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付箋

作者: 御影鼬宇
掲載日:2025/09/10

白日は疾うに昇りきって、砂浜に斃れた泥人形みたいな彼を嘲笑うように焦がし続ける。やわらかい黄砂の上で四股をめいいっぱい広げて、瞼の裏をめぐる赤い血潮と赫い光の間で黒目を行ったり来たりするたびに、身体の内側から快く痺れる。絶えず肌をくすぐる無邪気な砂塵、彼の足先に触れる丁度手前で上下運動を繰り返す細波、白く泡ぶいては刹那にはぜていく小さな断末魔。 そのすべてが彼であって、また、彼がそれらすべてであった。先ほどまで彼の周囲の砂を蹴散らし蹴散らしかき混ぜていた人の群れは蜃気楼のごとく霧散し、その声の震えや汗の匂いを閉じ込めた熱気だけが、彼にまとわりついて離れなかった。

 彼は想像するーー 火照った身体が砂にぶくぶく沈んでいき、蛋白質の分子へと解体し、砂の最深部まで水のようにするする入り込んでゆく。生きとし生けるものが、有機物と無機物の結婚に嫉妬する。砂浜中の小石が赤旗を振って、晒された彼の穴という穴から侵入してくる。腹も毛細血管も小石でいっぱいになり、逆流せんとする小石の帯びた熱をひたすら受け取ってゆく。その温かみと押し潰されるような静寂に彼は涙を流す……。口内に溜まった砂を白い腹に吐き出す。それに混じって翡翠に似た宝石が一つ、飛び出した。彼はそれ以上美しいものをこれまで見たことがなかったーー これはきっと腹の中で磨かれたんだ、しかし、あまりに綺麗だからもう人は放っておかない、僕のせいでこいつは砂浜で孤独でいるほかなくなったんだーー 彼は宝石を両手でそっと抱えると、誰にも見つからないように海へ放り込んでやった。たゆたう鋭いきらめきに彼は恋をした。

 薄く伸びた波が彼の蒼白な足先を時々優しくなでては引いていく。もう満潮が近い。明日の到来に備えて、丸っこい太陽は地平線の下へせかせか潜っていく。硝子を散らした漆黒のキャンバスの上で、両端を尖らせた月は彼へ威嚇しているようだ。水平にしわ寄せる黒い塊がべったり眼前に横たわり、針金のような月光を吸い込んでゆく。彼も無意識の領域を刺激され、一歩ずつ前へ前へ引きずられてゆく。彼の耳の奥の方で蠱惑的な音が響く、どこか遠くて近い場所から……

 

 小気味良い波の音で目を覚ました。彼はまだ海辺にいるようなまどろみの中で上体を起こす。半分だけ開けた瞼の隙間から、やわらかく白い光の糸がじんわりと入り込み、脳を縫っていく。昨日遅くまで会議資料を作成していたためか、身体が異様に重く、身体の節々がこすれるように痛い。睡眠の重要性をあれほど強調しておきながら、労働という名目の前では睡眠時間を削ることを暗に奨励する、現代の常識を呪った。彼の勤め先が中小規模の寝具メーカーで、会議資料が枕の新製品開発についてのものであったというのは、全く皮肉である。平日の決まりきった動線をなぞって一度上体を起こしたものの、まだ残っている足先の温もりと脳が痺れる快楽に身をゆだね、彼は再び掛布団を頭からひっかぶった。背中全体からがさがさという音が響き、もれ差し込む光がちらつくものだから、あの砂浜で覚醒する夢を見ているのではないかと疑った。しかし、掛布団と彼の身体の隙間になにやら四角い鱗のようなものを認め、それが自分の身体に沿って並んでいることに気づいた瞬間、彼はようやく耽美な夢から覚め、今度は悪夢に突き落とされたような気分になった。

 頬を抓る暇もなく掛布団を上に蹴り飛ばして、縺れた足を引きずる形で床を這って、部屋の片隅に立て掛けた銀縁の全身鏡に、自分の変わり果てた姿を見た。飛び出した興奮で紅潮していたが、それも束の間、一瞬で血の気が引いていくのが分かった。小指の第一関節から頭頂部まで、夥しい数の付箋が彼の身体を隈なく覆っていた。付箋の大きさや色形はばらばらで、その一枚一枚に黒マジックのゴシック体で言葉が記されていた。そこには、「ろうそく」のようなごく短い名詞から、「明るい」のような形質の概念に関する言葉、さらには「ありがとうございます」などの日常的な挨拶まで、実に多様な言葉が集まっていた。肌に直接貼ってある付箋の上に、朝顔の葉のように次の付箋があるというのが幾層も繰り返されて、目の部分を除いて、身体と分かる部分は付箋に覆われて一つも見えなかった。見慣れた自室を背景にして、人型の不格好なモザイク画から飛び出したような塊が在る違和は、如何ともし難いものであった。桃色やら青色やら、色彩こそ豊かであったが、骸に蛆が湧いているのを見るような気味悪さが、胸のあたりに強く押し寄せてきた。

