赤錆と嘴の女
【注意】
・この物語は、名称設定に際しAI(ChatGPT)の助言を一部参考にしています。
・挿絵は、筆者本人の手描きにAI(PixAI)での処理を一部加えています。
※ルビを多めに振っていますが、雰囲気です。
※諸々とフィクションです。
大正八年・冬――。
歴史ある宿場町から鉄道の町へと姿を変えつつある町、大宮。
駅の乗車場は、蒸気機関車が吐き出す真っ黒な煙に包まれていた。
その煙を切り裂くようにして現れたのは、鳥の嘴を思わせる異様な防毒面を被った女――鐘ヶ江爽子。
群衆の間を、異形の嘴が割って進む。それは、死神が町に降り立ったかのような不吉な気配を纏っていた。
傍らに控える老憲兵、重田源十郎が、古びた三十年式歩兵銃を背負い直し、低く唸るような声で告げた。
「一等官、工場の連中が怯えきっております。……蒸気機関の中を見て、正気でいられる奴は一人もおりませんでした。鉄の腹の中が、まるで腐った臓物のようであったとか」
爽子は嘴の奥で静かに呼吸を整え、細杖の握りを強く締め直した。
「案内して、重田曹長。鉄を腐らせるものが何なのか、この目で見極めなくては」
「いやしかし、一等官。もう日も暮れます。上野から一時間ばかりとはいえ、老体には堪えまする」
「……本音は?」
「酒と飯が、恋しゅうて」
夕暮れ時の空は、悍ましいほどに、鉄が錆びたような赤に染まっていた。
町行く人は皆、一様に黒の防毒面をつけている。昨年に続き、今年も西班牙風邪が流行していた。
遠くから聞こえる大金槌の打音と、病に伏せる町民の咳。それらが混ざり合い、奇妙な不協和音を奏でている。とても、晩酌を楽しむ空気ではない。
「酒場は早くに閉まるのでは?」
「うぐ……」
唸る源十郎を尻目に、爽子は歩みを進める。
「ならば、氷川神社へ挨拶に行きましょう。途中に食事処の一つでもあれば良し」
爽子は軽快、源十郎は重鈍。二人の長革靴の足音が、武蔵一宮――氷川神社へと伸びる参道へと溶けていった。
* * *
大宮町を抜け、二の鳥居、三の鳥居と参道を進む。
かつては天下に知られた松並木も、今や工場からの煤煙に焼かれ、無惨に立ち枯れている。剥がれ落ちた樹皮は、まるで源十郎の言う『腐った臓物』のように、赤黒く変色して道に散らばっていた。
年代を感じる巨大な赤松や黒松。朽ちた松の代わりには、杉や檜、欅が新たに植えられている。
並木の間からは、巨大な製糸工場の影が見えた。
「これはまた……随分と、様変わりしましたな」
「重田曹長は、大宮に来られたことはあるので?」
「露西亜と一戦交える前に、一度だけ」
苦々しく言う源十郎の瞳からは、心中を量りかねる。
「十五年程前ですか。時代も明治から大正へ。時の流れは人知れず」
大きな社を正面に、爽子は天を仰ぐ。
左右に流れる黒い煙は、まるで空を泳ぐ黒い龍を思わせた。
参拝を終え、二人は近くの食事処で、遅い夕食にありついていた。
「ふぅ、沁みる……」
熱燗を煽り、源十郎は鰌鍋に箸を入れた。正面に座る爽子は、未だに防毒面をつけたままだ。
爽子は、銘仙の派手な紫の着物の胸元へ手を入れる。
ジジジ。
防毒面の線条痕を、嘴の下まで開けて口を覗かせた。
「外さないのですか?」
「西班牙風邪に、怪現象。安易に外すは、危険でしょう」
周囲の視線を意に介さず、爽子は匙を手に取る。
「ライスカレーとは、またハイカラですな」
香り立つ香辛料は、食卓を異国へと誘う。
「お裾分け、いたしませんよ?」
「おや? 小官、そのような顔をしておりましたか」
