソファに沈み込みながら、私は小さく息を吐いた。
何不自由ない生活。甘く優しい言葉。かつて喉から手が出るほど欲しかった平穏がここにある。
けれど、何かがおかしい。
私は鳥籠に閉じ込められた小鳥のようだった。ベルトランという名の、美しくも恐ろしい猛禽類に守護された、黄金の鳥籠に。
「リリア、起きていたのか。疲れてはいないか?」
コン、と短いノックの直後に部屋に入ってきたのは、相変わらず私の部屋に入り浸っている義兄だった。
手には、美しい装丁の本と、湯気を立てる紅茶のセットを持った侍女を従えている。
「お兄様。私、ずっと座っているだけで、何も疲れるようなことは……」
「駄目だ。お前はまだ本調子ではない。ほら、今日は君が気に入りそうな恋愛小説を持ってきた。俺が読んで聞かせよう」
いや、字は読めるから自分で読めるのだけれど。
そう喉まで出かかった言葉を飲み込み、私は曖昧な愛想笑いを浮かべた。記憶喪失の大人しい妹という設定上、ここで強く反発するのは不自然だ。
ベルトランが隣に腰を下ろし、甘い声で本を読み始めたその時だった。
「失礼いたします、旦那様。急ぎの決裁をいただきたく……っ、ああっ!」
慌てた様子で部屋に駆け込んできた若い文官が、絨毯の縁につまずき、抱えていた大量の書類をばら撒いてしまった。
バサバサと音を立てて、床一面に羊皮紙が散らばる。
その瞬間、私の体が勝手に動いていた。
「あ、これ……西の領地の、去年の秋の収穫報告書ね。こっちが税の未納者リストで……。ああもう、数字の桁がまた間違っているじゃない。この代官、三回目よ……?」
床にしゃがみ込み、散らばった書類を凄まじい速度で分類し、内容の不備まで指摘し始めた私。
……ハッとして、息を呑んだ。
やってしまった。
かつて、ベルトランに命じられて毎晩のように徹夜でやらされていた領地経営の裏仕事。私の体に染み付いた「悲しい習性」が、無意識のうちに発動してしまったのだ。
しまった、と思った時には遅かった。
部屋の空気が、シン、と凍りついていた。
恐る恐る顔を上げると、文官は目を丸くして私を見ており、その奥で――ベルトランが、無表情でこちらを見下ろしていた。
「……リリア」
地を這うような、低く冷たい声。
かつての「氷の伯爵」の顔だった。背筋に冷たい汗が伝う。
嘘がバレた。記憶喪失などではないと、私が過去の仕事を完璧に覚えていると、知られてしまった。
殴られるだろうか。それとも、この部屋から引きずり出されて、またあの暗く冷たい屋根裏部屋に放り込まれるのだろうか。
私が恐怖で身をすくませた、次の瞬間。
「……お前、誰の許可を得て、俺の最愛の妹の美しい手を汚した?」
ベルトランの怒りの矛先は、私ではなく文官に向けられていた。
文字通り、殺気を孕んだ青い瞳。文官はヒィッと短い悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
「彼女は病み上がりだ。その視界に、こんな小汚い書類を入れることすら俺は許さないと言ったはずだ。今すぐ消えろ。そして二度と、彼女の部屋に仕事を持ち込むな」
「も、申し訳ございませんっ! すぐに出直します!」
文官は這うようにして書類をかき集め、嵐のように去っていった。
後に残されたのは、静まり返った部屋と、呆然とする私、そして……ふう、と深く息を吐き出し、いつもの甘い表情に戻ったベルトランだった。
「……驚かせてすまなかったね、リリア。怪我はないか? 紙で指を切ったりしていないだろうか」
そう言って私の手を取り、労るようにキスを落とす。
「あの……お兄様。私、今の書類の内容が、なぜか分かって……」
「ああ、君は優秀だからな。記憶がなくても、かつて少しだけ勉強した知識が残っていたのだろう。素晴らしいよ」