 ふと我に返り、この事件的出来事のどこから手をつければよいものか、彼は頭を悩ませた。まるで取りつく島がない。とにもかくにも、この超常現象の原因を探るところから始めるべきであろう。あまりに度を越して非日常的なものに直面すると、その説明を放棄してかえって冷静になるところが人にはあるようだ。彼は戸棚から白いコピー用紙を数枚引き抜いて、使い慣れた鉛筆で考えうることを殴り書きしていった。これは、物事を考える時に、殴り書いたものを清書し、タイトルをつけて保存するという彼の習慣で、彼自身を落ち着かせる儀式でもあった。彼にとって、次々と移り変わっていく思考が、坩堝の中で沈殿しては浮上していく居心地の悪さには耐え難いものがあった。

 殴り書きにしては蛭みたいな情けない字で、「ビョウキ?:」と書き始めた。何世紀遡っても、目覚めたら身体から付箋が湧いて出てくるという奇病は、どんなに偉大な医学書にも登場したことはないだろうし、かといって、神話とするにはなんだか地味で、恐らく何の教訓も得られないだろう。誰かの悪戯という線も考えてみる。しかし、常日頃誰かに恨まれていることに思い当たる節はないし、第一、隣人の無邪気な悪戯や復讐にしては、前衛的で手が込みすぎている……

 そこまで考えたところで、この付箋地獄にどんな理由付けをしても、また、それが真実であるとしても、無意味だと彼は悟った。そうしたところで付箋は消滅しないだろうし、仮に元の身体に戻ったとして、付箋によって日常の連続感を破壊されたことへの動揺と不安は消えないままだ。しかし、彼は付箋地獄の原因を考えずにはいられなかった。何も分からないまま、今回の事件が示唆するものの大きさに囚われて、ピンに刺された昆虫標本になったような底知れぬ恐怖を感じていた。殴り書きをくしゃくしゃにして寝巻のポケットに突っ込み、思わず裸足のまま寝室から出た。冬場の廊下から立ち込める冷気で幾分か冷静になり、一人暮らしをするにはもったいないほど広々としたキッチンで、彼はいつものようにガスコンロのつまみをひねって湯を沸かす。朝起きてお湯を沸かすという数年間続けてきた彼の習慣に縋り付いていなければ、この異常事態を飲み込む前に気が違ってしまうだろうと彼はおびえていた。今すぐ、この湯を身体中の付箋にぶっかけて何とかしてしまいたい。しかし、突如繁殖したらしい付箋を、通常の付箋と同様に扱ってよいものだろうか、彼はふんぎりがつかなかった。驚くほど乾いていた喉を白湯で濡らす。動悸と足のすくみが少し落ち着いてきた頃、彼は付箋地獄に正面から取り組むことを決心した。しかし、実のところ、それは勇敢さからくるものではなく、むしろ恐怖の裏返しによる反射的な対抗心によるところが大きかった。

 

 彼の失踪後、家宅整理の過程で彼のパソコンデータから、手ぶれがひどい数枚の風景写真と、以下のような文書が発見された。


             ※      ※      ※


『身体を覆う付箋について』 20XX年2月15日(水)自宅にて 

  更新日時 2/16/02:15

 朝目が覚めてこれほどまでに混乱したのは、妻が「探さないでください」とだけ置手紙を残して消えたあの朝以来だろう。今でも、あの干からびた蚯蚓のような弱々しい筆跡さえ、僕の心臓をねじるほどの力を備えている……(中略)……いや、この文書で書きたいのはそんなことではない。この付箋の発生と僕についての因果律に納得し、日常性を付与して一刻も早く安堵したいがために、文字に起こしているのだから。 変に付箋をはがしては何か取り返しのつかないことになりそうで、手に纏わりついた付箋も剝がそうとおもってもなかなか手ごわい。全く、気味が悪い……


 <身体を覆う付箋についての基本事項と考察>

・付箋は身体を隈なく覆い(露出程度に関わらず)、その大小や形状は身体部位について特定の対応規則をもたない

・付箋の素材は、一般的な市販の付箋と相違なく、水に関して脆弱で、糊の部分もそれほど強力なものではない

・各付箋には物の名前、一般的に名詞に分類されるものが一つずつ書かれており、「アイロン」や「みかん」といった具体物に対応する名詞から、「ソリューション」や「資源」といった抽象概念ならびに類型化された語群の分類に関する名詞まで、様々な名詞が書かれている。

・Aと書かれた付箋を物Bに貼り付けると、Bが在った場所には物Aが現象する。なお片目を閉じるとそれは元のBの姿に「見える」が、現象した物Aに一度触れてしまえば、もはやBの像は見えなくなり(私以外の他者についても同様の視認様態であることは確認済み)、付箋も消えてしまう。

※付箋を貼ることによる物の現象と消失については、付箋を貼った主体と客体の関係性及び、客体の性質に起因する制約の存在等についてはまだ調査の余地がある。

・この付箋現象に関連するかまだ分からないが、特筆すべき変化がもう一つあった。部屋中の物の一つ一つに、調整つまみのような突起と、左端に0、右端に100と書かれたゲージのようなものがあり、そのつまみを回すことで0から100までの値を設定できるようだ。いくつか試してみたが、暫く経っても外観について何の変化も見られなかった。現時点での最重要課題は付箋と僕の因果律の究明であるから、調整つまみの問題は後で取り組むこととする。