赤ら顔の源十郎は、上機嫌に笑った。
* * *
翌日――。
爽子と源十郎は、内務省が用意した寝所から、鉄道院大宮工場へ来ていた。煉瓦造りの建物から放たれる轟音と黒煙、鉄の匂いが、閑静な宿場町を鉄の要塞へと、今も刻々と塗り替えている。
国の骨格たる鉄道の工場には、物々しい警備が敷かれていた。
「用件は?」
鉄道院の守衛が、睨みをきかせる。目の下の隈が濃い。
「小官は、陸軍省憲兵司令部附の憲兵曹長、重田源十郎。
こちらは、内務省衛生局臨時防遏課一等調査官、鐘ヶ江爽子殿――。
件の現象についての調査に参った次第。上の者へと取り次がれたし」
源十郎の言に、守衛は、彼の左腕の赤い腕章へと視線を落とした。
「……暫し待たれよ」
「その、異様な防毒面は?」
守衛の一人がどこかへと連絡し、もう一人が爽子を見据える。
「十八式百斯篤医師型試製防毒面。市井品とは異なる技法による防毒面でしてよ。詳細は内務省機密となります」
機密の一言に、守衛は押し黙る。
「係の者が参りました」
「鉄道院鉄道公務総研守備課主任の、笹野でございます。現場まで案内させていただきます」
急いできたのか、防毒面越しに荒い呼吸が伺えた。
「状況は?」
歩きながら、爽子の細杖を握る力が強まる。革の手袋の軋む音が、彼女の逸る気持ちを表していた。
「一昨日、電信でお伝えした通りにございます。鉄がまるで腐ったかのように……」
「錆びてはいないのかしら?」
「錆? いえ、それはありません」
「そう……まだ、錆びてはいないのね」
鉄が腐るのはまだ、始まりに過ぎない。そう告げる爽子の様子に、笹野は身震いした。
「あそこに見える研究棟です」
笹野の言葉に、周囲で働いている屈強な職工達の動きが止まる。あからさまに、研究棟を見ないようにしていた。
「何の研究を?」
「蒸気機関車の国産化。そのための、試作を幾つか」
笹野は震える手で重厚な扉を開け、研究棟の中へと入る。
防毒面越しでも分かる濃厚な鉄の匂いに、源十郎は眉をひそめる。
「重田曹長。あまり深い呼吸をしないように」
匂いがわかるということは、他の何かも吸い込みかねない。
「……あれです。あの弐号缶の焚口戸の中です」
源十郎は頷き、工廠に散らばる磨かれた最新鋭の部品の奥深く、蒸気機関の一つを視界に捉えた。
笹野が震える指で示した先には、沈黙した巨大な鉄の塊が鎮座していた。
源十郎が歩兵銃を構え、爽子が細杖でその重い鉄の扉を押し開ける。
本来ならば、石炭の爆ぜる熱気が溢れ出すはずのその口からは、どろりとした、鉄錆とも腐肉ともつかぬ死臭が這い出してきた。
中は赤々と燃える火床ではなく、臓物を思わせる、黒い何かが溜まっている。
ボトリ、ボトリ。
この蒸気機関は、気缶を焚いていない。常温にもかかわらず、内側の鉄が糸を引きながら、静かに崩れ落ちていた。
本来なら蒸気が噴き出し、圧力が唸るはずの鉄の巨体が、今はただ粘つく液音だけを漏らしている。
「鉄が、腐っている……」
言い得て妙とは、このことか。
「して、一等官。錆とは?」
源十郎の問いに、爽子は肩から下げた革鞄を開け、中から写真を一枚取り出す。
「昨年の西班牙風邪、第一波のときには、すでにこの怪現象の片鱗はあったのです」
源十郎と笹野は、写真を覗き込む。
〈鉄が腐り、人が錆びる〉
銀塩の粒子が荒いその写真には、走り書きの血文字のようなものが写っていた。
* * *
不鮮明な写真を手に取り、源十郎は文字の掠れ具合を確認する。
「これは、血ではありませんな」
露西亜との戦いで、嫌と言うほどに血を見てきた。
