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赤錆と嘴の女

作者: 丸介
掲載日:2026/02/01

【注意】

 ・この物語は、名称設定に際しAI(ChatGPT)の助言を一部参考にしています。

 ・挿絵は、筆者本人の手描きにAI(PixAI)での処理を一部加えています。


 ※ルビを多めに振っていますが、雰囲気です。

 ※諸々とフィクションです。

 大正八年・冬――。


 歴史ある宿場町から鉄道の町へと姿を変えつつある町、大宮。

 駅の乗車場プラットフォームは、蒸気機関車が吐き出す真っ黒な煙に包まれていた。


 その煙を切り裂くようにして現れたのは、鳥のくちばしを思わせる異様な防毒面マスクを被った女――鐘ヶ江爽子(かねがえさわこ)

 群衆の間を、異形の嘴が割って進む。それは、死神が町に降り立ったかのような不吉な気配を纏っていた。


 傍らに控える老憲兵、重田源十郎(しげたげんじゅうろう)が、古びた三十年式歩兵銃を背負い直し、低く唸るような声で告げた。

  「一等官、工場こうばの連中が怯えきっております。……蒸気機関ボイラーの中を見て、正気でいられる奴は一人もおりませんでした。鉄の腹の中が、まるで腐った臓物のようであったとか」


  爽子は嘴の奥で静かに呼吸を整え、細杖ステッキの握りを強く締め直した。

 「案内して、重田曹長。鉄を腐らせるものが何なのか、この目で見極めなくては」

 「いやしかし、一等官。もう日も暮れます。上野から一時間ばかりとはいえ、老体には堪えまする」

 「……本音は?」

 「酒と飯が、恋しゅうて」


 夕暮れ時の空は、おぞましいほどに、鉄が錆びたような赤に染まっていた。

 町行く人は皆、一様に黒の防毒面をつけている。昨年に続き、今年も西班牙スペイン風邪が流行していた。

 遠くから聞こえる大金槌ハンマーの打音と、病に伏せる町民の咳。それらが混ざり合い、奇妙な不協和音を奏でている。とても、晩酌を楽しむ空気ではない。


 「酒場は早くに閉まるのでは?」

 「うぐ……」

 唸る源十郎を尻目に、爽子は歩みを進める。


 「ならば、氷川神社へ挨拶に行きましょう。途中に食事処の一つでもあれば良し」

 爽子は軽快、源十郎は重鈍。二人の長革靴ブーツの足音が、武蔵一宮――氷川神社へと伸びる参道へと溶けていった。


 * * *


 大宮町を抜け、二の鳥居、三の鳥居と参道を進む。


 かつては天下に知られた松並木も、今や工場からの煤煙に焼かれ、無惨に立ち枯れている。剥がれ落ちた樹皮は、まるで源十郎の言う『腐った臓物』のように、赤黒く変色して道に散らばっていた。


 年代を感じる巨大な赤松や黒松。朽ちた松の代わりには、杉やヒノキケヤキが新たに植えられている。

 並木の間からは、巨大な製糸工場の影が見えた。


 「これはまた……随分と、様変わりしましたな」

 「重田曹長は、大宮に来られたことはあるので?」

 「露西亜ロシアと一戦交える前に、一度だけ」


 苦々しく言う源十郎の瞳からは、心中をはかりかねる。

 「十五年程前ですか。時代も明治から大正へ。時の流れは人知れず」

 大きな社を正面に、爽子は天を仰ぐ。

 左右に流れる黒い煙は、まるで空を泳ぐ黒い龍を思わせた。


 参拝を終え、二人は近くの食事処で、遅い夕食にありついていた。

 「ふぅ、沁みる……」

 熱燗を煽り、源十郎はどじょう鍋に箸を入れた。正面に座る爽子は、未だに防毒面をつけたままだ。


 爽子は、銘仙めいせんの派手な紫の着物の胸元へ手を入れる。

 ジジジ。

 防毒面の線条痕チャックを、嘴の下まで開けて口を覗かせた。


 「外さないのですか?」

 「西班牙風邪はやりやまいに、怪現象。安易に外すは、危険でしょう」

 周囲の視線を意に介さず、爽子は匙を手に取る。


 「ライスカレーとは、またハイカラですな」

 香り立つ香辛料スパイスは、食卓を異国へといざなう。

 「お裾分け、いたしませんよ?」

 「おや? 小官、そのような顔をしておりましたか」

 赤ら顔の源十郎は、上機嫌に笑った。


 * * *


 翌日――。


 爽子と源十郎は、内務省が用意した寝所から、鉄道院大宮工場へ来ていた。煉瓦レンガ造りの建物から放たれる轟音と黒煙、鉄の匂いが、閑静な宿場町を鉄の要塞へと、今も刻々と塗り替えている。


