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A.Z.〈アブソリュート・ゼロ〉  作者: 軟膏
第2章『叛罪教戒(ヌリファイ・シンズ)』
15/25

04:噂の炎

「ねえ、ほんとにリーナなの?」


 昼休み、誰かが翼に囁いた。

 翼は首を横に振る。その速さは、答えの代わりだった。


「証拠がないから、断定はできない。でも――」

「でも?」

「でも、この手口には"意図"がある。誰かが、何かを、隠そうとしている」


 だが、噂はリーナへと向かい続けていた。シェーンベルク財団の武器、専用機を持つ特権、負けた腹いせ――すべてが"分かりやすい"物語として、学生たちの間を駆け巡る。

 叛罪教戒の可能性は、あまりにも大きすぎて、学生たちには実感が湧かない。だが、同級生の"復讐"なら、理解できる。信じられる。

 人は、理解できる悪を選ぶ。

 夕刻。トレッドミルの前で太陽は走る。

 訓練リングの一角に設置された有酸素運動エリア。ランニングマシンが十台並び、それぞれに学生が乗っている。太陽は端の一台で、一定のペースで走り続けていた。

 汗は冷え、息は白く、耳元で靴音が一定のリズムを刻む。脳裏では、焼け跡、焦げ、無音の角、白い掲示の名前が反芻される。

 そして――教授の言葉。


『A.Z.技術の担い手』


 フェスの歓声はもう遠い。

 終わってみれば"勝利"も日常だ。日常は、容赦がない。


「――草薙」


 背後からかけられた声に、太陽は足を止めた。振り向けば、カタリーナ。髪をまとめ、制服の襟はきっちりと閉じられている。頬は少し青い。


「助けなんて求めない。噂の相手は、私が自分で黙らせる」

「噂は、敵だ。殴れない」

「殴れる場所まで連れていけばいい」


 言い切り、彼女は踵を返す。強情、短気、そして真っ直ぐ。

 太陽は曖昧に笑って、胸の熱を撫でつけた。

 三日目の夜。レナがようやく一本の"糸"を引いた。

 彼女は深夜のハンガー、臨時のワークステーションで端末に向かっていた。周囲には誰もいない。冷却配管の低い唸りと、キーボードを叩く音だけが響いている。


「学内の武装ログ、貸与リストに齟齬。シェーンベルクの保管庫、ナンバーがひとつ……動いてる」


 翼は目を見開き、太陽は呼吸を一つ深くする。

 名札、回収、鍵――人、場所、時刻。

 いくつかの点が、線になりかけている。その線の行き先に、ある名が立ち上がるのは、もう少し先の話だ。

 だが、噂の炎は待たない。

 翌朝のアトリウム。

 告知塔の前に小さな人だかり。センセーショナルなホロ落書きが踊っている。


"復讐リベンジ"

"貴族の娘"

"夜の銃声"


 教師が慌てて消すより早く、誰かが写真を撮る。データは雪のように拡散し、踏んでも跡が消えない。


「――出なさい」


 リーナが前に出た。

 涼しい声が広場に届く。彼女は群衆の正面に立ち、背筋を伸ばす。一秒の静寂。二秒目に、囁きが収束する。三秒目に、誰かが言った。


「やったのか?」


 彼女は答えない。

 答えないことが、答えになる瞬間がある。違うのに、そう見えるときがある。

 太陽が踏み出しかけた時、その肩を静かに翼が押さえた。タイミングの悪い正義は、時に凶器になる。


「私がやったのなら、もっと"綺麗"にやるわ」


 初めて、彼女は刺すように返す。

 その言葉は自尊の形をしていたが、同時に追い詰められた獣の牙でもあった。群衆から、小さな笑いと、小さな怯えが同時に漏れる。

 夕暮れ。氷の輪の灯りは一つずつ増え、通路の端にだけ人影が濃くなる。

 太陽は医療棟でレオンの寝息を確かめ、サヤの包帯を替えるのを手伝い、レナの目の下の隈に苦笑いを向けた。バルトは短く頷き、丈は巡回表を壁に貼る。ルカが「大丈夫、直る」と肩を叩く。

 翼は、何も言わずに太陽のマフラーを整えた。

 ガーデンは今日も正常だ。

 訓練はある。授業はある。点検も、提出も、議論もある。

 だが、彼らの"日常"は凍っている。滑って、きしんで、音を立てずにひびが走る。

 ――そのひびの先に、何が口を開けているのか。

 今はまだ、誰も知らない。

 ただ一つ確かなのは、噂は熱で走るということだ。冷たい世界で、熱はよく目立つ。

 太陽は、拳を握り、息を白く吐く。翼は端末に指を踊らせ、リーナは視線を上へ、黒い外郭の向こうへ投げた。

 極光は揺れない。

 だが、視界の端の何かが、確かに軋んだ。

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