血というには、粒が目立つ。
「血ですよ。正確には、血であったもの――錆びた血です」
「血が錆る? いやしかし、それは……むぅ。鉄が腐るなら、血とて錆びても、可怪しくは……」
源十郎は、写真と眼前の鉄の腹を交互に見て、唸った。怪現象の前には、人の常識など無意味に思えた。
次いで爽子は、革鞄から小さな木箱を取り出す。
開けたそこには、手術刀に鑷子、白磁の小皿と何かしらの科学装置が収められていた。
装置の電源を入れると、真空管に火が入り計器窓が淡く光を放つ。
「蓄電池式ですかな?」
「屋井乾電池とGS電池の間の子、とでも言えばいいでしょうか。蓄電池では重いので。重田曹長は、これを」
爽子は携帯電燈を手渡す。
真鍮製の重厚な電燈で、源十郎は気缶の中に光を入れる。
乾電池から供給された微弱な電気が細糸を揺らし、腐る鉄壁をぼんやりと照らし出した。
「この世のものとは思えませんな」
源十郎の呟きに、笹野は無意識に喉を鳴らす。
最新鋭の鉄釜を覗き込んでいるはずなのに、まるで人の体内かのようだ。
爽子は手術刀で内壁を数箇所削り取り、鑷子で小皿に取る。
防毒面越しに、微かに腐臭が鼻を突く。笹野は匂いに、軽く咳き込んだ。
「これは、改十式霊子測定機。これでこの怪現象が、科学か怪異かを見極めます」
「霊子とな?」
「霊子、といっても幽霊の類ではありません。これは既存の物理学では説明のつかない、一種の高活力。内務省では、仮にそう呼称しているに過ぎません」
源十郎と笹野が固唾を呑む中、爽子は測定機へ採取した鉄片を収める。
ギリギリギリ。
測定機が何かを発し、鉄片が悲鳴を上げる。
計器窓の針が、激しく振れた。
「これは……昨年よりも、霊子が濃い」
「ア゙、アアァァァ!」
火花を散らす鉄片と呼応するかのように、笹野が悲鳴を上げた。
その叫びは、次第に湿った悲鳴から、鑢で金属を削るような、耳障りな軋み音へと変わっていった。
「笹野主任!?」
頭を抑え、笹野は床を激しくのたうち回る。
「痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
皮膚の下、血管が浮かび上がり、強く脈動していた。
「重田曹長、下がって!」
計器の示す数値から視線を外すことなく、爽子は叫ぶ。
「しかし、放って置くなど」
「いいから、下がりなさい!」
ブチブチブチ。
爽子に気圧され源十郎が一歩下がったのと、笹野の皮膚の下から赤い棘が無数に生えたのとが、同時だった。
血だ。
体内から血が棘のように肉を突き破り、そして固まっている。
空気に触れた血はやがて変色し、粉となってザラザラと崩れ落ちた。
「……人が、血が、錆た」
唖然としながらも、源十郎は無意識に古びた三十年式歩兵銃を構える。
源十郎は、未だ測定機を冷静に見る爽子を庇うように一歩、笹野に近付く。
「露西亜の砲弾で吹き飛んだ兵卒の方が、まだ救いがあった」
動かぬ笹野に躙り寄りながら、源十郎は聞き耳を立てる。
呼吸音は無い。
果たして、笹野の命は尽きたのか。
研究棟の外から、喧騒が聞こえてくる。
一抹の不安を感じる中、爽子と源十郎の呼吸音と衣擦れの音だけが、やけに大きく聞こえた。
ジリジリジリ。
測定機が、けたたましい鈴の音を立てた。
ゴキン。
金属音を立て、笹野は立ち上がる。その表情は、既に人のものではない。
入館証が、床に落ちていた。
パァン。
三十年式歩兵銃が乾いた音を放つ。
弾丸は笹野であったものに当たるも、動きを止めない。
銃創は主に大量出血と臓器破壊により死を運ぶもの。
