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A.Z.〈アブソリュート・ゼロ〉  作者: 軟膏
第2章『叛罪教戒(ヌリファイ・シンズ)』
17/25

06:光と影

 ――中は、驚くほど"片付いて"いた。

 部屋の広さは約十メートル四方。机。椅子。端末。壁一面のラックには、試作の基板と、規格外の冷却パーツが整然と並んでいる。床には何もない。乱雑の気配がないからこそ、そこが"現場"に見える。


「ようこそ。若い客人たち」


 声に振り向いた先、窓のない室の奥に人影があった。杖の先を軽く床に点じる仕草。ディートハルト・バックハウス。シェーンベルク財団の技術顧問。髪は白、スーツは濃紺、瞳は笑っている。


「ここが"見つかる"のは、もう少し先かと思っていたが。さすがはフェスの主役たち」

「うずめシステムに不正アクセス。顧問権限の"影"を使って。送信先は、ここ」


 翼は挨拶を省いた。ディートハルトは眉を上げ、肩をすくめる。


「影、とは失礼な表現だ。私はいつも"光"の側にいるつもりだがね」

「光が強いほど影も濃い」


 カタリーナの返しは刃のように薄い。彼女は一歩、前へ出た。ヒールが床に音をたてる。その音は告発の鐘だ。


「レオンを撃った。ルカを突き落とし、サヤに薬剤を吹いた。――あなたが直接ではなくても、『あなたの手の届く武器』が使われた。学内の台帳は改竄。貸与ナンバーの二重化。そして、"これ"」

翼が壁の端末にケーブルを差し込み、短いログを浮かべる。そこには、うずめのベース設計のサマリが外部へ流れた痕。ディートハルトは顔色を変えない。杖の先で床をとん、と打った。

「なるほど。よく調べたね」


 彼は穏やかに微笑んだ。


「だが、君たちは一つ、重要なことを見落としている」

「見落とし……?」


 太陽が眉を寄せる。ディートハルトは杖を床に立て、両手を重ねた。


「私が何者か、本当に知っているのかね?」

「シェーンベルク財団の技術顧問」

「それは"肩書き"だ」


 ディートハルトの瞳が、笑みを失う。


「私が何を"信じて"いるか――それを理解しているかね?」


 沈黙。一拍の、濃い沈黙。

 翼の指が止まり、カタリーナの呼吸が浅くなる。太陽は一歩、前へ出た。


「まさか……ヌリファイ・シンズ?」


 言葉が空気に落ちた瞬間、室温が一段下がった気がした。

 ディートハルトは、静かに笑った。


叛罪教戒ヌリファイ・シンズ――その名を口にするとは。授業をちゃんと聞いていたようだね、草薙くん」

「……本当に、あんたが」

「『あんた』とは失礼な。私はディートハルト・バックハウス。シェーンベルク財団技術顧問にして――」


 彼は杖を床に打ち、背筋を伸ばした。


「――叛罪教戒が定めし『戒律エディクト』を守護する者。我らは人の手で築いた技術を至上とし、悪魔の遺物――A.Z.の技術を拒絶する」


 宣言。それは信仰告白であり、同時に宣戦布告でもあった。


「君たちが作った『うずめ』――あれは興味深い。A.Z.技術の応用としては、実に巧妙だ。だからこそ、危険なのだよ。人々がそれに依存し、人の手で作る技術を忘れていく」

「ふざけるな!」


 太陽が声を荒げる。


「A.Z.技術が何人の命を救ったと思ってる! 温暖化も、エネルギー危機も、全部解決したんだぞ!」

「解決?」


 ディートハルトが首を傾げる。


「いや、違うな。『先送り』しただけだ。人類は自分の力で問題を解決する努力を放棄し、氷の下から拾った"奇跡"に縋った。それは――堕落だよ」

「堕落……」


 翼が呟く。


「あなたたちは、それで何人殺したの? TeCによるテロで、何人の研究者が命を落としたか……!」

「犠牲は、常にある」


 ディートハルトは淡々と答えた。


「だが、我々が殺した数より、A.Z.技術が"殺すであろう"数の方が、遥かに多い」

「何を――」

「考えてみたまえ。A.Z.は何だ? 人類が理解できない、制御できない、得体の知れない"何か"だ。それに依存した文明が、いつか必ず破綻する。その時、人類には何も残らない。自分の手で問題を解決する力も、技術も、すべて失われている」