「えっ、あ、はい……」
無理がある。どう考えても無理がある言い訳だ。
いくらなんでも、あんな一瞬で複雑な税収の書類を仕分けできる「記憶喪失」がいるわけがない。
それなのに、ベルトランは私の嘘を暴こうとしない。むしろ、彼自身が「私が記憶喪失である」という都合の良い現実に縋り付いているようにさえ見えた。
◇◇◇
「……リリア。君に、見せたいものがあるんだ」
その日の夕食後。
ベルトランは、私の部屋のバルコニーで、星空を見上げながら静かに口を開いた。
彼の大きな手にはめられた手袋が外され、その指先が私の頬をそっと撫でる。
「君が記憶を失ってから、俺はずっと考えていた。過去の呪縛から解き放たれた君と、どうすれば永遠に一緒にいられるかを」
彼の瞳が、夜の闇の中で爛々と妖しい光を放っている。
「血の繋がらない義理の兄妹。……そんな脆い関係では、いつか君は俺の元から羽ばたいていってしまうかもしれない」
「お兄、様……?」
ベルトランは私の目の前で、ゆっくりと片膝をついた。
そして、彼のポケットから取り出されたのは、月光を反射して煌めく、大粒のブルーサファイアがあしらわれた指輪だった。
「記憶がない君を戸惑わせることは分かっている。だが、俺はもう、君を誰の目にも触れさせたくない。俺だけのものにしたいんだ」
指輪を持った彼の手が、震えていた。
あんなに傲慢で、完璧だった氷の伯爵が、たった一人の義妹を前にして、まるで縋り付くような顔をしている。
「兄としてではない。……一人の男として、俺の妻になってくれないか、リリア」
それは、決定的な一言だった。
私は息を呑み、一歩後ずさった。
結婚。
もしこれを受けてしまえば、私は一生、この甘くて恐ろしい鳥籠から抜け出せなくなる。
「記憶喪失」という嘘をつき続けたまま、彼を騙して生きていくことになる。それは、あまりにも――。
胸が苦しい。彼を騙しているという罪悪感と、不器用すぎる彼の愛に対する、説明のつかない熱い感情が入り混じり、私は泣き出しそうになっていた。
逃げなければ。
この甘い嘘から、早く目を覚まさなければ。
「お兄様、私……!」
私が何かを言いかけた、その時だった。
「――おやおや。感動的な求婚の最中に申し訳ないが、少し耳を貸していただきたい」
バルコニーの陰から、不躾な拍手と共に現れた影。
それは、私の嘘を知る唯一の人物、老医師のクラウス先生だった。
◇◇◇
「クラウス……貴様、何の真似だ」
突如として現れた闖入者に対し、ベルトランの青い瞳が剣呑な光を放った。空気が一瞬にして凍りつき、かつての「氷の伯爵」の威圧感がバルコニーを支配する。
しかし、老医師は飄々とした態度のまま、白髭を撫でて首を振った。
「お二人とも、あまりにも不器用で見ていられませんでな。旦那様、臭い物に蓋をして得た幸せなど、砂上の楼閣に過ぎませぞ。そしてお嬢様……」
クラウス先生の真っ直ぐな視線が、私を射抜いた。
「いつまでも、ご自身から逃げ続けるおつもりですか。嘘で固めた鳥籠の中で一生を終える覚悟が、本当におありで?」
「私、は……」
言葉に詰まった。
先生の言う通りだ。私は怖いからと逃げて、彼の罪悪感と不器用な愛情につけ込んで、自分にとって都合の良い世界を貪っていただけだ。
「……老いぼれの戯言はここまでにしておきましょう。あとは、お二人で」
クラウス先生は深く一礼すると、足音もなく部屋から去っていった。
後に残されたのは、重苦しい静寂と、片膝をついたままのベルトラン、そして私だけだ。
ベルトランが、訝しげに私を見上げる。
「リリア。嘘、とは何の話だ? まさか……」
彼の顔に、微かな焦燥が浮かぶ。
もう、限界だった。これ以上、私に甘く優しい彼を欺き続けることはできない。嫌われても、またあの暗い日々に戻ってもいい。本当のことを言わなくては。