 <追記>試しに、「みかん」の付箋を自室のアイロンに貼り付けてみた。しばらくアイロンを見ていると、にわかに信じがたいことが起こった。確かにアイロンが置いてあった場所に、本物のみかんが積み上がっていた。とうとう僕の目まで狂い始めたとおもったが、そのみかんを一つ手に取って、それは確信に変わった。人一人の認識なぞ曖昧なものだから、みかんを胸に抱えて隣人に対し、「これは何ですか」と傍から見れば素っ頓狂なことを聞いて回ってきた。恥を忍んだ甲斐もあって、眉を顰めながらも彼等全員が「みかん」と回答したから、帰納的ではあるけれども、一応はみかんであることについて一定の確からしさを認めてもよいだろう。


           ※        ※        ※

 

 彼は一度パソコンを閉じ、凝り固まった目を冷水で解すため洗面台へ向かった。あらためて紙に溺れた自分の姿を見て、ぞっとした。両目だけが鋭く電球の明かりを反射している。目出し帽を被った人間というのは、見られることを一方的に拒絶し、無条件に見る権利を主張するような傲慢さが否応なしに認められてしまうだけ損だと思った。しかし、今の彼にとっては損も得もあったものではない、そんな尋常な尺度で割り切れれば必死に研究ノートをとったりはしない。付箋を纏った上着の袖を捲り上げても、更に地肌に付箋が直接貼ってあるのだからたまらない。相変わらず手先までびっしりの付箋が煩わしい。また、付箋が繁殖するという奇病に他でもない自分が悩まされる不条理への苛立ちもあって、親の仇を見るような形相で右手首から肘にかけて思い切り搔きむしった。糊がついていた部分と、掻きむしって赤くなった部分の区別がつかない頃になって、しみ込むような静かな痛みが皮膚を走った。足元へ視線を移せば、繁殖期を迎えたような勢いで、付箋が足先から胸に向かってよじ登ってくる錯覚に襲われる。引きずり込む亡霊、胸を食い破る蚯蚓、血に濡れた紙の心臓……。 思わず、彼は正面を見たが、自分の顔、いや、顔だったはずのものを鏡の中にはっきり認めたとき、彼は半ば嘔吐していた。そして、その不快感を超える屈辱。こいつはいったい誰だ、私も付箋を貼られて私以外になってしまったのか。付箋の先に私の断片は残っているのか……。

 顔を凝視する間に、付箋地獄に落とされた自分の容姿に少しばかり慣れ、鎖骨から咽喉仏あたりにかけて、一枚だけ特別大きい付箋があるのを見つけた。なぜか密林地帯をかき分けて進んでいくような興奮を覚え、それに書かれた漢字四文字を見たとき、彼は声をあげつつ思わず口を塞いでいた。なぜ、反射的に口を塞いだのかは彼にもよく分からない。彼の名前など、記名の機会があるたびに思い出し、目をつむっても書けるほど指にまでしみ込んだ文字ではないか。ただ、その声を聞かれた瞬間に黒く伸びた手が彼の口から内臓をまさぐって、魂を引っこ抜いて鏡の中に消えてしまうような感覚を覚えていた。あたかも、その付箋が剥がれてしまったとき、彼自身も掻きむしった手腕の付箋よろしく、ふっと息を吹きかければ、ぼろぼろにほぐれて戻ってこれないような気がした。

 

 足が縺れてうまく走れない、地面がマシュマロのように踏み応えがないのか、自分の足があらぬ方向へ曲がっているのか。何度後ろを振り返っても、奴は消えていない。奴はしつこく追いかけてくる。その白いずんぐりとした巨体からは想像もつかないような速さで迫る、跳ねるたびにぼむぼむという鈍い音を立てる、のっぺらお化け。にゅるりと伸ばされた触手が彼の背中を引っ張る。そのまま、のっぺらお化けは彼の上に覆いかぶさって、窒息させるだけでは飽き足らず、二本の触手を器用に人間の手に似せて分化させ、彼の首を絞める。彼の必死の抵抗空しく、それを楽しむかのようにのっぺらお化けは彼の上で弾み続け、とうとう彼は一枚の紙になってーー

 息を吸うと同時に吐くような窒息感で目が覚めた。心臓がいつもの数倍速く叩いている気がする。埃や毛玉で満ちたタオルケットに顔をうずめながら、洗面台の前で、ちょうど体育座りのように体を縮ませていることに気づくのに少し時間を要した。太古から連綿として続いているような、非日常に直面した混乱とまどろみのせいで、現在午後二時であるいう事実から、朝から辿ってきた出来事を時系列に整理しなおすのにさらに時間がかかった。どうやら彼は一時間ほど気を失っていたらしい。重い腰を上げ、少し震えている膝を支えながら、彼は立ち上がった。