 ディートハルトの声には、確信があった。狂気ではなく、冷徹な論理。それが余計に、恐ろしかった。


「だから、我々は戦う。人類を"正しい道"へ戻すために」

「滅茶苦茶だ……! 救うために誰かを傷つけて、殺すのか?!」


 太陽が叫び、ディートハルトを糾弾する。


「若いね。熱い。――だが、熱は時に視界を曇らせる。……たとえば、君」


顎がわずかに動き、彼の視線がカタリーナに定まる。白い薄笑いが、少しだけ深くなる。


「破産したお前の両親を生かしてやっているのは、誰だ?」


 空気が一段、冷えた気がした。太陽は無意識に一歩、前に出る。翼の指が止まる。カタリーナは動かない。彼女の瞳の色が、ほんの少しだけ濃くなる。時間が薄く伸びる。


「……どういう意味だよ」


 太陽の声は低い。ディートハルトは肩を竦め、大仰に両手を広げる。


「君たちは"設定資料"をよく読む子だ。ならば当然、知っているだろう? 極冷化以降に顕在化した"古き病"。永久凍土から溶け出した未知の病原体による疾患。治療は難しく、費用は天井知らず。――メンデルスゾーン家は、投資の失敗で傾き、その上に病が乗った」


 カタリーナの唇が、微かに震えた。すぐに止まる。彼女は喉の奥に何かを押し込み、目の奥の温度を調整する。


「続けて」

「君の両親は今も治療中だ。保険は焼け、資産は凍った。学園は奨学金を出したが、それは娘の学費と寮費の話であって、両親の治療費ではない。――さて、誰が負担したのかな?」

杖の音が一度、響く。太陽の拳が自然に固まる。翼は目を細め、ディートハルトの声の抑揚を解析するように聞いている。

「ARK操縦者として稀有な資質。反射速度、冷気耐性、集中持続。私はそれを見て、投資を決めた。『支援』と呼ぶこともできる。結果として、君の両親は今日も医療ポッドの中で呼吸をしている。――それが事実だ」

「恩を売ったつもり?」


 カタリーナの声は、静かだった。凍った湖の底を渡るように平坦だが、揺らぎがある。


「善意だよ。私の。……もちろん、相応の見返りは期待する。世界は善意だけでは回らない」


 彼は一拍置き、視線をカタリーナから外して宙へ向けた。


「君が"勝ち"、私が"正しい"形に近づく――それでいい。うずめの中核は、君の"勝ち"をさらに確かなものにする。私はそれを、世界に広げるために最短距離を選んだだけだ。そして、その技術を――我々の『熱量技術ウォーム・テック』へと転用する」

「転用……?」


 翼が息を呑む。


「まさか、TeCに?」

「そう。君たちの『うずめ』は、ダメージを熱に変換する。その原理を逆用すれば、熱から運動エネルギーを生み出すことができる。コールドⅡに依存しない、真に人類の技術だけで作られた動力源が完成する」


 ディートハルトの瞳が、熱を帯びた。


「それこそが、人類の『救済』なのだよ」


 太陽は息を吸う。胸の中で、何かが熱を持って膨張する。翼は端末を閉じた。十分だ、という合図のように。


「つまり、盗んだってことね」

「言葉が悪い。『共有』だ。君たちはまだ若い。若者は所有権と公益の境界に過敏だ」

「そういう年頃なもんでね」


 太陽が一歩、踏み込む。ディートハルトは肩をすくめ、カタリーナに視線を戻す。


「さて。君だ、メンデルスゾーン嬢。噂は君を傷つけ、友を失わせ、夜の眠りを奪う。でも、家族は私が守っている。君が"賢く"振る舞えば、このまま安寧は続く。――賢い選択をしなさい」

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