 国の骨格たる鉄道の工場には、物々しい警備が敷かれていた。

 「用件は?」

 鉄道院の守衛が、睨みをきかせる。目の下の隈が濃い。


 「小官は、陸軍省憲兵司令部(つき)の憲兵曹長、重田源十郎。

  こちらは、内務省衛生局臨時防遏(ぼうあつ)課一等調査官、鐘ヶ江爽子殿――。

  くだんの現象についての調査に参った次第。上の者へと取り次がれたし」


 源十郎の言に、守衛は、彼の左腕の赤い腕章へと視線を落とした。

 「……暫し待たれよ」

 「その、異様な防毒面は?」

 守衛の一人がどこかへと連絡し、もう一人が爽子を見据える。


 「十八式百斯篤(ペスト)医師型試製防毒面。市井しせい品とは異なる技法による防毒面でしてよ。詳細は内務省機密となります」

 機密の一言に、守衛は押し黙る。

 「係の者が参りました」

 

 「鉄道院鉄道公務総研守備課主任の、笹野ささのでございます。現場まで案内させていただきます」

 急いできたのか、防毒面越しに荒い呼吸が伺えた。


 「状況は?」

 歩きながら、爽子の細杖を握る力が強まる。革の手袋の軋む音が、彼女の逸る気持ちを表していた。

 「一昨日、電信でお伝えした通りにございます。鉄がまるで腐ったかのように……」

 「錆びてはいないのかしら?」

 「錆? いえ、それはありません」

 「そう……まだ、錆びてはいないのね」

 鉄が腐るのはまだ、始まりに過ぎない。そう告げる爽子の様子に、笹野は身震いした。


 「あそこに見える研究棟です」

 笹野の言葉に、周囲で働いている屈強な職工しょっこう達の動きが止まる。あからさまに、研究棟を見ないようにしていた。

 「何の研究を?」

 「蒸気機関車の国産化。そのための、試作を幾つか」


 笹野は震える手で重厚な扉を開け、研究棟の中へと入る。

 防毒面越しでも分かる濃厚な鉄の匂いに、源十郎は眉をひそめる。

 「重田曹長。あまり深い呼吸をしないように」

 匂いがわかるということは、他の何かも吸い込みかねない。


 「……あれです。あの弐号缶の焚口戸たきぐちこの中です」

 源十郎は頷き、工廠に散らばる磨かれた最新鋭の部品の奥深く、蒸気機関の一つを視界に捉えた。

 笹野が震える指で示した先には、沈黙した巨大な鉄の塊が鎮座していた。


 源十郎が歩兵銃を構え、爽子が細杖でその重い鉄の扉を押し開ける。

 本来ならば、石炭の爆ぜる熱気が溢れ出すはずのその口からは、どろりとした、鉄錆とも腐肉ともつかぬ死臭が這い出してきた。

 中は赤々と燃える火床ひどこではなく、臓物を思わせる、黒い何かが溜まっている。


 ボトリ、ボトリ。

 この蒸気機関は、気缶きかんを焚いていない。常温にもかかわらず、内側の鉄が糸を引きながら、静かに崩れ落ちていた。

 本来なら蒸気が噴き出し、圧力が唸るはずの鉄の巨体が、今はただ粘つく液音だけを漏らしている。

 「鉄が、腐っている……」

 言い得て妙とは、このことか。


 「して、一等官。錆とは?」

 源十郎の問いに、爽子は肩から下げた革鞄を開け、中から写真を一枚取り出す。

 「昨年の西班牙風邪、第一波のときには、すでにこの怪現象の片鱗はあったのです」

 源十郎と笹野は、写真を覗き込む。


 〈鉄が腐り、人が錆びる〉


 銀塩の粒子が荒いその写真には、走り書きの血文字のようなものが写っていた。


 * * *


 不鮮明な写真を手に取り、源十郎は文字の掠れ具合を確認する。

 「これは、血ではありませんな」

 露西亜との戦いで、嫌と言うほどに血を見てきた。

 血というには、粒が目立つ。


 「血ですよ。正確には、血であったもの――錆びた血です」

 「血が錆る? いやしかし、それは……むぅ。鉄が腐るなら、血とて錆びても、可怪おかしくは……」

 源十郎は、写真と眼前の鉄の腹を交互に見て、唸った。怪現象の前には、人の常識など無意味に思えた。


 次いで爽子は、革鞄から小さな木箱を取り出す。

