嵐の前の王都
夏の王都には、大きな嵐がやってくる。
天象院が数日前から布告していた大嵐の予報は、いよいよ現実のものになりつつあった。
窓枠が風で震え、王都が抱える港からはかすかな潮の匂いが部屋に入り込んでくる。朝は晴れ間をのぞかせていた空は、今や鉛を溶かしたように重たく垂れ込んでいた。遠くで軋む荷車の音に混じって、海鳥が戸惑うように鳴く声が聞こえる。
当時寝床にしていた共同住宅の一室は狭く、土壁の隅には湿気の跡が黒ずんでいた。床には雨漏り受けの鍋と皿がところ狭しと並べられて、隅には口を開けた豆の袋が置かれている。水壺には縁ぴったりまで水が貯められていた。
窓から見下ろす通りは騒がしい。物売りは屋台の布を外し、酒場の主人は店先の看板を抱えて引きずり込んでいる。泣きじゃくる子どもを抱えた母親が駆け足で家に入り、戸板がばたんと閉ざされる。荷車の傍で男たちが声を張り上げ、嵐が来る前にと馬を急かしている。
誰もが嵐に備えて慌ただしくしているのに、この部屋の中だけはぽっかり取り残されたように静かだった。
「風が騒がしいな……。嵐にまぎれて、王都に何かが≪来る≫のかも知れない」
この天気でもどうしても洗わざるを得なかった洗濯物があちこちに吊るされた室内で、窓際に座って空を見上げ、物憂げな表情でぽつりとつぶやいてみる。
「あんたさあ。これ言うのもう何回目かもわかんないけど、そういうの恥ずかしくないの?」
「……」
部屋の隅で、同居人(より正確に言えば、王都に来て間もない頃、泊まる先もなく野宿をしていた自分を拾って、部屋に住まわせくれている命の恩人)の少女が、服を畳みながら呆れたように言った。
黙って無視していると丸めた手ぬぐいが投げつけられてきて頭に当たる。
「痛い!」
「んなわけないでしょ」
湿った空気に油煙の匂いが混じって漂う。それは王都の生活の匂いだった。
再び窓から下を見下ろす。
「なんだかお祭みたい」
故郷の村に嵐が来ることはほとんどなかったから、あちらもこちらも大慌てのこの騒ぎに、気持ちが少し浮き足立っているのは確かだった。嵐という非日常と、守ってくれる家があるという安心感が、不思議と気分を高揚させる。
「あんた夏の王都は初めてだっけ。この辺は毎年こうなんだよ」
へー、と生返事を返す。今一つ現実感がなくて、なんだかふわふわした気分。
足元から、床板を震わせるような怒鳴り声が響いてきた。板を打ち付ける音に混じって夫婦が口論する声が聞こえる。嵐の前に家財をどうするかで揉めているらしい。
「さっきから一階の方が騒がしいね」
「レイチェル、メアリお姉さんがいいことを教えてあげよう」
「知っていたかなメアリお姉さん、君よりボクの方がひとつ年上なんだよ。これ永久不変の真理だから」
メアリが窓辺に来た。窓枠に手を当てて下を覗き込むと、長い金色の髪が潮を含んだ風に揺れる。うっすらと化粧の残り香がした。
「普通、こういう共同住宅ってのは一階の家賃が一番高いんだ。水を運ぶのも楽だし、火事になったらすぐ逃げられるしね」
メアリが通りの喧騒を見下ろしながら言った。彼女がいつから、どうして王都で暮らしているかはわからなかったけれど、ここでの暮らしが長いことは確かだった。
「ほー。じゃあ、ボクらの部屋は?」
「あたしらみたいな屋根裏部屋は一番安いね。一階の半値なんてこともざら。でもこのあたりは逆で、一階の家賃が一番安い」
メアリがそばかすが残った顔を向けて、口の端を上げた。
「さて、なぜでしょう?」
「……。あわかった、みんな高いところが好きだから!」
「おばか、あんたと一緒にするなっての。正解は、嵐が来たら雨と海水でびっちょびちょになるから。一階にいるのは多分おのぼりさんかな。今頃それに気づいて大慌てってところじゃないの」
王都は海に面していて、あちこちに張り巡らされた水路が交易と人々の生活を支えている。
なるほど嵐が来れば、雨に加えて、水路に逆流した海水があたりを潮で洗い流すだろう。
下を覗き込むと、布団を抱えて外階段を上がろうとする女と、木材を部屋に運び込む男が見えた。
「へー、なるほどなぁ。でも確か一階ってちっちゃい子もいたよねぇ。後で様子見に行こうかな」
「出た出た。あんた、お人好しもほどほどにしておきなよ。おのぼりさんたちも勉強代さ。夏に水に濡れたってすぐ死ぬわけじゃないんだし」
窓の外では、樽を転がす音や、戸板を打ちつける槌の響きが絶え間なく続いていた。湿った風が窓を通り抜け、肌と服の隙間に染み込んでくるようだった。
港町でもある王都は、嵐を前に街全体が潮と木屑と汗の匂いでむせ返っている。故郷では嗅いだことのなかった匂い。
「メアリは今日仕事は?」
「こんな日に女を買いに来るやつはいないよ。みんな嵐の備えに必死だし。お互い商売あがったりで困っちゃうね」
メアリは肩をすくめて笑った。その笑いにはどこか乾いた響きがある。