 洗面台の蛇口から冷水が出たままで、跳ね返って鏡に付着した水滴に映った歪んだ彼は、なんとも頼りなかった。首元の赤みがかった肌が露出し、鎖骨近くの黒子まではっきり見えた。彼の名前が書かれた、あの大きめの付箋が剥がれていたのだ。しかし、それが剥がれたのが、洗面台の前でがむしゃらに首元を掻きむしりながら卒倒する前なのか、夢の中でのっぺらお化けに抵抗したときなのか、はっきりしない。彼も、その大きな付箋が失われたことが意味することの全貌は、それがあまりに象徴的であろうがために想像できなかったし、何より、それが剥がれた後にもこうして依然として生きているのだから、自分の生死に直接的にかかわる問題ではないと確信し、楽観的な境地に至っていた。自分が立っている位置から半径一メートルを見渡した程度で、名前入り付箋の行方を捜すのに躍起にはならなかった。せいぜい、偶然風で舞ってきたくっつき虫が再び草叢に落ちたくらいにしか考えていなかった。首という示唆的な場所に在って、自分の名前が書かれた付箋という、恐らく付箋現象と彼を結ぶ最大のピースが、自分の生死に関わらないであっけなく剥がれたことから、その因果律への彼の関心はもはや薄れてしまった。残りの付箋も大した問題、少なくとも自分の生死に関する問題を引き起こす代物でもないだろうとたかをくくってしまっていた。どちらかといえば、付箋を貼り付けたままの風呂はどれほど不快なのだろうといった、些末な現実的問題が気になり始めていた。

 洗面台の前に散らかった数枚の付箋と、ついでに床に落ちたごみを少し拾い上げ、くしゃくしゃにしてゴミ箱へ放り投げた。しかし、付箋と自分の因果律から目をそらしたことで、物から物への変換という魔法の作用をもつ付箋の魅惑的な側面が突如思い出された。魔法の紙が今、全身を覆っているという事実に彼は興奮を抑えきれなかった。大抵の場合、魔術の類に心をとらわれた者は、その技術的問題に蓋をして、まさしく魔法のような輝かしい結果のみを享受することに貪欲になり、最終的に自身にも制御できない転換点を迎えて破滅するのがおち、ということは彼もよく理解していた。しかし、今回の魔法の付箋は、魔法のステッキときらめく煙といった、初めから被説明項としての現象を想定していないものではなく、紙、物A、物Bというあくまで物質の技術的問題に還元できる範疇にあるものであり、現時点の高分子化学や認知科学の理論で説明できないというだけで、将来的に説明されうる無機物間・有機物間変換の単純モデルの延長線上にある現象であるはずだ。ゆえに、破滅するどころが、その対極にある進歩への貢献なのだ― 彼は自分が納得できる口実をうまくこしらえて、楽観的になるのが人一倍得意であった。

 午前中とはうって変わり、彼は腰を据えて実験に取りかかることができた。対象物を選択する際の基準は特になかったが、彼の支障が出ては不便なので、とりあえず普段から在っても彼が滅多気にかけない掛時計に、「粘土」と書かれた付箋を貼ってみた。午前中の実験結果と同様、掛時計はもはやそこになく、角の丸い灰色の油粘土がずんと柱から床に一直線に落下し、全身をただ衝撃に任せて、四方八方に小さな破片を飛び散らせながらぐにゃりと潰れ、もう動かなかった。彼はそこに少しばかりの気味悪さを覚えたが、不可逆的な油粘土の変貌にある種の美しさも認めた。油粘土に触れる前に片目でそれを観察すると、今在る粘土のイメージと掛時計の記憶が混ざってゆく。粘土の心臓のように時計の秒針が正確に時を刻むという滑稽な大道芸が眼前で演じられていた。不可逆な粘土と可逆な時計、慣性の法則の下で静かな粘土と動き続ける時計、相反する要素が共存する不安定さに垣間見える一瞬の煌めきが、より一層彼から現実感覚を奪っていった。

 彼は駆り立てられるように、付箋を次々と剝がしては貼り付ける作業に熱中した。気が付けば午後5時、輪郭が定まらないツギハギだらけの靄のような物が部屋にあふれかえっていた。彼に対する彼等の視線はどうも悲しげで、かつて調和の中にあった自らの機能と容姿の対応を、まるで純粋な好奇心に任せて飛蝗の頭を胴から引きちぎる、死を知らぬ子供のような表情で滅茶苦茶にしてしまった彼を憎悪するように、異様な死のにおいが部屋に充満していた。その死の部屋の中央でじくじくする気持ち悪さを耐えながらも、彼は孤独の化け物を生み出した引け目と、それを覆い隠す恍惚とした安全な非日常への恋の狭間で、足が地につかないような感覚に襲われた。かのフランケンシュタイン博士のように、死体を組み合わせて意思を伴う有機物を作り上げていれば少しは違ったかもしれない。しかし、無機物の組み合わせという枠組みでは、彼に歯止めを利かせるほどの倫理は存在しないうえ、何といっても無機物には、彼に復讐心を燃やそうともそれを実行する脚力がないのだ。

 これ以上、死の部屋に居ては息が詰まりそうで、彼は灰色のカーテンを乱暴に左に引き、窓を開く。しかし、風を入れても、死の香りは沈殿したままずっしりとそこに在る。煙草に火をつけて自分を落ち着かせようと努める。