 開けたそこには、手術刀メス鑷子ピンセット、白磁の小皿と何かしらの科学装置が収められていた。

 装置の電源を入れると、真空管に火が入り計器窓が淡く光を放つ。


 「蓄電池式ですかな?」

 「屋井乾電池とGS電池のあいの子、とでも言えばいいでしょうか。蓄電池では重いので。重田曹長は、これを」

 爽子は携帯電燈を手渡す。


 真鍮製の重厚な電燈で、源十郎は気缶の中に光を入れる。

 乾電池から供給された微弱な電気が細糸フィラメントを揺らし、腐る鉄壁をぼんやりと照らし出した。

 「この世のものとは思えませんな」

 源十郎の呟きに、笹野は無意識に喉を鳴らす。

 最新鋭の鉄釜を覗き込んでいるはずなのに、まるで人の体内かのようだ。


 爽子は手術刀で内壁を数箇所削り取り、鑷子で小皿に取る。

 防毒面越しに、微かに腐臭が鼻を突く。笹野は匂いに、軽く咳き込んだ。


 「これは、改十式霊子測定機。これでこの怪現象が、科学か怪異かを見極めます」

 「霊子とな?」

 「霊子、といっても幽霊のたぐいではありません。これは既存の物理学では説明のつかない、一種の高活力エネルギー。内務省では、仮にそう呼称しているに過ぎません」

 源十郎と笹野が固唾を呑む中、爽子は測定機へ採取した鉄片を収める。


 ギリギリギリ。


 測定機が何かを発し、鉄片が悲鳴を上げる。

 計器窓の針が、激しく振れた。


 「これは……昨年よりも、霊子が濃い」


 「ア゙、アアァァァ!」

 火花を散らす鉄片と呼応するかのように、笹野が悲鳴を上げた。

 その叫びは、次第に湿った悲鳴から、やすりで金属を削るような、耳障りな軋み音へと変わっていった。

 「笹野主任!?」

 頭を抑え、笹野は床を激しくのたうち回る。


 「痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」


 皮膚の下、血管が浮かび上がり、強く脈動していた。

 「重田曹長、下がって!」

 計器の示す数値から視線を外すことなく、爽子は叫ぶ。

 「しかし、放って置くなど」

 「いいから、下がりなさい!」


 ブチブチブチ。


 爽子に気圧され源十郎が一歩下がったのと、笹野の皮膚の下から赤い棘が無数に生えたのとが、同時だった。


 血だ。


 体内から血が棘のように肉を突き破り、そして固まっている。

 空気に触れた血はやがて変色し、粉となってザラザラと崩れ落ちた。


 「……人が、血が、錆た」

 唖然としながらも、源十郎は無意識に古びた三十年式歩兵銃を構える。

 源十郎は、未だ測定機を冷静に見る爽子を庇うように一歩、笹野に近付く。

 「露西亜の砲弾で吹き飛んだ兵卒の方が、まだ救いがあった」


 動かぬ笹野ににじり寄りながら、源十郎は聞き耳を立てる。

 呼吸音は無い。

 果たして、笹野の命は尽きたのか。


 研究棟の外から、喧騒が聞こえてくる。

 一抹の不安を感じる中、爽子と源十郎の呼吸音と衣擦きぬずれの音だけが、やけに大きく聞こえた。


 ジリジリジリ。


 測定機が、けたたましい鈴の音を立てた。

 ゴキン。

 金属音を立て、笹野は立ち上がる。その表情は、既に人のものではない。

 入館証が、床に落ちていた。


 パァン。


 三十年式歩兵銃が乾いた音を放つ。

 弾丸は笹野であったものに当たるも、動きを止めない。

 銃創は主に大量出血と臓器破壊により死を運ぶもの。

 血が錆びる――鉄ならば、細部まで伸びるその血管は、まるで鎖帷子。臓器はさしずめ、鉄の鎧。


 「弾は駄目か」

 源十郎は腰から右股に設けた銃剣嚢ホルダーから、銃剣を抜き取り、歩兵銃の先端へ取り付ける。

 「ぬぅうんっ!」

 長身と銃身の長さを活かした、渾身の振り下ろしを肩口に見舞う。


 ガヅン。


 「人を斬ったとは思えん音だ! だが!」

 源十郎は強引に銃剣をねじ込み、そのまま右腕を斬り落とした。