血が錆びる――鉄ならば、細部まで伸びるその血管は、まるで鎖帷子。臓器はさしずめ、鉄の鎧。
「弾は駄目か」
源十郎は腰から右股に設けた銃剣嚢から、銃剣を抜き取り、歩兵銃の先端へ取り付ける。
「ぬぅうんっ!」
長身と銃身の長さを活かした、渾身の振り下ろしを肩口に見舞う。
ガヅン。
「人を斬ったとは思えん音だ! だが!」
源十郎は強引に銃剣をねじ込み、そのまま右腕を斬り落とした。
血は吹き出すことはなく、錆が舞う。
腕を失ってもなお、鉄の怪物となった笹野は距離を詰めてくる。だが、その動きは鈍い。
ズシンズシンと、重い足取りで着実に詰め寄る。
「一等官、何か手は!?」
怪物から視線を切ることなく、源十郎は歩兵銃を腰高に構える。
「良い時間稼ぎでした。さすがは重田曹長。歴戦の猛者」
爽子は細杖に仕込んだ剣を抜いた。
持ち手の尻からは電線が伸び、トンビコートの裏へと続いている。
「残りの腕……牽制をお願いできるかしら?」
「お任せを」
怪物の左腕に狙いを定め、源十郎は歩兵銃の銃剣で、鋭い突きを繰り出す。
爽子は怪物の右側へと回る。
「やあっ!」
肩の傷口――剥き出しの体内へと、剣先を突き立てた。
バヂッ。
蒼い稲光が奔る。
二度、三度と、怪物の身体が奇妙に波打つと、鉄の怪物はザラザラと音を立て、崩れ落ちた。
床に残ったのは、穴の空いた肉片と、多量の赤錆――。
測定機の真空管の音が、やけに鮮明に聞こえた。
警戒を解かぬ源十郎は、小声で唸る。
「終わった……のですか?」
「ええ」
細い鞘に仕込み剣を戻し、爽子は答えた。
年の頃なら、自分の娘と変わらぬ爽子の堂に入った様子に、源十郎は舌を巻く。
「只の細杖でないとは思っていましたが、それは?」
歩兵銃から銃剣を取り外し、源十郎は爽子の手元を見る。
爽子は細杖から電線を外すと、ゴソゴソと外套の下で手を動かす。
ゴトリ、と野太い円筒形の乾電池が床に落ちた。
熱い乾電池の科学的な焦げ臭さと、亡骸の赤錆の匂いが研究棟を満たしていた。
「十九式霊子昇華細剣。構造上、突きしか出来ないのと、一発に乾電池一つという燃費の悪さが課題の、極秘兵器です」
測定機の数値は、依然として危険値を示している。
外の喧騒は、徐々に大きくなっていく。
源十郎は再び、銃剣を歩兵銃へ取り付ける。
「……一等官」
「ええ」
「根源を、なんとかしなくては」
* * *
昼――。
時間的には、昼に違いない。
「一等官、これは?」
歩兵銃を握る源十郎が、研究棟の格子窓から空を見上げる。
しかし、見える空は、赤く染まっていた。煙突から絶えず生まれる煤煙が、まるで黒い雪のように舞い散っている。
「このあたり一帯が、怪異に呑まれたと見るべきでしょう」
淡々と爽子は、小さな測定機を革鞄へ仕舞う。
「変容した者は……凡そ半数、といったところか」
源十郎は苦々しい思いで、鉄道院大宮工場の惨状を見る。
職工は半数近くが鉄の怪物へと変容したようだ。
残ったものは逃げ回る者。鉄棒などを手に取り、果敢にも戦ったりする者。対応はまちまちだ。
既に倒れ伏した者が、どちらに属していたのか。源十郎には、判別がつかなかった。
「動きが鈍いのが、まだ不幸中の幸いか」
だが、加勢しようにも、旧式の三十年式歩兵銃一挺では、心許ない。
職工たちには悪いが、今は、この怪現象の対処を担う爽子を守ることが肝要だと、源十郎は歩兵銃を握る手に力を込める。
「私の当初の考えは、違っていたようです」
爽子の声音に、微かな硬さが混じった。
「と、言いますと?」