 2月中旬にしては生温く湿っぽいそよ風であったが、先ほどまで付箋に覆われていた素肌に直接吹きつけるものだから変に涼しく、とりわけ糊が残った部分はくすぐったかった。煙草の白煙と潮風がダンスを踊り、刻一刻とゆらめく薄いヴェールにふれる心地よさは、彼を幼少期の儚い靄へといざなった――見えるものだけが在るもので、何も考えず、砂を踏みつける心地よい痛みも、透き通った水が足の指の間を撫でていく爽快感を一緒くたにして、代替できない感覚と血の湧きたちを、全てありのままに感じる。海は自分で、自分は海なのだ。海が在るだけで私の存在を指し示すことができるのだ。

 日がすっかり傾き、底冷えが激しくなってきたので、窓を閉め切りカーテンで覆うと部屋はもう真っ暗であった。照明をつけると、付箋だらけの空間の不気味さが一層際立つ。進学直後の制服のようにだぶついていたはずの名詞が、いつしか物にぴったり密着して根を張り、内部まで食い荒らしている。彼自身と物をつなぐ記憶と感覚の糸がじりじりと細くなり、ついには健忘症患者のように、自分自身の錨を、自分にとって真実らしい時空間におろしておくことができなくなる底知れぬ不安から、彼は思わず前後左右に絶えず揺れていた。彼の部屋はもはや、点照明の角度も相まって、煌々としたツギハギの化物達の饗宴場になっていた。ここまで大げさになってくると、自分の記憶が独り歩きをして、物に魂を植え付けながら漂っていると考えるほうが、むしろ彼にとってしっくりきた。それほどまでに記憶と幻覚の区別がつかなくなっていたこそ、部屋の奥にどっかり腰を据えている紳士風の犬の置物が咳払いをして、確かにこちらをまっすぐ見て彼に話しかけてきた時、彼は不自然なほどに落ち着いていた。

「なんだい、じっと見て。ああ、きっと、君は勘違いをしているな」

「別に、君が幻覚の産物だとは思ってないよ、確かにさっき『タキシード』という付箋を君に貼り付けたのを覚えているんだから。」

「違う違う、君は今、ひとりでに話しかけてくる摩訶不思議な置物を見て、自分がそこまで驚いていないのを、不思議に感じているね。しかし、儂に言わせれば、君の淡白な反応は至極当然なものなんだよ。実際のところ、儂らは君らよりもずっとおしゃべりなんだよ」

 それに呼応するように、ワイングラスが細い足を器用に揺らして、木製の収納箱から這い出て、こぼれ落ちながら、

「そうだそうだ、君は君を語っているだけで、感じていないんだよ」 そう言い残して粉々に砕け散った。ダイヤモンドを砕いても、こう美しくはなるまい。

「そんなはずはない、だって僕は僕なんだぞ、君たちとおんなじで、つまり物が物であるように」

「詭弁だな。「ワイングラス」君、いや今は「硝子」君だったか、まぁ、それは君らの裁量か。ともかく、さきほど「硝子」君が言ったように、君たち人間は言葉をうまく操りすぎた結果、今になって、慣れ親しんだ言葉に裏切られておるんだよ。」

 突如、全部莫迦々々しくなり、彼はまだ云々喚いている犬の置物を両手で鷲掴みにして、頭上まで高く振り上げて床に思い切り叩きつけた。四散した小さく鋭利な断片が足の親指に突き刺さり、人間らしい赤い血が滲む。彼は、保険証やら許諾書やらが乱雑に詰め込まれた戸棚をまさぐって救急箱を探しながら、もはや動かない犬の置物とワイングラスの破片を交互に見ては、足先の痛みより数段たちの悪い絞るような痛みが、じんわりと胸のあたりを埋めていくのを感じて、歯ぎしりせずにはいられなかった。

 昨日の雄弁とは裏腹に、カーテンの間隙から差し込むやわらかい光が腹立たしく思えるほどには、彼も参っていた。早朝、鉛のような瞼を開けた時にはいつものベッドの上で丸まっていたから、一応、彼は夢へ逃げこんで、なんとか日付を跨ぐことができたらしい。しかし、これほど非日常的な体験が続けば、もはや起床から就寝までの当たり前の日常が、非日常を待ち受ける一時の休戦状態と思えてくる。慰めの海辺に寝そべっているうちに、付箋で溢れた部屋のベッドにいる悪夢を見ていると確信できれば楽だったものの、付箋が溢れる前の部屋と今の死の空間がどこか似ていることを、曖昧な記憶を根拠に認めてしまっている自分をただ呪うほかなかった。ベッドの上で鬱々としながら、昨日の彼等との討論を反芻してみたが、ただただ時間を純粋に浪費するに等しかった。ついに、彼はどうしようもなくなって出勤の準備に取り掛かった。その時の彼にとって、出勤は目的ではなく、あくまで日常性を快復するための手段であった。そもそも彼が生きがいを見出すには、その仕事はあまりに色を欠いていた― 所謂世間なるものを渡り歩く通行手形としての美辞麗句と共通言語パッケージを使いこなせるように、上司が不自然な笑みを張り付けながら、業務用の青バケツを湛えた「言葉」クッキーを僕の口にがさがさと流し込むことが常識になっていること。通勤中に見かける人間は皆、起床から帰宅までを一定周期とする、灰色の原子のように大局的には規則的に運動していること。かれこれ二年間の勤務生活の中で、彼が見出したのはこの二つである。別段、その考えは、彼を革新の道へ向かって奮い立たせたりはしなかった。彼という原子が一つだけ反乱分子になったところで世間の側は変わらず進んでいくという諦観もあったが、何より、彼には心の海と窓から覗く海があったから。彼は、たとえ自分が原子のような存在であったとしても、自分は確実に世界に在ることを疑いもしなかった、灰色の世界に一筋の青黒い線を引いて自分と海を囲うことによって……。