 血は吹き出すことはなく、錆が舞う。

 腕を失ってもなお、鉄の怪物となった笹野は距離を詰めてくる。だが、その動きは鈍い。

 ズシンズシンと、重い足取りで着実に詰め寄る。


 「一等官、何か手は!?」

 怪物から視線を切ることなく、源十郎は歩兵銃を腰高に構える。


 「良い時間稼ぎでした。さすがは重田曹長。歴戦の猛者」

 爽子は細杖に仕込んだサーベルを抜いた。

 持ち手の尻からは電線コードが伸び、トンビコートの裏へと続いている。


 「残りの腕……牽制をお願いできるかしら?」

 「お任せを」

 怪物の左腕に狙いを定め、源十郎は歩兵銃の銃剣で、鋭い突きを繰り出す。

 爽子は怪物の右側へと回る。

 「やあっ!」

 肩の傷口――剥き出しの体内へと、剣先を突き立てた。


 バヂッ。


 蒼い稲光いなびかりはしる。

 二度、三度と、怪物の身体が奇妙に波打つと、鉄の怪物はザラザラと音を立て、崩れ落ちた。

 床に残ったのは、穴の空いた肉片と、多量の赤錆――。

 測定機の真空管の音が、やけに鮮明に聞こえた。


 警戒を解かぬ源十郎は、小声で唸る。

 「終わった……のですか?」

 「ええ」

 細い鞘に仕込み剣を戻し、爽子は答えた。

 年の頃なら、自分の娘と変わらぬ爽子の堂に入った様子に、源十郎は舌を巻く。

 

 「只の細杖でないとは思っていましたが、それは?」

 歩兵銃から銃剣を取り外し、源十郎は爽子の手元を見る。

 爽子は細杖から電線を外すと、ゴソゴソと外套コートの下で手を動かす。

 ゴトリ、と野太い円筒形の乾電池が床に落ちた。

 熱い乾電池の科学的な焦げ臭さと、亡骸の赤錆の匂いが研究棟を満たしていた。


 「十九式霊子昇華細剣(レイピア)。構造上、突きしか出来ないのと、一発に乾電池一つという燃費の悪さが課題の、極秘兵器とっておきです」


 測定機の数値は、依然として危険値を示している。

 外の喧騒は、徐々に大きくなっていく。

 源十郎は再び、銃剣を歩兵銃へ取り付ける。

 「……一等官」

 「ええ」


 「根源を、なんとかしなくては」


 * * *


 昼――。


 時間的には、昼に違いない。

 「一等官、これは?」

 歩兵銃を握る源十郎が、研究棟の格子窓から空を見上げる。

 しかし、見える空は、赤く染まっていた。煙突から絶えず生まれる煤煙が、まるで黒い雪のように舞い散っている。


 「このあたり一帯が、怪異に呑まれたと見るべきでしょう」

 淡々と爽子は、小さな測定機を革鞄へ仕舞う。


 「変容した者は……およそ半数、といったところか」

 源十郎は苦々しい思いで、鉄道院大宮工場の惨状を見る。


 職工は半数近くが鉄の怪物へと変容したようだ。

 残ったものは逃げ回る者。鉄棒などを手に取り、果敢にも戦ったりする者。対応はまちまちだ。

 既に倒れ伏した者が、どちらに属していたのか。源十郎には、判別がつかなかった。

 「動きが鈍いのが、まだ不幸中の幸いか」

 だが、加勢しようにも、旧式の三十年式歩兵銃一挺では、心許ない。

 職工たちには悪いが、今は、この怪現象の対処を担う爽子を守ることが肝要だと、源十郎は歩兵銃を握る手に力を込める。


 「私の当初の考えは、違っていたようです」

 爽子の声音に、微かな硬さが混じった。

 「と、言いますと?」

 腐る鉄釜の内部に何かを仕込む爽子の背中に、源十郎は声をかけた。


 「昨年の怪現象は、横浜で起きました。今年は、鉄の町となった大宮まで伝播したものと考えておりました。

  だが、これは違ったのです。

  ここ大宮町の、この工場こそが、発生源――」


 僅かに後悔を滲ませる爽子の言葉に、源十郎は希望を見出す。

 「では、その蒸気機関を破壊すれば……」

 源十郎の言葉に頷き、爽子は手にした小型の発信機を作動させた。

 バヂン。

 蒼い稲光が、気缶の中で弾けた。

 ボロボロと、鉄の塊が崩れていく。

 

