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A.Z.〈アブソリュート・ゼロ〉  作者: 軟膏
第1章『セルシウスフェス』
3/25

01:赤点回避ライン

 南極の氷盤に組み込まれた温室群、セルシウスガーデンの朝は、今日も忙しい。

 訓練区画の照明が段階点灯し、透明のチューブを列車が滑る。居住リングの回廊を、学生たちの足音と笑い声が駆け抜けていく。

 掲示板には新しいテロップ――〈赤点回避ライン:通過者〉。その下で〈2309年度 前期補講〉が、氷の朝に相変わらずの忙しさを告げていた。


「――よっしゃぁ! 赤点回避ッ!」


 流れのど真ん中で、ひときわ景気のいい声が弾けた。

 草薙太陽。一年生。ARK操縦者候補。

 昨夜、送風機全開の飛行試験で"青のマーカー"にぴたりと着地した。その合格印が、今朝ちゃんと電光掲示に反映された――ただそれだけの話なのに、胸の真ん中がもう一度、熱を作る。

 両親は宇宙開発事業船『すさのお』の消滅事故で行方不明になった。多くの人は彼らを死んだと思っている。でも太陽は違う。どこかで待っている――そう信じて、迎えに行くために、ここにいる。


「よーちゃん、廊下で叫ぶのは減点対象だよ」


 背後から、呆れ半分たのしさ半分の声。振り向けば、工具ケースを抱えた少女が小走りで近づいてくる。

 大鳳 翼。通称トリィ。ARKエンジニア候補生、一年。

 薄い作業手袋の先でレンチがコツンと鳴る。


「だって見たろ、昨日! 俺、ちゃんと置いたんだぜ、青の輪に!」

「"赤点は回避した。次は安定して置く"が正しい日本語」

「う゛っ……」


 返す言葉は弱いが、へこたれない。

 灼熱の心臓バーニングハートは見せびらかすものじゃない――昨夜そう決めたはずなのに、つい顔に出る。


「でも、よーちゃんの"熱"、数字じゃ測れないからね」

「よく言われるよ、お前の取り得は"元気"と"熱"だけだって」

「半分正解で半分違う。――熱は資源。けど"扱い方"を間違えると、コールドⅡに綺麗に持っていかれる」


 説明は短い。身体が覚えたことを、口でなぞるだけだ。

 "押さず、ほどき、ためを置き、丁寧を残して遅いを削る"。

 言葉にすれば簡単、身体にすれば一晩じゃ終わらない。

 すれ違う同級生がクスクス笑い、手を振る。太陽は全力で振り返し、少しだけ胸を張った。

 回廊の窓の向こう、白い地平線と、黒い壁のようなA.Z.外郭が見える。薄い極光が帯になって、リング照明と混ざる。昼のような夜のような、境目の光。


「今日の午後、見学に来るって。スポンサーの人」

「うわ、やべ……いや、俺はまだ見学されるほどの腕じゃ――」

「安心して。見学は上級生の模擬戦。私たちは整備実習」

「よ、よかったぁ……」


 翼は笑って、工具ケースの金具をカチャンと鳴らす。

 昨夜の"黒い息"――A.Z.の奥で何かが呼吸したように感じた一瞬――を、ふたりはまだ言葉にしていない。口に出すには、根拠が薄い。けれど、忘れるには濃い。


「でも、よーちゃんも"本物"には乗るよ――早めにね」

「気が早えって」

「早いに越したことはないよ。フェスに合わせて、上は明るく、下は暗くなる。境目が増える。境目は、押せる」

「……分かったような、分からないような」

「分からなくてもいい。まずは今日、安定一本。肩の"ため"、手首にも忘れず」


 連絡橋を渡る。足下の搬送リフトの振動が掌に伝わる。

 抜けた先はハンガー群――天井高二十メートルの整備格納庫だ。乾いた高天井の下、ARKが何機も整列している。コア冷却パイプが白い霧を吐き、整備員と学生の声が飛び交う。


「あ、新型の作業フレーム入ってる」

「あぁ、やっぱ"着る"って感じだな」


 巨大ロボじゃない。人が着る宇宙船――それがARKだ。

 胸のコアには、A.Z.で発見された反エントロピー性分子"コールドⅡ"が使われている。燃えるほど冷たく、周囲の熱を奪いながら莫大なエネルギーを生み出す"火"。人類を救った技術だが、操縦者の体温を容赦なく奪う。だからパイロットには高い体温と、熱に耐える身体が求められる。

 翼は端末にログインし、個人作業スペースを開く。「熱管理補助サブルーチン」のタブに、薄く──UZUME──の文字。

 隣のワゴンには、御船サヤの"鏡面"試作パネル。背後のラックでは張 玲奈が配線図を直し、白石 丈――ジャッキがトルクレンチでバインドを"心で締め"、上段の観察窓では春河レオンがログを構え、ルカ・オルティスは「今日は踊らない設定だよ」とスラスターをゼロ点出しにしている。

 "昨夜の一本"は、みんなの手が乗った一本だ。


「トリィ、その"うずめ"って?」

「いつかね。通る形にできたら、ちゃんと」

「また気になる言い方する……」

「気にして、今日のボルトを適正トルクで締めること」


 フェス――学園の"顔"。公開模擬戦、スポンサー、研究者、観光客が集まる一大イベントだ。一年は基本見学でも、設営は総出。だから今は、一本のボルトから、一本の"置き"まで、全部が前座で本番だ。


「よーちゃん、午後は整備実習のあと、短い確認飛行入ってる。昨日の"置き"、もう一回。赤点じゃなくて、安定域」

「了解。丁寧を残して、遅いを削る」

「それ。――あと、"戻し"をサボらない。糖と水分、休息。今日は砂糖一個」


 高天井が低く鳴る。ゴォン、と腹に響く音。

 どこかのARKが点火試験に入り、胸部コアが青白く脈動する。床の霜が一斉に剥がれ、熱が奪われる。それでもガーデンがぬくいのは、配管仕事と人の手のせいだ――設備の人の口癖を、太陽は思い出す。


(――俺の中の"熱"は、どれくらい持つ)


 問いに、明確な答えはない。

 両親の声も、祖母のミルクティーの匂いも、全部が余熱になって胸に残る。昨夜の一本は偶然じゃない――そう信じるには、まだ回数が足りない。だから今日は、ボルト一本をいつもより丁寧に、遅さだけを削って締める。小さな誓いのつもりで。


「よーちゃん」

「ん?」

「帰り、給湯室寄ろ。祖母様の新作、温まるやつ」

「また生姜湯?」

「今日は唐辛子」

「攻めるな……」


 笑いがやわらかく落ちる。

 その頭上で、警告灯が一瞬だけ赤く瞬いた。すぐに緑へ戻り、ハンガーの喧噪は何事もなかったように続く。

 ――昨夜と同じ"気配"。言葉にはしない。けれど、胸の中心に畳んでおく。

 南極の空には薄い極光。ガーデンの内側には人の熱。氷の底から引き上げられた絶対零度は、今日も世界を動かしている。

 太陽と翼は視線を交わし、作業リストを分け合った。

 フェスの幕が上がるまで、やることは山ほどある。境目は、増える。境目は、押せる。――そして、押した先で"何か"が応える。そんな予感だけが、朝の空気を少し甘くした。

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