「お兄様……ごめんなさい」
私は震える両手で顔を覆い、懺悔するように声を絞り出した。
「私、記憶喪失なんかじゃありません。最初から、全部……全部覚えていました。お兄様が私に冷たくしたことも、辛く当たったことも……」
「……」
「怖かったんです。あの冷たい目で見られるのが、怒られるのが。だから、記憶がないフリをすれば、怒られないで済むと思って……っ、本当に、ごめんなさい……っ!」
涙が溢れ、床にポロポロとこぼれ落ちる。
怒られる。見損なったと、今度こそこの家から叩き出されるかもしれない。
震えて身を縮ませる私を待っていたのは――。
「……ははっ」
頭上から降ってきたのは、怒声ではなく、低く甘い笑い声だった。
◇◇◇
恐る恐る顔を上げると、ベルトランは怒るどころか、どこか安堵したような、それでいてひどく妖艶な笑みを浮かべていた。
「お兄、様……?」
「ああ……なんだ。そうだったのか」
彼はゆっくりと立ち上がり、私に近づいてくる。
「書類の件で、薄々は気付いていた。だが、もし記憶が戻れば、君はまた俺を拒絶し、俺から離れていってしまうのではないかと……それだけが恐ろしかった」
「えっ……怒って、ないのですか? 私、嘘をついていたんですよ?」
「怒るはずがないだろう。むしろ、感謝しているくらいだ」
ベルトランの大きな手が、私の頬を伝う涙を優しく拭う。
「君が嘘をついてくれたおかげで、俺は君を愛する口実を得られたのだから」
「……っ!」
次の瞬間、私の左手は強く握られ、薬指に冷たい感触が滑り込んだ。
見れば、先ほどの大粒のブルーサファイアの指輪が、私の指にぴたりとはまっている。まるであらかじめ、私の指のサイズを完璧に測っていたかのように。
「お兄様、これは……」
「俺は、君に嫌われていると思っていた。だから厳しく指導し、せめて君が一人でも生きていけるだけの知識を叩き込むことしか、俺なりの愛の伝え方が分からなかった」
彼の青い瞳が、逃げ場のないほどの熱量で私を捉える。
「だが、君は逃げなかった。俺を騙してでも、俺のそばにいることを選んでくれた」
「そ、それは……ただ、家から追い出されるのが怖くて……」
「理由などどうでもいい」
ベルトランは私の腰を引き寄せ、逃げられないように強く抱きすくめた。
「君がすべてを覚えていて、過去の俺の傲慢さも、冷酷さも知った上で、それでも今、俺の腕の中にいる。それだけで十分だ」
「待って、お兄様、話が……」
「もう遅いよ、リリア」
耳元で囁かれる声は、甘く、酷く執拗で、まるで呪いのようだった。
「俺にこれほどの愛を教え、甘い夢を見せた責任は取ってもらう。……君の記憶があろうとなかろうと、もう二度と、この腕から逃がすつもりはない」
唇が、重なった。
有無を言わせぬ強引な、けれどひどく甘く蕩けるような口づけ。
息ができず、私は彼の広い肩にすがりつくことしかできない。抵抗しようとする微かな理性は、彼が与える圧倒的な熱と甘さの前に、あっけなく溶かされていく。
ああ、私は逃げる場所を間違えたのだ。
冷たい氷の伯爵から逃げるために選んだ「嘘」という名の隠れ家は、重すぎる愛と執着でできた、甘い甘い牢獄だった。
指にはめられたサファイアの指輪が、枷のように重く光る。
けれど不思議と、恐ろしさはなかった。彼の不器用な本質を知ってしまった私の胸には、諦めにも似た、奇妙な安堵感すら広がっていた。
「愛しているよ、俺の可愛いリリア」
「……私も、です。ずるくて不器用な、私の旦那様」
私が小さくそう返すと、彼は一瞬驚いたように目を丸くし、やがて今日一番の、心からの幸せそうな笑顔を浮かべた。
こうして、没落寸前の男爵令嬢だった私は、鬼畜だったはずの義兄の溺愛という、二度と出られない甘美な鳥籠に捕らえられたのだった。