彼女の仕事については知っていた。初めて聞いたとき、どういう顔をすればよいのか分からず、結局、そうなんだとだけ返したのを覚えている。村にはなかった職業だったから。
「じゃあ今日はボクがご飯つくってあげる。久しぶりに一緒に食べようよ」
同居人ではあったけれど、お互いの仕事柄、食事の時間が合うことは珍しかった。メアリは朝はお腹を出して寝ていたし、夜は仕事でいなかった。自分も普段から家を──そうここは間違いなく自分の家だった──空けることが多い。
「えー? あんたのご飯味うっすいじゃん。前から聞きたかったんだけどさ、あんた塩って知ってる? あのざらざらしたやつ」
「うっわそういうこと言う? いいよじゃあひとりで食べるから。ふーんだ。味がうすーい料理も作れないメアリさんは、部屋の隅っこで固くて塩っぱい干物でも齧ってればいいんだ」
「ふふっ……あー、うそうそ。冗談だってレイチェル」
メアリが声を立てて笑うと、嵐の前のざわめきの中で、狭い部屋に少しだけ温かさが満ちた。
「あんたの手料理最高だよ。病気して治療院に入れられたらさ、あんたの料理が恋しくて毎晩泣いちゃうくらい」
メアリは楽しげな足取りで寝台に戻って身体を投げ出し、足をぱたぱた揺らしながら言った。その意味をしばらく考える。
「……ねえそれ褒めてる?」
「めちゃくちゃ褒めてるぅ〜。世界一褒めてるぅ〜」
「おわーすんごい嘘くさい!」
薄い布団を巻き込んで寝台の上でごろごろ転がりながら言ったメアリに、頬を膨らませて抗議する。メアリとは一事が万事こんなふうだった。今思い返すと、彼女との生活には楽しい記憶しかない。……手料理が恋しくなって泣くというのは嘘だった。何年かして仕事の病で治療院に入ったとき、彼女は最期まで泣かなかった。
「レイチェル! いるか!」
突然、嵐の前触れの音に割って入るように、外から鋭い声が響いた。窓から下を覗くと、立っていたのはギルドの外套を羽織った伝令だった。髪が風に乱れている。
「はい!」
窓から身を乗り出して返事をする。
「緊急依頼だ! 手が空いていたら本部に来てくれ! 報酬も割増だぞ!」
風が言葉をちぎり、かき消そうとする。伝令は声を張り上げ、こちらに向かって乱暴に手を振った。こちらも声を張り返す。
「了解! 依頼の内容は!?」
「それは本部で聞いてくれ! 俺は行かなきゃならん! 場所は市内だから遠征準備はいらない! 武装も不要! 雨避けの装備だけ忘れるな!」
叫ぶと、伝令はもう次の建物へ駆けていった。足音が喧騒に吸い込まれて消えていく。
窓を閉めると、荒い風音が一気に遮られて、部屋の中はしんとした。
耳にの残った緊急依頼という言葉に、さきほどまではまた違った高揚感が湧き上がる。
「……緊急依頼だってさ」
振り返ると、寝台の上で胡坐をかいて座っていたメアリが冷めた目を向けてきた。
「やめときなよ。こんな日の依頼なんて、どうせろくなもんじゃないって」
呆れたように言いながらも、その声には心配の色が滲んでいる。メアリは口が悪くて少しがさつなところがあったけれど、いつも自分のことを案じてくれた。
「うん。でも、行かないと。もしかしたら、嵐のせいで≪海底の暴君≫(クラーケン)が王都に流れつく可能性があって、ボクの力が必要なのかも!」
「そんなん相手じゃあんた何にもできないし、さっきの人武装は不要って言ってたじゃん」
「……」
無慈悲な指摘に反論できないままに手を動かし、部屋着を脱ぎ捨てて上着に手をかける。
「でも本当に、誰かが困っているのかも知れないから」
「本音は?」
「緊急依頼って響きがかっこよすぎる」
「おばか」
腰鞄を手に取って身体に巻く。武装は不要とは言われたものの、一応、腰にはまだ獲物を捉えたことない短剣をお守り代わりに下げておく。
外套を軽く叩いてから羽織った。
「ねぇ。どこかの誰かのためにも結構だけど、あんたの味のうっすいご飯がないと、今ここにいるあたしが困るんだけど」
メアリはわざとらしく大げさに口を尖らせて見せた。
「ごめんって。ご飯はまた今度ね。今日は干物齧っといて!」
「まったくもう……」
ぶつぶつ言いながら、メアリがこちらに背を向けて枕に顔を沈めた。
「……気を付けなよレイチェル。あんたどんくさいんだから。怪我はしないようにね」
その声には、軽口とは違う真剣さが滲んでいて、何だか照れ臭い。
「ありがとメアリ。君にも火神と干物のご加護を!」
「言ってろへなちょこ冒険者」
素っ気ない調子だけど、声は笑っていた。メアリの背中に明るく手を振る。
外に出た瞬間、荒れた風が一気に吹き込み、心臓が強く打ち始めた。頬を叩いて一歩踏み出す。
ギルドに向けて走る。……ひょっとして今、外套を風にはためかせながら進む自分の姿は、とてもかっこいいのではなかろうか。そう思った次の瞬間、世界を切り裂くような雷鳴が轟き、王都全体を震わせた。遠くで鐘が打ち鳴らされる。
嵐がもう、すぐそこまで迫っている。