 腕時計は午前7時30分を指していた。少しよれた白シャツに袖を通し、午後の会議資料を斜め読みして簡単なスケジュール調整をした。出勤用の黒鞄にパソコンと筆記用具を詰め込んだところで、最近新調した黒カバーのメモ帳が見当たらないことに気づいた。几帳面な彼は、使用したものは元あった場所に戻していたから、物を失くしても大抵の場合すぐ見つかるのだが、今回ばかりはあの付箋地獄という事件的出来事の当事者になってしまったために、最後にいつどこで使用したか、全く思い出せない。しかし、彼がメモ帳を使うタイミングといえば、上役や同僚からの言伝をメモする時か、調べ事の最中に思いついたことを書きなぐるようにメモをする時のいずれかである。今日が付箋地獄に見舞われて以降最初の出勤だから、考えられるのは後者である。確認のため、パソコン内のデータファイルを検索した。『身体を覆う付箋について』の文書データの更新日時が16日の深夜2時頃になっていた。おかしい。付箋の調査自体は15日の午後に一旦終わりにして、15日の夜の置物達との討論の後、そのまま翌朝六時頃まで寝ていたはずだから、もし本当に16日の深夜にデータファイルが更新されているのなら、当該時刻に彼以外の何者かがパソコンを開いたことになる… 彼は混乱する。いつもの彼なら、施錠の有無や妻帰宅の可能性といった極めて現実的な問題から出発していただろうが、このときの彼は、とても信じがたく恐ろしいが、状況証拠を挙げれば最も合理的な結論を、直観的に導いていた。彼の名前が書かれた大きめの付箋が何らかの拍子にメモ帳に張り付いた、という結論である。置き忘れたメモ帳、首元から剥がれ落ちた名前入り付箋、そよ風… この際、それがいつどのように起きたかは彼にとってどうでもよく、データファイルの内容を見たもう一人の「彼」が行方をくらませているかもしれないということだけが重要だった。追い立てられるように身支度し、黒鞄をがさつに振りながら廊下を走り、玄関で革靴に足を滑り込ませる幕間に、彼は冷静さを取り戻し、思い留まった。直観はあくまで直観の域を出ない。もう1人の「彼」が、平日の彼と同様、沈香を漂わせるあのプラタナスの並木道を横目に、勤め先のゲートをくぐり、今頃はデスクに向かっているとでもいうのか。いや、いくら彼の名前を与えられたところで、「彼」が彼と行動原理を同一にするというのは自明ではない。生まれたての「彼」には過去というものがない。静物から動物に変身した混乱と、ただただ未知に向かう衝動のままに、「彼」は手を大きく広げて走っているのかもしれない。そもそも、メモ帳が「彼」になったという前提で追跡することに問題はないのか。第一、偶然をいくら論理立てて整理したところで、必然や事実には歯が立たないのである。想像すればするほど、彼の身体は足元からふにゃふにゃと液体になって混沌へ沈んでいき、無限の可能性にひらかれた非現実から目を背けたくなる。こういうことは本来人間には向かない作業だ。脳の真ん中あたりが熱く、目の奥が波打つように痛い。こういう時は日常的な風景に埋没して、身体が溶けて眼球だけが元の位置にある定点カメラのようになって、純粋に時間を浪費するに限る。そうするには、階段近くの小窓を開けるだけで十分だと、彼は経験的に知っていた。視界は周辺から黒々と染まっていき、出勤前で疲労感がない身体はかえって浮つくような不快感でいっぱいだった。小窓に駆け込む。摺りガラスにじんわりとした青を認めて、家にいながら帰ってきたような不思議な安堵感がこみ上げる。しかし、窓を開け、凍てつく潮風が彼の頬をかすめた時には、胸のあたりに詰まっていた綿あめのような感情がすべて溶けて流れ出て、付箋となって彼を再び、厚く、覆い隠していた。彼の胸の空洞で風が暴れてなんとも物寂しい音楽を奏でていた。彼を寂寞感が支配したのではない。むしろ、彼はその時、こみあげるものを何も感じていなかった。砂のざらつきも、波の囁きも、身体の火照りも。退屈そうに繰り返される灰色の泡沫の産声と小さな死。轟轟とうなりを上げる黒い水塊と、コンクリートの砂地と、雲の穴すらない能面のような灰色の空が、互いの領域を奪い合って機械仕掛けの綱引きをしているような、なんとも滑稽な風景-あのツギハギの死の風景-がそこにはあった。しかし、それを彼は海と砂浜であると知っている。知っているが、初めて見る絵画を前にしたときの緊張感と無力感があるだけで、それを彼がよく慣れ親しんだ、夢の中では一体となっている海とはどうしても思えなかった。そう思い込もうとすればできたであろうが、やってみたところで自分の空洞を埋めることはできないと、彼は直観的にわかった。ほとんど記憶喪失に近いむずかゆさだった。知覚してそれを呼ぶことはできるのに感じることはできない虚しさ。自分の海の記憶が失われたのか、そもそも自分が見てきたものは果たして本当に海であったのだろうか―彼にとって、心の海の喪失に耐えるためには、自分自身を疑う他なかった。自分は広大な水を求めて地球にやってきた火星人で、海の魅力にあてられるうちに地球人としての記憶に上書きされたのだろう、あの付箋地獄は遥か彼方の故郷に残った仲間たちが出した警告ではなかったか。陳腐なSFの方が、彼がこれまで積み上げてきた人間らしさより、いくらか真実らしく思えた。もはや彼は、それが今更どうしたというのだ、という諦観まじりの爽快な気分になっていた。付箋地獄に始まる摩訶不思議の前では、信じることと疑うことは等価で、必然も偶然も同義だ。だったら、今息をしている自分は、確かに心に本物の海を飼っていた自分であるという、否定する根拠のない事実を信奉しても、さして問題ではないじゃないか。いつのまにか、彼は少し伸びすぎた爪を掌に食い込ませていた。その痛みがなぜか快かった。彼は胸の空洞を湿らすように、冷たく粘っこい潮風を思い切り吸い込んだ。彼が大げさなほど咳き込んだ。それを嗤うように、付箋がかさかさと揺れた。

