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A.Z.〈アブソリュート・ゼロ〉  作者: 軟膏
第0章『西暦2309年』
2/25

02:ためる熱

 訓練が始まる。

 床面が遠くなる。

 太陽は踏み切り台から空へ飛び出した。訓練区画の天井までは十メートル。数字で言えば短いが、身体にとっては十分に長い。

 背中で機械の骨が目を覚ます。主翼が左右に展開し、補助翼が角度を探る。背面のマグロックが背骨の両脇を挟み、微細な振動が肩甲骨をくすぐった。

 磁場の輪郭は冷たい。けれど、胸の奥は熱い。


「CP118、主翼展開を確認。――"風"を送る」


 コーチの声がインカムに落ち、それと同時に空気が唸る。

 巨大送風機四基。銀の羽根が一斉に回り、透明だった空に力の線が描かれた。

 ドッ、と風が太陽の身体を押した。

 空中で浮いていた身体が、目に見えて右へ流される。主翼が風を受け止めきれず、補助翼が慌てたように角度を変える。


「うっ……!」


 視界の端でホログラム計器のバーが跳ねる。姿勢角、ヨー方向に流れ、ロールが連動して崩れる。

 ――太陽の身体が、空中でゆっくりと右に傾き始めた。


「右が落ちてる。左補助翼を――そうじゃない、逆、逆」


 翼の声が飛んでくる。


「分かってる、つもり、なんだけど!」


 返す声は強がるが、風が答えを上書きする。

 太陽は必死に左の補助翼を下げようとするが、身体が先に傾いて、逆に右の翼が下がる。

 まるで自転車で曲がろうとして逆に倒れるような、ちぐはぐな動き。


「よーちゃん、力、散ってる」


 別チャンネルで翼の声。冷たく、しかし焦っていない速さ。呼び名が耳の内側を温める。

 太陽は両肩の筋肉を意識して、翼の根元をほんの少しだけ締めた。理屈は知っている。知ってはいるが、身体は知識をなぞるより前に風に掴まれる。

 空気が殴ってくる。


(踏ん張るな。受ける。受けて、流す)


 翼に叩き込まれた言葉を再生する。だが、強い風ほど、身体は固くなりたがる。


「CP118、落下軌道。姿勢、組み直せ」


 コーチの声は温度を持たない。

 太陽は空中でもがいた。

 肩、肘、背、腹筋――変に力が散る。散れば散るほど、主翼の滑らかさが死ぬ。

 送風機が段を上げ、仮想乱流が追加される。

 風が下から、横から、不規則に叩きつけてくる。

 太陽の身体が空中でぐるりと半回転しかける。揺さぶられ、鼻から息が漏れた。白い。もう、冷えてきた。


「深部温度、36.3。よーちゃん、ペース落として」

「まだいける!」


 言いながら、主翼の迎角を一段下げようとする。遅い。判断が半拍遅れる。風の壁に触れるタイミングがズレる。


(焦るな。焦ると体温が上がる。上がった分だけ、あとで奪われる)


 頭で正論を並べる暇に、身体が一度、空を滑った。いい感触――次の一瞬で、横突風が乱流を作る。

 翼の片側が空気を掴み損ね、太陽の体が空中で右に回転した。

 床が見え、天井が見え、また床が見える。


「うおっ――!」


 視界が回る。天井のライトが弧を描く。

 反射で逆舵を切るが、量が過剰だ。補助翼の角度が跳ね、制御系のアラートが鳴る。


〈警告:姿勢異常〉

〈注意:リミッタ介入〉

〈注意:末梢温度低下〉


「よーちゃん、肩に"ため"。反対側の"押し"を半目盛、だけ」


 翼の声は、刺さらない角度で落ちてくる。

 半目盛。半目盛。

 太陽は自分の肩を、目盛りだと信じる練習を思い出す。右肩の筋繊維を一本だけ緩めるつもりで――左の広背筋に呼吸を落とす。

 空気の壁が、少しだけ柔らかくなった。

 身体の回転が止まる。姿勢が戻る。


(いけ――!)