 「まずは『弐号缶』。おそらく、どこかにまだあるはずです――昨年の、本当の発生源たる『壱号缶』が」 


 * * *


 帝国最大級の鉄道院大宮工場。数千人の職工を抱えるそこは、一つの町とすら言えた。


 居並ぶ棟の中から、一つの気缶を探すのは――現実的ではない。爽子と源十郎は工場長の執務室を擁する管理棟を目指していた。

 工場の騒音は、まるで金属同士が会話しているかのように思えた。


 赤い煉瓦造の、二階建ての建物が視界に入る。

 一階の守衛所では、職工と守衛が揉み合っていた。

 弐号缶を破壊したことで鉄の怪物は崩れ去ったが、かといってそのまま仕事を続けることなど、普通の神経では無理だろう。


 爽子と源十郎は、守衛の制止を振り切り、階段を駆け抜け二階へと進む。

 そこは工場の喧騒など知らぬとばかりに、静けさに包まれていた。

 「行きましょう」

 長革靴の足音が、廊下にやけに響いた。


 「失礼する」

 中の返事を待たず、源十郎は工場長室の重厚な扉を開けた。

 高い天井。そして、工場全体を見渡せる大きな窓。壁には明治天皇の御影と、大宮工場の全景写真。

 艶のある桃花心木マホガニーの机には、幾つかの図面と真鍮製の文鎮がある。

 