 彼が会議で出席する予定の得意先行きのタクシーに乗り込んだのは、出勤の定刻から1時間ほど経ったあとだった。彼は、遅刻の口実として、通勤中に自動車が故障したというありきたりなものを選んだ。付箋が身体から湧いてきたことも、彼の心の拠所を喪失したことも、平日出勤という、尾を加えた蛇のような切れ目のない彼の歯車を止める口実にしては、あまりに日常に馴染まないものだった。それを上役に伝えたところで、酷い高熱による幻覚症状としてあしらわれるのが関の山で、彼としても、時間の針を前に進めようと躍起になっているあの連中に、彼の悲劇に寄り添ってくれる人間がいるとは思えなかった。共感するふりを続けられた挙句、付箋男として笑い種にされたら彼の面子は丸つぶれである。だから、彼は平然を装っていつもの歩幅で闊歩し、得意先の受付嬢に自分の名前と要件を堂々と伝えた。気味が悪いほど赤が映えた厚い唇をうねらせながら、受付嬢は、いつもの事務的な口調で対応した。その単調さとは裏腹に、彼女の返答は白痴のような間抜け顔ときりっと整った姿勢とがアンバランスな着せ替え人形のようにしてしまった。「彼」が確かに実在することに中心に、コンパスを回すように自分の取るべき行動を考えられることへの安定感と、「彼」を追えば追うほど自分の足場がパズルを解体するようにじわじわなくなっていく漠然とした不安定感が入り混じって、しばらく当たり障りのない言葉をいくつか吐き出してみたが、どうにもならない。その様子を見かねた受付嬢が来客リストを凝視しながらもう一度彼の名前を尋ねたとき、言われぬ屈辱感に背中を蹴られるようにオフィスを後にした。去り際、短く吐き出す彼女の苦笑が聞こえた。何も、不審者対応時のさぐるような受付嬢の視線が耐えられなかったのではない。ついさっきまで、彼が彼の言葉で埋め尽くす予定だった、中身の空っぽな「彼」が、いとも簡単に、少なくとも過去を背負っている彼と同程度には、社会的関係に溶け込んでいることへの虚しさがやりきれなかったのだ。きっと「彼」と得意先の社員達は何の問題もなく慣れ親しんだ挨拶と儀礼を済ませ、つるつるとした横文字で溢れた議論に花を咲かせ、「彼」の貢献を箇条書きにして上役に報告しているのだろう。彼等にとって、いや、社会の大部分にとって、記号に等しい「彼」と彼の区別はどうでもよく、相手方に発注した荷物が注文通りの時刻に到着して、それが、聞き慣れた言葉を整理して吐き出してくれる機械であるということだけが彼等の関心事である… そう納得して鼻で笑うことが、度重なる不条理への彼なりのせめてもの抵抗であった。