腐る鉄釜の内部に何かを仕込む爽子の背中に、源十郎は声をかけた。
「昨年の怪現象は、横浜で起きました。今年は、鉄の町となった大宮まで伝播したものと考えておりました。
だが、これは違ったのです。
ここ大宮町の、この工場こそが、発生源――」
僅かに後悔を滲ませる爽子の言葉に、源十郎は希望を見出す。
「では、その蒸気機関を破壊すれば……」
源十郎の言葉に頷き、爽子は手にした小型の発信機を作動させた。
バヂン。
蒼い稲光が、気缶の中で弾けた。
ボロボロと、鉄の塊が崩れていく。
「まずは『弐号缶』。おそらく、どこかにまだある筈です――昨年の、本当の発生源たる『壱号缶』が」
* * *
帝国最大級の鉄道院大宮工場。数千人の職工を抱えるそこは、一つの町とすら言えた。
居並ぶ棟の中から、一つの気缶を探すのは――現実的ではない。爽子と源十郎は工場長の執務室を擁する管理棟を目指していた。
工場の騒音は、まるで金属同士が会話しているかのように思えた。
赤い煉瓦造の、二階建ての建物が視界に入る。
一階の守衛所では、職工と守衛が揉み合っていた。
弐号缶を破壊したことで鉄の怪物は崩れ去ったが、かといってそのまま仕事を続けることなど、普通の神経では無理だろう。
爽子と源十郎は、守衛の制止を振り切り、階段を駆け抜け二階へと進む。
そこは工場の喧騒など知らぬとばかりに、静けさに包まれていた。
「行きましょう」
長革靴の足音が、廊下にやけに響いた。
「失礼する」
中の返事を待たず、源十郎は工場長室の重厚な扉を開けた。
高い天井。そして、工場全体を見渡せる大きな窓。壁には明治天皇の御影と、大宮工場の全景写真。
艶のある桃花心木の机には、幾つかの図面と真鍮製の文鎮がある。
「おやこれは、一等調査官殿。早速の怪現象解決、お見事でございますな。帰路につく前の、挨拶ですかな?」
工場長は葉巻の煙をくゆらせ、爽子と源十郎に視線を送る。
背もたれの高い椅子に、工場長――岩國玄蔵は深く座っている。
その言い様はまるで、結果を最初から知っていたかのような口ぶりだった。
「解決? まだ至っておりませんわ。此度の真の元凶は、『壱号缶』であると推察致しました。所在を教えていただけますかしら?」
「壱号缶? はて、何のことらや」
「笹野主任が、あれは『弐号缶』と申しておりましたよ。隠蔽をするなら、もう少し話を擦り合わせておくべきでしたわね」
爽子の言葉に、岩國は葉巻を灰皿に押し付ける。
その指先が、僅かに赤錆を帯びているのを、源十郎は見逃さなかった。
「黙って帰ればよいものを……。
小賢しい女狐、いや、鴉か」
爽子の嘴を不快そうに見つめ、岩國は椅子から立ち上がる。
「動かないで頂きたい」
源十郎が歩兵銃を構え、声を張る。
「私に銃を向けるとは、なんたる無礼な」
ミシリ、ではない。
湿った音を立て、岩國が掴んだ机の縁が指の形に沈み込んだ。
露西亜の屈強な兵士でも、分厚い木の机を握りつぶすことなど出来ない。
「貴方も既に怪物か!」
パァン。
歩兵銃の乾いた銃声が響く。
コロコロと、潰れ歪んだ弾丸が床に転がる。
「そのような年代物、何の役に立ちましょうや」
源十郎の脳裏に、凄惨な戦場が蘇る。
「逃げますぞ、一等官!」
即時撤退の号に、爽子は弾かれたように踵を返す。
パァン。
動きを制するために、岩國の足元へ発砲し、源十郎も走る。
岩國の足元の絨毯は、朽ちたかのようにボロボロだった。
「裏口から出ます!」
「承知!」
銃声を聞き駆けつけた守衛を避け、爽子と源十郎は一階裏口から工場へと戻った。
「如何なさいますか、長殿」