 「おやこれは、一等調査官殿。早速の怪現象解決、お見事でございますな。帰路につく前の、挨拶ですかな?」

 工場長は葉巻の煙をくゆらせ、爽子と源十郎に視線を送る。

 背もたれの高い椅子に、工場長――岩國玄蔵(いわくにげんぞう)は深く座っている。

 その言い様はまるで、結果を最初から知っていたかのような口ぶりだった。


 「解決? まだ至っておりませんわ。此度の真の元凶は、『壱号缶』であると推察致しました。所在を教えていただけますかしら?」

 「壱号缶? はて、何のことらや」

 「笹野主任が、あれは『弐号缶』と申しておりましたよ。隠蔽をするなら、もう少し話を擦り合わせておくべきでしたわね」

 爽子の言葉に、岩國は葉巻を灰皿に押し付ける。

 その指先が、僅かに赤錆を帯びているのを、源十郎は見逃さなかった。


 「黙って帰ればよいものを……。

  小賢しい女狐、いや、からすか」

 爽子の嘴を不快そうに見つめ、岩國は椅子から立ち上がる。


 「動かないで頂きたい」

 源十郎が歩兵銃を構え、声を張る。

 「私に銃を向けるとは、なんたる無礼な」

 ミシリ、ではない。

 湿った音を立て、岩國が掴んだ机の縁が指の形に沈み込んだ。

 露西亜の屈強な兵士でも、分厚い木の机を握りつぶすことなど出来ない。

 「貴方も既に怪物か!」


 パァン。


 歩兵銃の乾いた銃声が響く。

 コロコロと、潰れ歪んだ弾丸が床に転がる。

 「そのような年代物、何の役に立ちましょうや」


 源十郎の脳裏に、凄惨な戦場が蘇る。

 「逃げますぞ、一等官!」

 即時撤退の号に、爽子は弾かれたようにきびすを返す。

 パァン。

 動きを制するために、岩國の足元へ発砲し、源十郎も走る。

 岩國の足元の絨毯は、朽ちたかのようにボロボロだった。


 「裏口から出ます!」

 「承知!」

 銃声を聞き駆けつけた守衛を避け、爽子と源十郎は一階裏口から工場へと戻った。


 「如何なさいますか、ちょう殿」

 尋ねる守衛の瞳は、ザラつく赤で染まっていた。その声には、先程までの人間らしい抑揚がなかった。

 「私自ら、おもてなしをしようではないか」

 岩國の言葉に、守衛は三十八年式歩兵銃を差し出した。


 * * *


 全力疾走に息を切らし、爽子は工場の影でしゃがみ込む。

 源十郎は三十年式歩兵銃を構え、周囲を警戒していた。

 弐号缶破壊で収まった怪現象は、今再び、広がっている。

 いや、その侵食具合は、先程までとは比べ物にならない。あちこちから、雄叫びのような、金属の擦れるような、耳障りな音が木霊こだましている。


 「参りましたな……壱号缶の所在は分からずじまいな上に、工場長までもが怪物とは」

 「そう、でも……ありません、よ」

 呼吸を整えながら、爽子は立ち上がると、とある棟を指差す。

 「おそらく、あそこかと」

 「なぜか、伺っても?」

 源十郎には、示された棟が他と違うようには思えなかった。


 「執務室の窓、あそこから一番良く見えるのがあの棟。あとは、壁の全体写真に、ご丁寧に赤丸がありましたの」

 「目敏めざといですな」

 「この防毒面、視線を悟られないのです」

 源十郎は一瞬、爽子が笑ったように思えた。


 「持久戦になれば、こちらが不利。迅速に参りましょう」

 こちらは個、対して敵は組織。時間をかける余裕はなかった。


 ざわり。

 源十郎の背に、寒気が走る。

 「一等官!」

 源十郎は咄嗟に爽子を突き飛ばす。


 パァン。


 今しがたまで爽子の頭があった壁に、銃痕が穿たれた。

 「追っ手か!」

 銃声のした方に向け、源十郎は三十年式歩兵銃を構える。


 シャコン。

 軽快な音を立て、岩國の歩兵銃が火を吹く。

 狙いは正確だった。殺意だけが、無駄に洗練されている。

 「三十八年式! 一等官、走れ!」


 パァン。

 土埃が舞う。

 「ここは小官が! 行けっ!」

 爽子は返事をする間も惜しみ、全力で駆ける。


 ガリッ。

 源十郎の三十年式が、無骨な金属音を上げる。

 パァン。

 振れる銃身の癖を、経験と膂力りょりきで補正した源十郎の弾丸は、岩國の胸元に当たる。


 だが、何事もなかったかのように、岩國は悠然と歩いている。

 「やはり、臓のあるところは駄目か」

 血が集まるところ――鉄の塊となった臓器の前に、弾丸は無力だった。

 

