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A.Z.〈アブソリュート・ゼロ〉  作者: 軟膏
第2章『叛罪教戒(ヌリファイ・シンズ)』
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02:黒焦げの連鎖

 その日の夕刻、レオンが戻らなかった。

 最初に不穏を掴んだのはレナだ。グループチャネルの既読が途切れ、彼の端末のビーコンが訓練リング外縁のサービスコリドーで停止している。

 サービスコリドー――訓練リングの外周を巡る、幅二メートルほどの保守用通路だ。照明は暗く、普段は学生が通る場所ではない。


「おかしい。レオン、こんな所で何してるの……?」


 レナが端末を睨む。太陽と翼、そして教官二名が駆けつけた先で――

 冷たい床に崩れた彼を見つけた。


「レオン!」


 太陽が駆け寄る。レオンは仰向けに倒れ、目を閉じている。脇腹に焦げ目。衣服を貫く薄い焼穿孔――直径一センチほどの、黒く縁取られた傷。

 出血は少ないのに、意識が深く沈んでいる。


「搬送、急いで!」


 翼の声で、医療ドローンが天井から降下し、レオンを包む。白い光のフィールドが展開され、診断データが空中に浮かぶ。


『出力の低い指向性熱線による組織損傷。深度:筋層まで。意識喪失:熱性ショック』


 太陽は焦げの縁に指をかけかけ、拳を握った。

 床には小さな焦げ跡が点々と続き、曲がり角の手前で途切れている。まるで誰かが慌てて逃げたように。

 追う足は、そこから先を許されなかった。封鎖、規則、手続き。氷の輪の理性が、感情を追い越す。


「くそっ……!」


 太陽の拳が壁を叩く。鈍い音が廊下に響いた。

 不幸は"ひとつきり"では止まらない。

 翌日。ルカが整備区画で背から押し倒され、工具ラックに打って肩を脱臼した。

 整備区画――ハンガーに隣接する、工具と部品が壁一面に並ぶ作業スペースだ。天井から吊るされた照明が、金属の棚を冷たく照らしている。


「誰か……! 誰かいませんか!」


 ルカの叫び声に、近くで作業していた整備員が駆けつける。彼は床に座り込み、左肩を右手で押さえていた。顔は青白く、額に脂汗が浮いている。


「後ろから……押された。誰が、見えなかった……」


 診断の結果は肩関節脱臼。全治三週間。

 そして翌々日――

 サヤが塗装ブースで目潰しに近い冷却剤の噴霧を浴びた。

 塗装ブース――ハンガーの一角に設置された、透明な壁で仕切られた密閉空間だ。ARKの外装を塗装するための部屋で、換気システムと空気清浄機が常時稼働している。


「きゃああああっ!」


 悲鳴が聞こえた時、太陽と翼が駆けつけると、サヤがブースの床に蹲っていた。両手で顔を覆い、指の間から白い液体が滴っている。


「目が、目がっ……!」


 冷却剤――ARKの塗装に使う特殊な溶剤だ。皮膚に触れると急激に熱を奪い、目に入れば一時的な視力障害を起こす。

 幸い、防護ゴーグルをしていたため失明は免れた。だが、角膜に軽い炎症。全治二週間。

 軽傷、軽傷、しかし連鎖。

 誰かが狙い、選び、躊躇なく手を下している。


「学内の悪戯ってレベルじゃないだろ、これ……」


 ジョウの低い声に、太陽は唇を噛んだ。

 彼らは医療棟の廊下に集まっていた。白い壁、消毒液の匂い、遠くで聞こえるモニターの電子音。廊下の幅は三メートルほど。窓からは、薄い極光が見える。

 翼は医療棟とハンガーの往復で睡眠を削り、レナは監視カメラのログをかき集める。


「映像には写らない手口が多い。でも、痕跡の質だけは残ってる」


 レナが端末の画面を見せる。そこには、三つの事件現場の写真が並んでいる。

 レオンの脇腹の焦げ跡――直径一センチ、黒く縁取られた円形。

 ルカが倒れた整備区画の床――誰かの足跡はない。

 サヤの塗装ブース――冷却剤の噴射ノズルは、誰かが手で向きを変えた痕跡。


「――この焼けは、見覚えがある」


 カツン、とヒールの音がした。

 廊下の奥から、金の髪の少女が現れる。カタリーナ・A・メンデルスゾーン。傷は無い。だが、冷えた瞳に迷いが渦巻くのを、太陽は見た。


「シェーンベルク財団の小型レーザーピストル。展示会で何度も見た。うちの回廊にも、貸与されたモデルがある」

「お前……」

「事実を言っているだけ」


 カタリーナは壁の掲示板を指先で弾いた。そこにはスポンサー一覧、そして"技術顧問:ディートハルト・バックハウス"の名。

 フェスの夜、杖の紳士が残した"視線"を、太陽は思い出す。


『若者の爆発力は、時として恐ろしいものだ』


 あの声が、耳の奥で反響する。

 噂は、形を持つ。

 誰かが囁き、誰かが拡声する。そして、誰かが記録する。


 ――犯人はリーナなんじゃないか?


 ――負けた腹いせ。あの子ならやりかねない。


 ――財団の武器。専用機。派閥。


 最初は小さな声だった。アトリウムの隅、給湯室の片隅、廊下のすれ違いざま。

 だが三日目には、それは囁きから会話へ、会話から議論へと変わっていた。


「ねえ、聞いた? リーナが……」

「いや、でも証拠は……」

「でも、あの子の周りだけ無傷でしょ?」


 昼のアトリウム。チームSOLのテーブルの周囲に、以前のような人だかりはない。代わりに、遠巻きに視線を送る学生たちが増えた。

 同情と、好奇心と、そして――何か別の感情。

 リーナ派の机が一つ、また一つと人を失い、取り巻きの笑顔が固まっていく。廊下で向けられる視線は、敬意から測りへ、測りから疑いへ。

 彼女自身は平然を装うが、肩の線は少しだけ固くなった。


「私は――やっていない」


 すれ違いざま、氷のように澄んだ声。

 誰にでもなく、壁に向けて。その硬さは虚勢ではない。太陽は知っている。胸のどこかで、あのデュエルの"熱"が応える。


(彼女はそういうことはしない。勝つために手を尽くすが、卑劣は選ばない――)


 しかし、理屈と噂の速度は別物だ。

 医療棟の匂いは薄い消毒薬。レオンは安静。ルカは固定具、サヤは眼帯。丈は見回り、レナは端末に張りつき、バルトは無言で交差点に立つ。

 翼は、眠れていない。


「よーちゃん、"うずめ"の資料、提出猶予を願い出た。今は――皆を守る方が先」

「無理すんなよ」

「無理はする。でも倒れない」


 翼は笑ってみせる。笑みは、薄く、強い。太陽は頷き、その肩から工具箱を持ち上げた。

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