04:噂の炎
「ねえ、ほんとにリーナなの?」
昼休み、誰かが翼に囁いた。
翼は首を横に振る。その速さは、答えの代わりだった。
「証拠がないから、断定はできない。でも――」
「でも?」
「でも、この手口には"意図"がある。誰かが、何かを、隠そうとしている」
だが、噂はリーナへと向かい続けていた。シェーンベルク財団の武器、専用機を持つ特権、負けた腹いせ――すべてが"分かりやすい"物語として、学生たちの間を駆け巡る。
叛罪教戒の可能性は、あまりにも大きすぎて、学生たちには実感が湧かない。だが、同級生の"復讐"なら、理解できる。信じられる。
人は、理解できる悪を選ぶ。
夕刻。トレッドミルの前で太陽は走る。
訓練リングの一角に設置された有酸素運動エリア。ランニングマシンが十台並び、それぞれに学生が乗っている。太陽は端の一台で、一定のペースで走り続けていた。
汗は冷え、息は白く、耳元で靴音が一定のリズムを刻む。脳裏では、焼け跡、焦げ、無音の角、白い掲示の名前が反芻される。
そして――教授の言葉。
『A.Z.技術の担い手』
フェスの歓声はもう遠い。
終わってみれば"勝利"も日常だ。日常は、容赦がない。
「――草薙」
背後からかけられた声に、太陽は足を止めた。振り向けば、カタリーナ。髪をまとめ、制服の襟はきっちりと閉じられている。頬は少し青い。
「助けなんて求めない。噂の相手は、私が自分で黙らせる」
「噂は、敵だ。殴れない」
「殴れる場所まで連れていけばいい」
言い切り、彼女は踵を返す。強情、短気、そして真っ直ぐ。
太陽は曖昧に笑って、胸の熱を撫でつけた。
三日目の夜。レナがようやく一本の"糸"を引いた。
彼女は深夜のハンガー、臨時のワークステーションで端末に向かっていた。周囲には誰もいない。冷却配管の低い唸りと、キーボードを叩く音だけが響いている。
「学内の武装ログ、貸与リストに齟齬。シェーンベルクの保管庫、ナンバーがひとつ……動いてる」
翼は目を見開き、太陽は呼吸を一つ深くする。
名札、回収、鍵――人、場所、時刻。
いくつかの点が、線になりかけている。その線の行き先に、ある名が立ち上がるのは、もう少し先の話だ。
だが、噂の炎は待たない。
翌朝のアトリウム。
告知塔の前に小さな人だかり。センセーショナルなホロ落書きが踊っている。
"復讐"
"貴族の娘"
"夜の銃声"
教師が慌てて消すより早く、誰かが写真を撮る。データは雪のように拡散し、踏んでも跡が消えない。
「――出なさい」
リーナが前に出た。
涼しい声が広場に届く。彼女は群衆の正面に立ち、背筋を伸ばす。一秒の静寂。二秒目に、囁きが収束する。三秒目に、誰かが言った。
「やったのか?」
彼女は答えない。
答えないことが、答えになる瞬間がある。違うのに、そう見えるときがある。
太陽が踏み出しかけた時、その肩を静かに翼が押さえた。タイミングの悪い正義は、時に凶器になる。
「私がやったのなら、もっと"綺麗"にやるわ」
初めて、彼女は刺すように返す。
その言葉は自尊の形をしていたが、同時に追い詰められた獣の牙でもあった。群衆から、小さな笑いと、小さな怯えが同時に漏れる。
夕暮れ。氷の輪の灯りは一つずつ増え、通路の端にだけ人影が濃くなる。
太陽は医療棟でレオンの寝息を確かめ、サヤの包帯を替えるのを手伝い、レナの目の下の隈に苦笑いを向けた。バルトは短く頷き、丈は巡回表を壁に貼る。ルカが「大丈夫、直る」と肩を叩く。
翼は、何も言わずに太陽のマフラーを整えた。
ガーデンは今日も正常だ。
訓練はある。授業はある。点検も、提出も、議論もある。
だが、彼らの"日常"は凍っている。滑って、きしんで、音を立てずにひびが走る。
――そのひびの先に、何が口を開けているのか。
今はまだ、誰も知らない。
ただ一つ確かなのは、噂は熱で走るということだ。冷たい世界で、熱はよく目立つ。
太陽は、拳を握り、息を白く吐く。翼は端末に指を踊らせ、リーナは視線を上へ、黒い外郭の向こうへ投げた。
極光は揺れない。
だが、視界の端の何かが、確かに軋んだ。