尋ねる守衛の瞳は、ザラつく赤で染まっていた。その声には、先程までの人間らしい抑揚がなかった。
「私自ら、おもてなしをしようではないか」
岩國の言葉に、守衛は三十八年式歩兵銃を差し出した。
* * *
全力疾走に息を切らし、爽子は工場の影でしゃがみ込む。
源十郎は三十年式歩兵銃を構え、周囲を警戒していた。
弐号缶破壊で収まった怪現象は、今再び、広がっている。
いや、その侵食具合は、先程までとは比べ物にならない。あちこちから、雄叫びのような、金属の擦れるような、耳障りな音が木霊している。
「参りましたな……壱号缶の所在は分からずじまいな上に、工場長までもが怪物とは」
「そう、でも……ありません、よ」
呼吸を整えながら、爽子は立ち上がると、とある棟を指差す。
「おそらく、あそこかと」
「なぜか、伺っても?」
源十郎には、示された棟が他と違うようには思えなかった。
「執務室の窓、あそこから一番良く見えるのがあの棟。あとは、壁の全体写真に、ご丁寧に赤丸がありましたの」
「目敏いですな」
「この防毒面、視線を悟られないのです」
源十郎は一瞬、爽子が笑ったように思えた。
「持久戦になれば、こちらが不利。迅速に参りましょう」
こちらは個、対して敵は組織。時間をかける余裕はなかった。
ざわり。
源十郎の背に、寒気が走る。
「一等官!」
源十郎は咄嗟に爽子を突き飛ばす。
パァン。
今しがたまで爽子の頭があった壁に、銃痕が穿たれた。
「追っ手か!」
銃声のした方に向け、源十郎は三十年式歩兵銃を構える。
シャコン。
軽快な音を立て、岩國の歩兵銃が火を吹く。
狙いは正確だった。殺意だけが、無駄に洗練されている。
「三十八年式! 一等官、走れ!」
パァン。
土埃が舞う。
「ここは小官が! 行けっ!」
爽子は返事をする間も惜しみ、全力で駆ける。
ガリッ。
源十郎の三十年式が、無骨な金属音を上げる。
パァン。
振れる銃身の癖を、経験と膂力で補正した源十郎の弾丸は、岩國の胸元に当たる。
だが、何事もなかったかのように、岩國は悠然と歩いている。
「やはり、臓のあるところは駄目か」
血が集まるところ――鉄の塊となった臓器の前に、弾丸は無力だった。
源十郎は走りながら、歩兵銃の先端に銃剣を取り付ける。
シャコン、シャコン。
岩國の三十八年式、その防塵覆が小気味よい音を立てる。
「なぜ当たらん!」
苛立つ岩國の目前に迫り、源十郎は銃剣を振り下ろす。
「怪物とはいえ、所詮は素人か!」
ザリッ。
肉とも砂とも言えぬ感触が、歩兵銃に走る。
「ぬぅぉおっ!」
裂帛の気合とともに、源十郎は歩兵銃に体重を乗せる。
「ぐぉおお……!」
切り落とされた左肩から、派手に血飛沫が舞い、それは赤錆となって周囲を赤く染めた。
僅かに怯むも岩國は、太腿に銃床を押し当て、慣れた動作で遊底を引く。
源十郎の額に歩兵銃を突き付けた。
「ふはは! 勝負ありだな!」
ガチッ。
三十八年式は動かない。動作不良だ。
「赤錆を噛んだか! 精密なのはいかんな!」
源十郎は予備の三十年式銃剣を腰から抜くと、岩國の右手首を斬る。
「ぐぅ……」
落とした三十八年式を、源十郎は蹴り飛ばす。
ザクッ。
源十郎は岩國の喉元に歩兵銃を突き立てた。
「いかな怪物といえど、頭を吹き飛ばせばどうかな?」
ガチッ。
三十年式は動かない。
「赤錆を噛んだか。骨董品は駄目だな」
岩國は笑う。
「ふん」
源十郎は剥き出しの撃茎を掴み、噛み込んだ閉鎖を力任せに解いた。
指先に嫌な振動が走る。
即座に予備の弾丸を押し込み、引き金を絞った。