 ファンがもう一段上がった。

 現実は、待ってくれない。


「うおッ?!」


 身体の芯が、冷たく軋む。胸のコールドⅡコアはオフだ。これは純粋に外気と緊張で奪われる熱だと、頭は理解する。

 でも身体はただ震える。

 微細な震えが補助翼に伝播して、小さな舵が小さな誤差を産み、誤差は風で膨らむ。


「ネット準備中――持て、あと三秒」


 コーチ。


「三秒って、長い!」


 叫んだ次の瞬間、支えるはずの空気が消えた。

 正確には、支え方を身体が手放した。

 落ちる。

 時間が伸びる。

 床が来る。

 空は遠のく。

 身体の内側で血が揺れて、耳の奥で自分の鼓動が固い。

 ――バサッ。

 衝撃は思ったよりも柔らかかった。救助用のクレーンネットが、彼を受け止めたのだ。網が伸び、揺れが二度、三度。

 全身の力が抜け、太陽はしばらくそのまま息を吐いた。


「深部36.0。はい、水分」


 クレーンが下がり、床がより近くなると、翼がいつの間にか横にいて、紙コップが口元へ寄ってくる。

 少し飲んで、少しむせる。


「……悪ぃ」

「謝るタイミングじゃない。いまのは、乱流の入りで反応が硬かった。肩に"ため"をつくって」

「ため、か」


 翼は自分の肩を指で軽く押して見せる。


「力を入れ続けるんじゃなくて、入れる前の"置き場"。そこに空気が来たとき、すぐ方向を返せるように。――筋肉の熱、ためておく」

「ためる熱、か」


 言葉にしてみると、少しだけ実体を持つ。太陽は肩を上げ下げし、胸の内側で呼吸の置き場を探した。

 コーチがネットの下から覗き込む。


「姿勢制御の基本に戻れ。落ちるのは悪くない。落ち方を覚えろ。――次で今日のベストを出す」


 命令形なのに、励ましでもあった。温度は低いままなのに。

 ネットが戻され、太陽は再び踏み切り台へ上がる。脚が少し重い。重い理由の半分は冷えで、半分は悔しさだ。


(飛びたいからじゃない。届きたいからだ)


 心の中で反芻すると、胸がまた熱を作った。熱は重力と喧嘩しない。身体の中心に置いておけば、姿勢がひとつ、楽になる。


「ウォームアップ追加一分。深部36.2まで戻す」


 翼がタブレットを滑らせ、太陽の背中のバインドを一箇所だけ微調整する。


「さっきの半目盛、覚えてる?」

「たぶん覚えてる」

「"たぶん"じゃなくて、いつでも。――鼻から四つ、口で二つ」


 呼吸のリズムを合わせると、指先の震えが少し引いた。肩の置き場が見つかる。

 ため。


(ためて、返す)

「CP118!」


 コーチの合図。


「行きます!」


 太陽は台から飛び出す。

 主翼が開く。補助翼が小さく鳴く。

 風が殴ってくる。

 今度は、殴り返さない。

 肩にためた熱で、受けて、角度を返す。

 バーが少しだけ、狙った側へ傾いた。


「……いい。そのまま半目盛。――着地点、マーカー青」


 翼の声の温度が、ほんのわずかに上がる。

 青いリングを視界の中央に合わせる。重力が引き、風が押し、身体の中の熱がそれをならす。


(行ける)


 次の瞬間、突風。

 さっきより弱い。でも、さっきより早く来た。

 太陽は一拍前に肩を緩め、反対側にためを落とす。

 空気の壁が、今度は柔らかく押し返してくれた。


「……ナイス。マーカーまで十三、十二――」

「十」


 自分で数を取り、舌の裏に汗の味を感じる。

 青い輪が近づく。

 足許が落ちる。


(落ちろ、じゃなくて、置け)


 着地は、完璧ではなかった。

 ほんの少し膝が流れ、主翼の端が床に擦りそうになった。

 それでも、倒れない。受け継いだ揺れが二度、三度で収束する。

 床が、固い。足の裏が、戻ってくる。


「……今日のベスト」


 翼が言い、唇の端だけで笑う。


「次は、もっと」


 太陽は息を吐いた。吐いた息は白く、すぐに空調に千切られた。指先は冷たい。でも胸の奥は、さっきよりも温かい。

 パネルがピッと鳴る。


〈注意:深部 35.9〉


 黄色い表示。

 コーチは短く顎を引いた。


「ここで切る。――冷やし過ぎるな。次は明日だ」


 命令形。温度は低い。でも、許可にも似ている。

 装備を外すと、背中から冷たい磁場の輪郭が離れた。肩が軽くなり、同時に、少しだけ名残りの重さが残る。

 翼が紙コップをもう一つ差し出す。


「砂糖、入れてある」

「子供扱いかよ」

「パイロット扱い」


 ふたりは短く笑って、それでこの回は終わった。

 片付けの最中、回廊の向こうを見学ツアーが通る。小さな背中が列になり、ガイドが「コールドアウトに注意しましょう」と明るく言う。

 その言葉が、太陽の胸の熱に一瞬だけ薄い影を落とし――すぐ溶けた。


(怖がるのはいい。止まらないなら)


 ドームの天井は、薄い極光をまだ掬っていた。

 太陽は見上げる。


(待つのをやめた。迎えに行く足を、作る)


 胸の中で言葉が形になり、さっきよりも少し、強く打った。

 冷却配管の唸りが遠のき、代わりに自分の心拍が世界のリズムみたいに聴こえる。

 世界は冷えた。けれど、氷の上を走るために、ここには"熱"が残された――A.Z.、そしてコールドⅡ。

 セルシウスガーデンは、その黒の周縁に築かれた学園の顔をした都市で、上には極光、下には氷床、そのさらに下には飲み込むような黒がある。

 太陽は"待つ"をやめた。

 迎えに行く足――ARKを"着る"ために、落ちて、ほどき、ためを置き、丁寧を残して遅いを削った。

 同調率は並。だが体温は男子にしては高い"灼熱の心臓バーニングハート"。

 ――だから、彼は「熱量で戻す型」を選び、トリィは式と部材でロスを削る設計を重ねてきた。

 数字は積み上がり、噂は揺れ、身体は覚える。

 境目は、押せる。

 そして、押した先で"何か"が応えるのが、物語だ。

 心臓は、世界のリズムみたいに打つ。

 迎えに行く足は、前を向く。

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