10:大空洞(ヴォイド)へ
「止める!」
太陽は迷わず飛び込む。うずめが悲鳴を飲み込み、くさなぎが最短を裂く。
フロストは"痛覚"を持たない。だから×印のように腕を交差し、直に受けてから冷やす。太陽の動きが半拍、重くなる。彼の筋肉から奪われた熱が、白い霧に混ざって渦に戻る。
「よーちゃん!」
「了解!」
翼が叫ぶと同時に、フロストは彼女へ"視線"を向けた。雪華の瞳が一斉に開き、静かな殺意が走る。
床から針のような霜柱が噴き上がり、端末を狙う。翼は身を翻し、氷柱の間を抜ける。
端末の画面には、地下地図のさらに下――「A.P.-AZ:アンタークティックポイント」の表示が明滅した。
「ここ、真下に"空洞"が――」
「落とすつもり?」
カタリーナが短く言い、フロストの膝に二連射を撃ち込む。弾は凍った金属を割り、破片が鈍い音を立てた。
だがフロストは膝をつかず、代わりに床の"結晶化"を進める。足元のコンクリートが透明な板に変わり、内部の鉄筋が白い筋になる。
轟音。
遠くで壁が崩れ、研究区画全体がわずかに沈んだ。頭上の梁が悲鳴を上げる。
フロストは満足げに胸を鳴らし、次の一歩を踏む。くさなぎがその足首を裂き、太陽が肩で押す。押し合いの均衡が刹那、こちらへ傾いた――が、フロストはそのまま後ろへ滑るように退いた。
誘いだ。
「逃がすか!」
太陽が追う。フロストは壁際に立つ柱へ手を伸ばした。触れた瞬間、柱が"透明化"し、内部の緊束鋼が白い蔓に変わる。それが"ほどけ"、天井の荷重が一気に流れた。
「よーちゃん、下!」
翼の警告と同時、床が鳴った。足裏の冷たさが、嫌な方向に動く。ひびが一本、二本、雪華の模様を縫って走り、そして――
床が、墜ちた。
「ッ――掴まれ!!」
叫ぶ太陽がカタリーナの腕を掴み、翼が太陽の肩を捕まえる。重力が三人をひとつに束ね、黒い口が彼らを飲み込んだ。
照明の赤が遠ざかり、代わりに下方から蒼黒い光が湧き上がる。フロストの影も、壊れたTeCの破片と一緒に一拍遅れて落ちてくる。
落下は長い。風がない。空気が凍り、音が鈍い。翼の端末の高度計が、意味を失う速度で数字を減らす。
翼の声は震えない。震えを"技術"に預けている。
「よーちゃん、ひるめのスラスター、緊急出力!」
「ああ!」
スラスターが火を噴く。落下のベクトルがほんの少しだけ緩む。
眼下に広がるのは、地図の黒丸でしかなかった巨大空洞――A.P.-AZ。氷床の腹にぽっかりと開いた、世界最大級の"無"。
壁は光を吸い、底は見えない。ところどころで、古い氷の層が星図のように縞を描き、遠い過去の冬が重なっている。
カタリーナは止まらない視線で上を睨み、彼女の髪の先で白い霧がほどける。
上方口縁に、フロストが現れた。落ちず、滑らず、壁の"結晶"に沿って静かに降りてくる。胸腔の渦は、さっきより強い。飲み込んだ命令列と人の"声"が、彼に"歩き方"を教えたのだ。
ディートハルトの笑いの残響が薄く混じる。
「まだ追ってくるのね……!」
カタリーナの目が細くなる。翼は端末を抱き込むようにして、空洞壁の"地形"をスキャンする。氷の層に混じる何か――人工の縞。旧時代のボーリングシャフトの痕跡。そこなら、掴める。
「右、二時方向! 突起! ひるめの補助フック、使える!?」
「やってみる!!」
太陽は体を捻り、ひるめの簡易フックを発射した。薄い音とともに、糸のようなワイヤが闇を走る。氷壁の突起にかろうじて絡み、腕が抜けるほどの衝撃が三人を引き裂こうとする。
太陽は歯を食いしばり、翼は端末を守り、カタリーナは片手で太陽の手首に爪を立てた。
落下は"滑り"に変わった。三人は氷の壁に体を打ちつけながら、速度を殺していく。息が白く、視界が狭い。
すぐ横を、フロストの影が並走する。雪華の瞳が三人を数え、静かに"順番"を決めたように光る。
「野郎……獲物を見定めてやがるぜ……」
「うん……」
「参ったわね……」
太陽が言う。言葉は簡単で、重い。翼は頷き、カタリーナは薄く笑う。
氷の海が、息をひそめて待っている。古い時間と、これからの決意が、そこに同居している。
三人はまだ落ちている。だが、落ちる先を見ている。
フロストの白い息が、背後でふくらんだ。新しい戦いが、地下のさらに地下で始まる。
氷の壁からの"滑落"が、ようやく"着地"に変わった。
補助フックが最後の突起を噛み、三人は巨大な空洞――大空洞の側壁に層のように貼り付いた古い保守プラットフォームへ転げ込む。
幅五メートルほどの金属製の足場。手すりは錆びて半分崩れ、床には霜が積もっている。
上空は墨を注いだように暗く、どこかで氷の層が軋む低い音が鼓膜ではなく骨に響いていた。
「生存、三。機材、最低限……よし、息してる」
翼がかすれ声で確認する。端末の光が彼女の目の下の隈を照らし、冷気で乾いた吐息が白糸となって消えた。
太陽はうずめの循環を無理やり整え、胸の鼓動を一つ、二つ、規則に戻す。カタリーナは膝をつき、頬を拭い、見上げる。
上から――白い息。雪華の瞳。
ショーカ『フロスト』が、壁面の"結晶"を足場に無音で降りてくる。胸腔の渦はさきほどより濃く、取り込んだTeCの行動核が内側で赤青の命令を擦り合わせ、最短の破壊を学習しつつあるのが見て取れた。
「時間、ない。アシェンプテル、起こす。停止コードは――私が潰す」
翼は腰のツールから薄刃のようなデバイスを抜き、カタリーナの背の展開機構へ滑り込ませる。数列の暗号が端末を駆け、歯車のようなUIがカチ、カチと噛み合う。
凍った鎖が一本ずつ解けるみたいに、赤い警告が黄へ、そして緑へ。
「……いける」
金属の花が咲く音。アシェンプテルが遅れて目を覚まし、白銀の骨格がカタリーナの背で組み上がる。彼女は小さく息を吐き、顎を上げる。
「よーちゃんとカタリーナは正面。私は上から上がるための“足”を落とす」
「ああ!」
「任されてよ」
返事と同時に、フロストが初撃を放った。