ガリッ、チィィン。
放たれた弾丸は、顎から頭を貫通した。
真っ黒な煤が、吹き出しては風に消えた。
「最新鋭よりも、コイツの方が我儘を聞いてくれる」
歪んだ銃剣を歩兵銃から取り外し、源十郎は深く息を吐いた。
倒れた岩國の身体は、まるで、完全な死を拒むかのように、なおも微かに軋んでいた。
その音は、工場のどこかで鳴り続ける鉄の軋みと、同じだった。
* * *
背後で銃声が響いている。
爽子は、壱号缶があると思しき棟へと走った。
心配はない。
重田源十郎曹長は、露西亜戦争を生き延びた武人。怪物に屈したりなど、しない。
息も絶え絶え、爽子は目的の棟の鉄扉を開ける。
外の赤焼けの光に照らされて、それは口を開け待っていた。
「これが、壱号缶?」
辛うじて蒸気機関だと分かる姿は、しかし異様に巨大だった。
手前にはこの場に似つかわしくない、朱塗りの鳥居。
周囲は太い注連縄が幾重にも張り巡らされ、床には札らしきものが、規則正しく貼られている。
明らかに、人為的な――儀式。
「こんな大規模なもの……工場長独断とは、とても」
上は工作局長か、あるいは鉄道院総裁か。
爽子は周囲を警戒しながら、壱号缶へと近付いていく。
熱い。
気缶には、火が入っている。
焚べられているのは――。
「そんな……」
鉄の怪物となった職工たちが、列を成している。
順番に、順番に。
躊躇うことなく、自ら地獄の釜へと身を投じている。
焼けた油と鉄、そして……夥しい数の人間が焼かれた、甘ったるい腐臭が、建物全体の空気をねっとりと掻き回していた。
「いったい、これは……」
言葉を失う爽子の眼の前で、気缶は水と可燃物の代替たる職工を飲み込み、蒸気と共に何かを吐き出した。
それは熱く焼かれた、鉄。
人の貌をした、鉄。
爽子は、息を吸おうとして――吸えなかった。
胃の奥が、キリキリと音を立てて縮こまる。
「ふむ。なんとか間に合ったか」
鉄が言葉を発した。
岩國の声だ。
「顔は見えぬが――動揺しているな、鴉よ」
「貴方は……何なのですか、工場長」
絞り出した爽子の声は、微かに震えていた。
「私かね? 私は新たな帝国人にして、新たな兵士。この帝国を支える、新たなる力!」
岩國の言葉に、気缶が、建物が、歓喜に震えた。
「鉄人とでも呼び給え!」
まさに鉄の人。
全身が鉄となった岩國は、高らかに叫んだ。
* * *
カチャリ。
爽子は油断なく、細杖から仕込み剣を抜く。
「鉄を通じて、見ていたぞ。笹野君を屠った兵器だな。私に通じるかな? あと何発、打てるかな?」
岩國の鉄の口が、愉悦に歪む。
爽子は静かに、十九式霊子昇華細剣を構える。
打てと言わんばかりに、岩國は両腕を広げ、爽子に向かい歩み寄る。
「見縊るな!」
気迫とともに、爽子は細剣を繰り出す。
鉄の額に触れると同時に、蒼い稲光が走る。
「ん~? 今、何かしたかね?」
岩國は広げていた腕で、細剣ごと爽子を振り払った。
「ぐっ、はあ゙っ」
爽子は悶絶しながら、壁際まで吹き飛ばされた。骨が軋む音が、身体を駆け抜ける。
視界の端が白く滲み、思考が一瞬、空転した。
「科学は、まだ非力なり」
ズシンズシンと、重い足音を立てながら、岩國は爽子を睨みながら、歩み寄る。
「だが、技術は必要だ。そして、技術の前に、人もまた無力なり」
勝利を確信した岩國の雄弁は、止まらない。
「鉄道は今後、帝国の繁栄には不可欠。
しかし! それを造るには危険が多い。あまりにも人が死にすぎる!
故に我らは考えた。
鉄に負けぬ人を、造る術を。人が鉄であれば、鉄には負けぬ!
