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A.Z.〈アブソリュート・ゼロ〉  作者: 軟膏
第2章『叛罪教戒(ヌリファイ・シンズ)』
18/25

07:正しくあろうとする

 ――沈黙。短く、濃い沈黙。

 太陽には聞こえた。カタリーナの呼吸が、一度だけ乱れる音。翼にも見えた。彼女の拳が、爪の跡で白くなるのが。

 カタリーナはゆっくりと、腰のホルスターに手を伸ばした。学園規約の範囲内で携帯が許された訓練用のスタン・ピストル――ではない。彼女の指が触れたのは、展示会で見飽きるほど見た、あの小型レーザーピストルの姉妹機。鋼ではなく、繊維強化樹脂に走る微細な亀裂が、光を吸う。


「それは」

「安全装置は外してあるわ。――卑怯者の薄汚れた金で生かされたいほど、私の両親は落ちぶれていません」


 凛然と、言い切った。声が室内の角で反射し、凍った刃のように戻ってくる。太陽の心臓が跳ねる。翼の喉が動く。


「私が生かす。私が勝ち取った正当な報酬で。私の力で。あなたの"掌"の上ではなく、私の足で立つ」


 ディートハルトは、初めて目を細めた。笑っていない瞳。杖の先が床を離れ、わずかに宙で揺れる。


「……感動的だ。若さは美しい。だが、現実は非情だよ。病は待たない。支払いも待たない」

「やってみなきゃ分かんねえだろ」


 太陽が低く言う。ディートハルトは太陽を見、鼻で笑い、すぐまたカタリーナに視線を戻す。


「では、撃つのかね? 私を。――そうすれば、君の"道徳"は満たされるかもしれない。だが、その瞬間、君の両親は保護の網から落ちる。治療は中断され、病は進行するだろう。私は残酷な男だが、法には従う。資金源が途絶えた患者を救う義務は、私にはない」

翼の視線が、カタリーナの指先とスライドの隙間を往復する。安全機構の構造、冷却機構の癖。彼女は瞬時に解を算出しながらも、一切動かない。太陽は体重を前足に乗せ、同時に肩の力を抜く。飛び込んで止める、という選択肢は悪手だ。レーザーは音速ではないが、彼の脚力よりも速い。

「賢い選択をすべきだ」


 ディートハルトが繰り返す。カタリーナは――微笑んだ。冷たく、そしてほんの少し優雅に。


「あなたは一つ、重大な勘違いをしている」

「ほう?」

「私は"賢く"なんかない。私は"正しく"あろうとする」


 銃口が、わずかに上がる。ディートハルトの眉が、初めてほんの少し動いた。


「それと、あなたの"保護"は思ったより脆い」


 翼が静かに端末を掲げる。画面には、凍った海の割れ目のようなグラフ。資金の流れ。匿名化のヴェールを何層も剥いで追った先にある、小さな"ボトルネック"。彼女が先ほど見つけた、地下区画の別ノード――そこに流れ込む"見えない"お金。


「ここの電源、落ちたら困るでしょう? このノードがわずか三十分沈黙すれば、あなたの外部口座のルートは"自動で"封鎖される。あなたは法に従うと言った。じゃあ、法に従って"再開"の申請をしている間、治療費はどこから出るのかな」


 ディートハルトの瞳が、ほんの一瞬、氷の表面を裂くように狭くなる。杖の先が、微かに震えた。太陽はその震えに、自分の熱が届いたような錯覚を覚える。


「脅しかね?」

「交渉」


 翼は淡々と答える。


「あなたはお金でしか世界を測らない。だから、お金で説明しただけ」


 ディートハルトは、短く笑った。冷ややかな、しかし楽しげな笑い。


「いいだろう。若い。……だが、まだ足りない」


 彼は杖を床に強く打ちつけた。

 瞬間、室内の照明が一段落ち、壁のパネルが"内側から"ロックされる音がした。空気がわずかに重くなる。換気が絞られた。太陽の皮膚の産毛が立つ。


「ここは私の"部屋"だ。君たちはここに招かれた。――私がドアを開けるまでは、誰も出られない」

「じゃあ、こじ開けるさ!」


 太陽が一歩、前へ。カタリーナの銃口が、ディートハルトの眉間から胸元へと滑らかに流れる。翼の親指が端末の影に潜り、見えないスイッチに触れる。


「最後にもう一度だけ、言うわ」


 カタリーナが言った。真っ直ぐ、澄み切った声で。


「卑怯者の薄汚れた金で生かされたいほど、私の両親は落ちぶれていません。……私が助ける。私が払い、私が戦う。それが、メンデルスゾーン家のやり方」


 沈黙。極低温の鉄板の上に、熱い滴が落ちたみたいな、鋭い音のない瞬間。

 ディートハルトの口角が、静かに持ち上がった。


「――では、見せてもらおう。正しさの値段を」


 次の瞬間、壁が低く唸り、天井の隅で何かが開いた。

 細い影。小型ドローン。レンズが三つ。レーザーの発振器はおそらく……。


「よーちゃん!」

「分かってる!」


 太陽は床を蹴る。翼は指を弾く。カタリーナは"先に動いた"。銃口が、火ではなく光を吐く準備を終える。

 極冷の室内に、熱が集まる。三人の視線が一点で交差し、その先にあるのは――

 断たれた線か、それとも、繋ぎ直すための"代償"か。

 氷の下で、何かが音を立てた。

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