 源十郎は走りながら、歩兵銃の先端に銃剣を取り付ける。

 シャコン、シャコン。

 岩國の三十八年式、その防塵覆ぼうじんおおいが小気味よい音を立てる。


 「なぜ当たらん!」

 苛立つ岩國の目前に迫り、源十郎は銃剣を振り下ろす。

 「怪物とはいえ、所詮は素人か!」

 ザリッ。

 肉とも砂とも言えぬ感触が、歩兵銃に走る。

 「ぬぅぉおっ!」

 裂帛れっぱくの気合とともに、源十郎は歩兵銃に体重を乗せる。


 「ぐぉおお……!」

 切り落とされた左肩から、派手に血飛沫が舞い、それは赤錆となって周囲を赤く染めた。


 僅かに怯むも岩國は、太腿に銃床を押し当て、慣れた動作で遊底を引く。

 源十郎の額に歩兵銃を突き付けた。

 「ふはは! 勝負ありだな!」

 ガチッ。

 三十八年式は動かない。動作不良ジャムだ。

 「赤錆を噛んだか! 精密なのはいかんな!」

 源十郎は予備の三十年式銃剣を腰から抜くと、岩國の右手首を斬る。

 「ぐぅ……」

 落とした三十八年式を、源十郎は蹴り飛ばす。


 ザクッ。

 源十郎は岩國の喉元に歩兵銃を突き立てた。

 「いかな怪物といえど、頭を吹き飛ばせばどうかな?」

 ガチッ。

 三十年式は動かない。

 「赤錆を噛んだか。骨董品は駄目だな」

 岩國は笑う。


 「ふん」

 源十郎は剥き出しの撃茎コッキングピースを掴み、噛み込んだ閉鎖を力任せに解いた。

 指先に嫌な振動が走る。

 即座に予備の弾丸を押し込み、引き金を絞った。

 ガリッ、チィィン。

 放たれた弾丸は、顎から頭を貫通した。

 真っ黒な煤が、吹き出しては風に消えた。


 「最新鋭よりも、コイツの方が我儘わがままを聞いてくれる」

 歪んだ銃剣を歩兵銃から取り外し、源十郎は深く息を吐いた。


 倒れた岩國の身体は、まるで、完全な死を拒むかのように、なおも微かに軋んでいた。

 その音は、工場のどこかで鳴り続ける鉄の軋みと、同じだった。


 * * *


 背後で銃声が響いている。

 爽子は、壱号缶があるとおぼしき棟へと走った。

 心配はない。


 重田源十郎曹長は、露西亜戦争を生き延びた武人。怪物に屈したりなど、しない。


 息も絶え絶え、爽子は目的の棟の鉄扉を開ける。

 外の赤焼あかやけの光に照らされて、それは口を開け待っていた。


 「これが、壱号缶?」


 辛うじて蒸気機関だと分かる姿は、しかし異様に巨大だった。

 手前にはこの場に似つかわしくない、朱塗りの鳥居。

 周囲は太い注連縄しめなわが幾重にも張り巡らされ、床には札らしきものが、規則正しく貼られている。


 明らかに、人為的な――儀式。


 「こんな大規模なもの……工場長独断とは、とても」

 上は工作局長か、あるいは鉄道院総裁か。

 爽子は周囲を警戒しながら、壱号缶へと近付いていく。


 熱い。

 気缶には、火が入っている。

 べられているのは――。

 「そんな……」


 鉄の怪物となった職工たちが、列を成している。

 順番に、順番に。

 躊躇ためらうことなく、自ら地獄の釜へと身を投じている。

 焼けた油と鉄、そして……おびただしい数の人間が焼かれた、甘ったるい腐臭が、建物全体の空気をねっとりと掻き回していた。

 「いったい、これは……」

 言葉を失う爽子の眼の前で、気缶は水と可燃物の代替たる職工を飲み込み、蒸気と共に何かを吐き出した。


 それは熱く焼かれた、鉄。

 人のかたちをした、鉄。


 爽子は、息を吸おうとして――吸えなかった。

 胃の奥が、キリキリと音を立てて縮こまる。


 「ふむ。なんとか間に合ったか」


 鉄が言葉を発した。

 岩國の声だ。

 「顔は見えぬが――動揺しているな、鴉よ」

 「貴方は……何なのですか、工場長」

 絞り出した爽子の声は、微かに震えていた。


 「私かね? 私は新たな帝国人にして、新たな兵士。この帝国を支える、新たなる力!」


 岩國の言葉に、気缶が、建物が、歓喜に震えた。


 「鉄人てつんどとでも呼びたまえ!」

 まさに鉄の人。

 全身が鉄となった岩國は、高らかに叫んだ。


 * * *


 カチャリ。

 爽子は油断なく、細杖から仕込み剣を抜く。


 「鉄を通じて、見ていたぞ。笹野君をほふった兵器だな。私に通じるかな? あと何発、打てるかな?」

 岩國の鉄の口が、愉悦に歪む。

 爽子は静かに、十九式霊子昇華細剣を構える。


 打てと言わんばかりに、岩國は両腕を広げ、爽子に向かい歩み寄る。

 「見縊みくびるな!」

 気迫とともに、爽子は細剣を繰り出す。

 鉄の額に触れると同時に、蒼い稲光が走る。


 「ん~? 今、何かしたかね?」

 岩國は広げていた腕で、細剣ごと爽子を振り払った。

 「ぐっ、はあ゙っ」

 爽子は悶絶しながら、壁際まで吹き飛ばされた。骨が軋む音が、身体を駆け抜ける。

 視界の端が白く滲み、思考が一瞬、空転した。


 「科学は、まだ非力なり」

 ズシンズシンと、重い足音を立てながら、岩國は爽子を睨みながら、歩み寄る。

 「だが、技術は必要だ。そして、技術の前に、人もまた無力なり」

 勝利を確信した岩國の雄弁は、止まらない。


 「鉄道は今後、帝国の繁栄には不可欠。

  しかし! それを造るには危険が多い。あまりにも人が死にすぎる!

  故に我らは考えた。

  鉄に負けぬ人を、造るすべを。人が鉄であれば、鉄には負けぬ!