そして――死を超えた鉄人は、やがて帝国最強の兵となる!」
「君は知りすぎた。安心し給え。内務省には、『怪事件は解決したが、一等調査官殿は不慮の事故で亡くなった』とでも報告しておくよ」
拳を振り上げ、今まさに振り下ろさんとする瞬間。
「たあああっ!」
岩國の右目めがけて、細剣を突く。
「ぬぐぅ? 狙いは良いが……」
蒼い稲光が走る――二度、三度と。
「ぐぅぅうっ! 連射だとっ? 単発兵器ではないのか!?」
怯む岩國に、爽子は残りの乾電池を全て注ぎ込む。
ゴトンゴトンと重い音を響かせ、太い乾電池が落ちる。
合計五連波。
しかし、岩國の鉄の身体は崩れなかった。
パキンと音を立て、細剣が砕けた。
「残念だったな」
右目から血の代わりに錆を流しながら、岩國は再び拳を振り上げる。
「一等官!」
源十郎の叫びが響いた。
歩兵銃を構えながら、源十郎は一直線に鉄の怪物へと走る。
パァン、パァン。
走りながら正確に、源十郎は岩國の残る左目を狙い撃つ。
「おのれ! 小賢しい! 今更こんな豆鉄砲、痛くも痒くもないわ!」
目を庇う岩國に、尚も源十郎は撃ち続ける。
「ならばなぜ防ぐ! 矛盾しておるぞ!」
源十郎は走る勢いそのままに、岩國に体当たりをかます。
転がりながら源十郎は、両手にした三十年式銃剣を鋏のように重ね、岩國の首元へ押し付ける。
「ぐっ、おのれ!」
「ええい、暴れるな! 一等官、弐号缶を壊したアレは?」
爽子は革鞄を探る。
「駄目です、割れております」
「ならば細剣を!」
源十郎は折れた細剣に視線を送る。
二本の銃剣ごと岩國の首を膝で抑え、源十郎は爽子から細剣を受け取る。
「折れて……しかも、もう乾電池が」
「なあに、乾電池なら、ある」
源十郎は携帯電燈を取り出すと、床に叩きつけた。
壊れた携帯電燈から乾電池を取り出すと、細剣と共に左手に握る。
「電線も不要。なにせコイツは、鉄ですからな!」
そのまま源十郎は、左手を岩國の口へ入れた。
バヂヂッ。
蒼い稲光と、血飛沫が舞う。
「ぐぅっ」
源十郎は左手を引き抜き、苦悶の表情を浮かべる。
「なんて無茶を!」
肉の焦げた匂いのする中、岩國の鉄の身体が激しく痙攣する。
ギリギリギリ。
金属の削れるような断末魔を上げ、岩國は錆びて朽ちた。
それが合図かのように、列を成していた職工が動きを止めた。
「しかし、困りましたな。壱号缶をどうしたものか」
異形の壱号缶と怪物となった職工を見ながら、源十郎は唸る。その左手は焼け焦げ、止血のために布が巻かれている。
「霊子的には難しいですが、物理的に破壊してしまいましょう」
「しかし、どうやって?」
手持ちの主な武装は、壊れている。
「こうするのです」
爽子は懐から小型の自動拳銃を取り出す。
「それも、特別な兵器で?」
「いえ? 只の南部式自動拳銃ですわ」
パン。
軽い発砲音。
弾丸は見事に気缶に当たる。
グオングオンと、振動が反響する。
「本来、気缶とは繊細なもの。ましてやこの様な歪なものは、僅かな振動でも耐えられないでしょう」
亀裂が走り、気缶全体が揺れ始める。
「一等官、逃げるぞ!」
慌てて源十郎は爽子の手を取り、出口へ向かって走る。
沸騰した薬缶のような音をたて、壱号缶は破裂した。
圧縮された水蒸気は、工場の屋根を吹き飛ばす。
爆風に煽られ、爽子と源十郎は空を舞った。
空が赤い――。
「失敗しましたかな? まだ怪異に呑まれたままと見える」
煤と錆に塗れ、源十郎は天を仰ぐ。
「いいえ。あれは、只の夕日ですよ」
安堵した声の爽子に、源十郎は笑顔を見せる。
遠く、警笛が聞こえる。
「しかし、あの奇っ怪な釜は、何だったので?」
「原理は分かりませんが、おそらくは、ここの土地神さまを利用したものかと」
爽子の言葉に、源十郎は興味無さげに唸る。
「ふぅむ、小難しいのはよう分からん。まあ、頑張って報告書を書かれよ」
「何を他人事な。重田曹長も、報告書を書くのですよ?」
派手に銃撃戦をしたのだ。報告書は免れない。
お互い肩を竦め、二人は帰路についた。
* * *
大正九年五月十五日――。
鉄道院は鉄道省へと格上げされ、強い独立性と予算権限を持つようになった。
大宮工場の爆破事故は不慮の事故として処理され、職工たちの死もまた、西班牙風邪のためとされた。
鐘ヶ江爽子と重田源十郎の報告書は黙殺されるも、内務省は正式に衛生局防遏課を設立。
嘴の女は今日も人知れず、怪異を防遏している。
【挿絵:嘴の女】
* * *
2026/02/01 本文・挿絵投稿。




