01:氷床の学園
セルシウスガーデンは、南極の氷床下に眠る黒い遺跡――アンタークティックポイントA.Z.を円環状に囲む、学園の顔をした都市だ。
透明なドーム天井は薄い極光をすくいあげ、校門のゲートは研究機関と軍と企業のロゴで点滅する。ここでは授業のチャイムも、冷却配管の唸り声に混ざって鳴る。
昼休みのアトリウム。吹き抜けの空間に、今日は特別編成のホロ映像が流れていた。タイトルは――
『2273年:停滞の終わりか、あるいは始まりか』
草薙太陽は立ち止まって見上げる。ARK操縦者候補生、一年。海外の友人は彼を軽口で"ソル"と呼ぶが、本人はまだ慣れ切れていない。
――乾いた砂嵐の映像。黒い海。沈む街。
《エネルギー源の枯渇》《技術停滞》《温暖化による海面上昇》と見出しが踊り、マスク越しに目だけを見せる人々が列を作る。
字幕には、凍土の融解で露出した太古のウィルス、広域パンデミック、崩れかけた供給網――そんな言葉が、説明するより先に胸に刺さる順番で並ぶ。
「またこれかよ。授業で三回も見たっての」
と誰かがぼやき、すぐそばで声がした。
「よーちゃん」
紙コップを二つ抱えて近づく少女に、太陽は苦笑する。
「……トリィ」
大鳳翼。ARKエンジニア候補生で、太陽の幼馴染だ。彼女は薄手の作業着に袖を押し上げ、工具の油で指先が少し黒い。いつも彼を"よーちゃん"と呼ぶのはこの子だけだ。
映像は転調する。白い大地。無数のボーリングマシン。地表に穿たれた円形の孔が連なり、やがて画面のコントラストが跳ね上がる。
《南極氷床下にて、超古代文明の遺構を確認》
黒い――いや、光を飲み込む色としか言えない構造物が、雪の下から現れる。初出の呼称〈アンタークティックポイントA.Z.〉。レポーターの声は上ずっているのに、音声処理で平坦に均されていた。
「ここが、希望だった場所」
翼が独り言のように呟く。太陽は頷かなかったが、否定もしなかった。
希望、と呼ぶには歯に氷が触れたみたいな感触が残る。
《反エントロピー性発電性分子 コールドⅡの発見》
白衣の誰かが手元で小さな"冷たい花火"を咲かせる。周囲の空気が縮む。霜の羽根がパッと広がって、次の瞬間、暗転。拍手。歓声。指が凍えるような静けさ。
「熱を食べて、力に変える。魔法みたいだよね」
翼は紙コップの一つを太陽に押しつける。受け取ると、手のひらがほんの少しだけ軽くなる。温かさは重さのかたちに似ている、と太陽は思う。
「……魔法じゃないさ」
「うん。式で書ける。たぶんね」
翼は笑って、レンチをポケットに戻した。
アトリウムの端では、別のグループがざわついていた。軍の腕章をつけた大人たちと、研究者風の人間、それから微妙に目立つスーツの男がひとり。
笑わない笑顔。
彼らの視線はホロではなく、ドームの向こう、校舎のさらに下、氷床の黒へ向いているように見えた。
リング模型の外周にはスポンサーの名前が刻まれている。ドイツのシェーンベルク財団のロゴも混じる――ここでは"学校"が顔で、裏側には資金と政治の血管が通っている。
やがて彼らは、ドイツ出身のエース候補"リーナ"に話題を移す。一年生でありながら専用のカスタムARKを持つという、あの金髪の少女だ。彼女が財団の支援を受けるという噂は、もはや秘事ではない。
ホロは"あの日"を繰り返す。
《2273年、世界は災厄に晒されていた》
字幕はそこで少しだけ間を空け、
《だが、パンドラの箱に希望が残っていたように》
《氷の底にも、ひとつだけ熱を返す術があった》
……と締めた。拍手の効果音。アトリウムに散る小さなため息。
視界の隅で、太陽は天井の極光を追いかける。音はしないのに、確かに空が軋んだ記憶だけが耳に残る。
「よーちゃん」
翼が名を呼ぶ。
「うん?」
「昼、訓練区画で。コーチが"例のアレ"入れるって」
「――例のアレ?」
「送風機。風圧訓練」
彼女がひらりと手を振る。太陽は紙コップを空にして、温かさの消えた指を軽く開閉させた。掌に残る薄いしびれ。
(逃がさない。俺の熱は、逃がさない)
幼い頃から高めの体温は、ただの体質じゃない――ここでは武器だ。友人たちは冗談で"バーニングハート"なんて言うけれど、本人は笑って受け流すことにしている。
ARK――宇宙服サイズの人型強化装備。それを動かすコールドⅡエンジンは、操縦者の体温を奪い続ける。だから"熱"を持つ者が有利だ。
アトリウムの中央に据えられた模型――リング状のガーデンと、中心に沈む黒いA.Z.――の前で、低学年らしい生徒が顔を寄せ合っていた。
「ほんとに宇宙に行けるの?」
「行ける。"着る"から」
「え、服?」
「宇宙船。ARKっていうんだ」
小さな声は小さな比喩で世界を呑みこもうとして、すぐに笑いにほどけた。答え合わせは授業でやればいい。
太陽に必要なのは、答えではなく、足だ。
宇宙へ。消滅した宇宙開発事業船『すさのお』へ。そこに取り残された両親を迎えに行くための、足。誰が何と言おうと、彼らはまだ、どこかで待っている――太陽はそう信じることを、諦めなかった。
ドームの向こう、空は薄く、風は冷たい――2309年の今日、世界は一見、静かに動いている。
太陽は訓練区画へ続くブリッジを渡った。歩くたびに足音が低く吸われ、床下のパイプが応えるように微かに振動する。
ガラス越しに覗くと、巨大なファンが四基、銀色の羽根を閉じたまま待っている。高さは三メートル。訓練生を空中で揺さぶり、姿勢制御の技術を叩き込むための送風機だ。
機械翼の格納ラックには番号が並び、彼の割り当て――CP118――のタグは、昨日よりも手前に引き出されていた。
(待つのは、もうやめた)
心の中で言葉が形になる。言った端から、心臓が少し強く打つ。自分の熱が、胸の裏で確かに燃える。
それは勇気とか、根性と呼ばれるものでいい。科学で書けない部分が、今はあっていい。足りない計算は、あとで翼が埋めてくれる。
訓練区画の扉が開くと、空気が変わった。金属とオゾン。乾いた床。壁のパネルが、深部体温と環境温度、ファンの回転数の目標値を淡い色で表示している。
「来たか、赤点代表」
コーチの声は短く、冷たい。温度を下げるための声。必要なことだけを、速く、確かに届かせる声。
「はい」
返事は自分の喉で出したのに、ひと呼吸遅れて響いた気がした。緊張が体内の配線を細くする。太陽は軽く首を回し、肩を落とす。
格納ラックから機械翼が引き出され、背中へと運ばれる。磁場の錠がひとつずつ噛み合う。骨の奥に、冷たい輪郭が馴染んだ。
「深部温度、36.7。外気、14.1。ウォームアップ三分」
翼の声がインカムに落ちてくる。いつの間にか整備ピットの上段に上がって、タブレットを覗き込んでいた。
「すぐに風が来るのか?」
「来る。今日は"殴る"設定」
「了解」
熱は集まる。奪われる前に、こちらから先に。胸の真ん中で、鼓動がひとつ深くなった。