 突如、乾ききったビル風が彼の目の前を堂々と横切り、彼は思わず目を閉じる。彼をそのまま社会の深淵に押し込んでいくような勢いで、吹き続ける。しばらくして目を開けた瞬間、彼の視界が色で満ちていた。水槽の境界を知らぬ金魚のように、彩り豊かな付箋の紙吹雪が灰色の世界をゆらゆらと満たしていた。それは不気味でありつつどこか妖艶な踊り子を思わせる、皮肉にも人間らしいもので、彼はすっかりその虜になっていた。空から道路付近へ視線を移すと、上空で舞っていた付箋を集めたこぢんまりとした塊が、三葉虫のように悠々と道路を這っていた。その塊が、さっきまで地上を満たしていた人間であることに彼が気づくまで、あまり時間を要さなかった。よく見ると。彼等の外殻には付箋以外にも、ポピュラーデザインの折り込みチラシや、笑顔のタレントがそれにおおよそ似つかわしくないポーズをとった広告紙、新聞紙などがあった。そのどれもが、付箋で埋め切れていない隙間にねじ込まれるように、根を張っていた。現実のような幻想と、幻想のような現実― 何でも描けるグレーのキャンバス、曇天に呼応するように、空間を単調な灰色に染め上げる鉄筋コンクリートの大家族、マネキンを乗せた上下線と鼓笛隊、蟻のごとく隊列をなす革靴の乾いた音と透明人間、笑う広告、冷たいビル風に吹かれて飛び散る付箋の踊り食い… どこも見ずにすべてを見ているような虚ろな目で、彼はこの奇祭を遠くから見守っていた。時折突風で、付箋やチラシが彼の全身のあらゆるところに張り付いては退いていったが、なるように任せていた。灰色の世界の住人として、自分と風景の区別がなくなってきた頃、彼は、人間の誰もが付箋地獄の渦中で諦観に浸る他ないという共通の宿命に、禍々しい黒渦と、そこに差し込む一縷の光をみた。その瞬間、思わず彼は駆け出していた。向かい風がますます壁となって彼の足を残酷なまでに掬ってくる。足が縺れる。付箋。重力。花吹雪。咽喉の永久の渇き。三葉虫… 目の前に舞ってきた広告紙のタレントと目が合った。彼はそれを鷲掴みにして唾を吐き捨て思い切り踏みにじってやった。

 四股の不気味な連動とは裏腹に、彼の精神は一本の槍になっていた。還るべき場所はもう分かっていた。もう一度、あの「海」と対峙しなければならぬ、触れて越えなければならぬ。彼は、「彼」を追跡することにもはや救いはないと気づいていた。「彼」が担いでいった記憶やら感覚やら、ともかくその主体性を快復したところで、その主張が意義をもつ場所は、はじめからどこにもなかったのである。彼以外にとって、彼が代替可能な原子であることは変わりないのだから。

 自国の王を匿う砦が、戦という明確な目的をもって遠征に駆り出される兵士に限って、初めて拠点という意味をもつように、自宅というものは、ある目的を果たすために出掛けた者に限って、戻るべき場所という意味を持つ。出掛けた先で門前払いを食らい、これからも恐らくそうである彼にとって、もはや自宅は彼の居場所とはいえなくなった。帰路において、全身の至る所にしつこくしがみついてきた付箋を、彼は悉く両手でくしゃくしゃにして背広やズボンのポケットに放り込んできた。それらを背広ごと彼の寝室のベッドの上にばらまいた。潮風で湿っていたわりには、付箋は想像以上に燃えてくれた。引っ越してきた当時に散々考えた間取りや内装が、業火の中でその意味を手放していく姿は、あまりにあっけなかった。かのツギハギで満ちた死の部屋も同様に火に倒れ、彼等の断末魔を上昇気流に乗せて響かせながら、皆等しく、黒々とした灰となった。そこには屍に特有の、あまりに物質的な不動の調和があった。五百メートルほど奥に見える、「海」の絶えざる運動と、業火のゆらめき、そして黒炭の絶対的な静の三つだけが支配する情景を前に、彼は、「私は、このためだったのだ」、と誰に向けるでもない雄たけびをあげていた。

 付箋が濡れて、ぼろぼろと文字が滲んで溶けていく。彼は、かつて心の海とよんでいた郷愁に満ちたあの風景のことは、もはや思い出せない。しかし、それは彼にとってどうでもよいことだった。今、彼の眼前に在る砂と海だけが、彼がすべてをゆだねて、生身で触れることのできる彼の記憶そのものであった。

 その後の彼の行方を知るものは、一人もいない。


                    

 エピローグ

 

 けたたましい警報と獣の如き叫び声が各地で響き始めた頃には、もう手遅れだった。それの到着時刻は約4分後。どう策を練っても、R自治区の全員が無事に助かる道は開けなかった。そのことは救急隊員の切羽詰まった表情からありありと伝わったので、自治区の住民はほぼ全員パニック状態であった。「私はすごいから助かる義務があるのよ」、「このケースのソリューションは今すぐガバナンスをチェックする必要があるぞ」といった怒号があちこちから飛び交う。押し合いへし合いの大合戦。避難に遅れて後で死ぬか、人に押されて今すぐ死ぬか。生きてる者と死んでる者が丁度半々くらいになった頃に、黒い塊がR自治区全体を飲み込んだ。数年前から予告され、毎日のように繰り返し報道もされていたのに、彼等の相互扶助精神の退化と、情報共有ツールの完全外装化が仇となった。半年前の大規模震災で情報共有の手段が絶たれて以降、彼等の破滅は必然であったのかもしれない。

 あらかた水位が下がった頃、もはや判読不可能なまでに滲んだ大量の付箋の端切れと、皺だらけの樹枝がぷかぷかと漂っていた。その枝は、恐ろしくこぢんまりとしていたものだから、それがR自治区の住民の骸だと判明したのは、もう少し後になってからのことである。

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