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A.Z.〈アブソリュート・ゼロ〉  作者: 軟膏
第2章『叛罪教戒(ヌリファイ・シンズ)』
21/25

10:大空洞(ヴォイド)へ

「止める!」


 太陽は迷わず飛び込む。うずめが悲鳴を飲み込み、くさなぎが最短を裂く。

 フロストは"痛覚"を持たない。だから×印のように腕を交差し、直に受けてから冷やす。太陽の動きが半拍、重くなる。彼の筋肉から奪われた熱が、白い霧に混ざって渦に戻る。


「よーちゃん!」

「了解!」


 翼が叫ぶと同時に、フロストは彼女へ"視線"を向けた。雪華の瞳が一斉に開き、静かな殺意が走る。

 床から針のような霜柱が噴き上がり、端末を狙う。翼は身を翻し、氷柱の間を抜ける。

 端末の画面には、地下地図のさらに下――「A.P.-AZ:アンタークティックポイント」の表示が明滅した。


「ここ、真下に"空洞"が――」

「落とすつもり?」


 カタリーナが短く言い、フロストの膝に二連射を撃ち込む。弾は凍った金属を割り、破片が鈍い音を立てた。

 だがフロストは膝をつかず、代わりに床の"結晶化"を進める。足元のコンクリートが透明な板に変わり、内部の鉄筋が白い筋になる。

 轟音。

 遠くで壁が崩れ、研究区画全体がわずかに沈んだ。頭上の梁が悲鳴を上げる。

 フロストは満足げに胸を鳴らし、次の一歩を踏む。くさなぎがその足首を裂き、太陽が肩で押す。押し合いの均衡が刹那、こちらへ傾いた――が、フロストはそのまま後ろへ滑るように退いた。

 誘いだ。


「逃がすか!」


 太陽が追う。フロストは壁際に立つ柱へ手を伸ばした。触れた瞬間、柱が"透明化"し、内部の緊束鋼が白い蔓に変わる。それが"ほどけ"、天井の荷重が一気に流れた。


「よーちゃん、下!」


 翼の警告と同時、床が鳴った。足裏の冷たさが、嫌な方向に動く。ひびが一本、二本、雪華の模様を縫って走り、そして――

 床が、墜ちた。


「ッ――掴まれ!!」


 叫ぶ太陽がカタリーナの腕を掴み、翼が太陽の肩を捕まえる。重力が三人をひとつに束ね、黒い口が彼らを飲み込んだ。

 照明の赤が遠ざかり、代わりに下方から蒼黒い光が湧き上がる。フロストの影も、壊れたTeCの破片と一緒に一拍遅れて落ちてくる。

 落下は長い。風がない。空気が凍り、音が鈍い。翼の端末の高度計が、意味を失う速度で数字を減らす。

 翼の声は震えない。震えを"技術"に預けている。


「よーちゃん、ひるめのスラスター、緊急出力!」

「ああ!」


 スラスターが火を噴く。落下のベクトルがほんの少しだけ緩む。

 眼下に広がるのは、地図の黒丸でしかなかった巨大空洞――A.P.-AZ。氷床の腹にぽっかりと開いた、世界最大級の"無"。

 壁は光を吸い、底は見えない。ところどころで、古い氷の層が星図のように縞を描き、遠い過去の冬が重なっている。

 カタリーナは止まらない視線で上を睨み、彼女の髪の先で白い霧がほどける。

 上方口縁に、フロストが現れた。落ちず、滑らず、壁の"結晶"に沿って静かに降りてくる。胸腔の渦は、さっきより強い。飲み込んだ命令列と人の"声"が、彼に"歩き方"を教えたのだ。

 ディートハルトの笑いの残響が薄く混じる。


「まだ追ってくるのね……!」


 カタリーナの目が細くなる。翼は端末を抱き込むようにして、空洞壁の"地形"をスキャンする。氷の層に混じる何か――人工の縞。旧時代のボーリングシャフトの痕跡。そこなら、掴める。


「右、二時方向! 突起! ひるめの補助フック、使える!?」

「やってみる!!」


 太陽は体を捻り、ひるめの簡易フックを発射した。薄い音とともに、糸のようなワイヤが闇を走る。氷壁の突起にかろうじて絡み、腕が抜けるほどの衝撃が三人を引き裂こうとする。

 太陽は歯を食いしばり、翼は端末を守り、カタリーナは片手で太陽の手首に爪を立てた。

 落下は"滑り"に変わった。三人は氷の壁に体を打ちつけながら、速度を殺していく。息が白く、視界が狭い。

 すぐ横を、フロストの影が並走する。雪華の瞳が三人を数え、静かに"順番"を決めたように光る。


「野郎……獲物を見定めてやがるぜ……」

「うん……」

「参ったわね……」


 太陽が言う。言葉は簡単で、重い。翼は頷き、カタリーナは薄く笑う。

 氷の海が、息をひそめて待っている。古い時間と、これからの決意が、そこに同居している。

 三人はまだ落ちている。だが、落ちる先を見ている。

 フロストの白い息が、背後でふくらんだ。新しい戦いが、地下のさらに地下で始まる。

 氷の壁からの"滑落"が、ようやく"着地"に変わった。

 補助フックが最後の突起を噛み、三人は巨大な空洞――大空洞ヴォイドの側壁に層のように貼り付いた古い保守プラットフォームへ転げ込む。

 幅五メートルほどの金属製の足場。手すりは錆びて半分崩れ、床には霜が積もっている。

 上空は墨を注いだように暗く、どこかで氷の層が軋む低い音が鼓膜ではなく骨に響いていた。


「生存、三。機材、最低限……よし、息してる」


 翼がかすれ声で確認する。端末の光が彼女の目の下の隈を照らし、冷気で乾いた吐息が白糸となって消えた。

 太陽はうずめの循環を無理やり整え、胸の鼓動を一つ、二つ、規則に戻す。カタリーナは膝をつき、頬を拭い、見上げる。

 上から――白い息。雪華の瞳。

 ショーカ『フロスト』が、壁面の"結晶"を足場に無音で降りてくる。胸腔の渦はさきほどより濃く、取り込んだTeCの行動核が内側で赤青の命令を擦り合わせ、最短の破壊を学習しつつあるのが見て取れた。


「時間、ない。アシェンプテル、起こす。停止コードは――私が潰す」


 翼は腰のツールから薄刃のようなデバイスを抜き、カタリーナの背の展開機構へ滑り込ませる。数列の暗号が端末を駆け、歯車のようなUIがカチ、カチと噛み合う。

 凍った鎖が一本ずつ解けるみたいに、赤い警告が黄へ、そして緑へ。


「……いける」


 金属の花が咲く音。アシェンプテルが遅れて目を覚まし、白銀の骨格がカタリーナの背で組み上がる。彼女は小さく息を吐き、顎を上げる。


「よーちゃんとカタリーナは正面。私は上から上がるための“足”を落とす」

「ああ!」

「任されてよ」


 返事と同時に、フロストが初撃を放った。

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