  そして――死を超えた鉄人は、やがて帝国最強の兵となる!」


 「君は知りすぎた。安心し給え。内務省には、『怪事件は解決したが、一等調査官殿は不慮の事故で亡くなった』とでも報告しておくよ」

 拳を振り上げ、今まさに振り下ろさんとする瞬間。

 「たあああっ!」

 岩國の右目めがけて、細剣を突く。

 「ぬぐぅ? 狙いは良いが……」


 蒼い稲光が走る――二度、三度と。


 「ぐぅぅうっ! 連射だとっ? 単発兵器ではないのか!?」

 怯む岩國に、爽子は残りの乾電池を全て注ぎ込む。

 ゴトンゴトンと重い音を響かせ、太い乾電池が落ちる。


 合計五連波。

 しかし、岩國の鉄の身体は崩れなかった。

 パキンと音を立て、細剣が砕けた。


 「残念だったな」

 右目から血の代わりに錆を流しながら、岩國は再び拳を振り上げる。


 「一等官!」


 源十郎の叫びが響いた。

 歩兵銃を構えながら、源十郎は一直線に鉄の怪物へと走る。


 パァン、パァン。


 走りながら正確に、源十郎は岩國の残る左目を狙い撃つ。

 「おのれ! 小賢しい! 今更こんな豆鉄砲、痛くもかゆくもないわ!」

 目をかばう岩國に、尚も源十郎は撃ち続ける。

 「ならばなぜ防ぐ! 矛盾しておるぞ!」

 源十郎は走る勢いそのままに、岩國に体当たりをかます。


 転がりながら源十郎は、両手にした三十年式銃剣をはさみのように重ね、岩國の首元へ押し付ける。

 「ぐっ、おのれ!」

 「ええい、暴れるな! 一等官、弐号缶を壊したアレは?」

 爽子は革鞄を探る。

 「駄目です、割れております」

 「ならば細剣を!」

 源十郎は折れた細剣に視線を送る。


 二本の銃剣ごと岩國の首を膝で抑え、源十郎は爽子から細剣を受け取る。

 「折れて……しかも、もう乾電池が」

 「なあに、乾電池なら、ある」

 源十郎は携帯電燈を取り出すと、床に叩きつけた。


 壊れた携帯電燈から乾電池を取り出すと、細剣と共に左手に握る。

 「電線も不要。なにせコイツは、鉄ですからな!」

 そのまま源十郎は、左手を岩國の口へ入れた。


 バヂヂッ。


 蒼い稲光と、血飛沫が舞う。

 「ぐぅっ」

 源十郎は左手を引き抜き、苦悶の表情を浮かべる。

 「なんて無茶を!」

 肉の焦げた匂いのする中、岩國の鉄の身体が激しく痙攣けいれんする。


 ギリギリギリ。


 金属の削れるような断末魔を上げ、岩國は錆びて朽ちた。

 それが合図かのように、列を成していた職工が動きを止めた。


 「しかし、困りましたな。壱号缶をどうしたものか」

 異形の壱号缶と怪物となった職工を見ながら、源十郎は唸る。その左手は焼け焦げ、止血のために布が巻かれている。

 「霊子的には難しいですが、物理的に破壊してしまいましょう」

 「しかし、どうやって?」

 手持ちの主な武装は、壊れている。


 「こうするのです」

 爽子は懐から小型の自動拳銃を取り出す。

 「それも、特別な兵器で?」

 「いえ? 只の南部式自動拳銃ベビーなんぶですわ」


 パン。


 軽い発砲音。

 弾丸は見事に気缶に当たる。


 グオングオンと、振動が反響する。

 「本来、気缶とは繊細なもの。ましてやこの様な歪なものは、僅かな振動でも耐えられないでしょう」

 亀裂が走り、気缶全体が揺れ始める。


 「一等官、逃げるぞ!」

 慌てて源十郎は爽子の手を取り、出口へ向かって走る。


 沸騰した薬缶やかんのような音をたて、壱号缶は破裂した。

 圧縮された水蒸気は、工場の屋根を吹き飛ばす。

 爆風に煽られ、爽子と源十郎は空を舞った。


 空が赤い――。


 「失敗しましたかな? まだ怪異に呑まれたままと見える」

 煤と錆に塗れ、源十郎は天を仰ぐ。

 「いいえ。あれは、只の夕日ですよ」

 安堵した声の爽子に、源十郎は笑顔を見せる。


 遠く、警笛サイレンが聞こえる。


 「しかし、あの奇っ怪な釜は、何だったので?」

 「原理は分かりませんが、おそらくは、ここの土地神さまを利用したものかと」

 爽子の言葉に、源十郎は興味無さげに唸る。


 「ふぅむ、小難しいのはよう分からん。まあ、頑張って報告書を書かれよ」

 「何を他人事な。重田曹長も、報告書を書くのですよ?」


 派手に銃撃戦をしたのだ。報告書は免れない。

 お互い肩をすくめ、二人は帰路についた。


 * * *


 大正九年五月十五日――。

 鉄道院は鉄道省へと格上げされ、強い独立性と予算権限を持つようになった。

 大宮工場の爆破事故は不慮の事故として処理され、職工たちの死もまた、西班牙風邪のためとされた。


 鐘ヶ江爽子と重田源十郎の報告書は黙殺されるも、内務省は正式に衛生局防遏課を設立。


 嘴の女は今日も人知れず、怪異を防遏している。


挿絵(By みてみん)

【挿絵:嘴の女】


 * * *

2026/02/01 本文・挿絵投稿。

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