荷物配達 四
村で唯一の、宿屋なのか酒場なのか、それとも雑貨店なのかもわからない小さな店で食事をとった。
煤けた梁から吊るされた油灯の明かりは弱々しく、白濁した炎が壁や卓に不揃いの影を落としている。外の雨を忘れたように、常連たちが酒を酌み交わし、大声で笑い合い、肩を組んで歌を口ずさんでいた。
誰の視界にも入らない隅の席に身を縮める。粗末な卓に置かれた硬い黒麺麭とぬるい豆の汁物を、俯いたまま作業のように口に詰め込む。舌先に広がるのは、ただ湿った粉の味と、煮崩れた豆の皮のざらつきだけ。笑い声、杯を打ち鳴らす音、焼いた肉の香ばしい匂い。そのどれもが遠い。自分だけが透明な壁の向こうにいるようで、空気の温かさすら届かなかった。
味はしなかった。
夜の寝床にしたのは、店主に頼み込んで貸してもらった馬小屋だった。扉を開けた瞬間、干し草の湿った匂いと、獣の体温の名残が混じり合った空気が押し寄せる。幼い頃、故郷の村で聞いた牛の鼻息や、朝靄の中で嗅いだ納屋の湿気を思い出す。鼻を突くはずの糞尿の匂いすら、今は懐かしく、胸をゆるめるものだった。人の気配に満ちた酒場よりも、今はこの匂いの方がずっと心が安らいだ。
片隅に積まれた古い桶をそっとどけて、空いた場所に膝を抱えて腰を下ろす。土の床は夜の雨が染みこんで冷たい。それでも頭上を覆う木の梁のおかげで、雨だけは身体に届かない。
頭上では雨風が屋根を叩き、ぽたぽたと雫が隙間から落ちて藁を濡らす。水滴が一しずく肩に落ちて、冷たさが外套を越えて胸の奥に重く沈んだ。
だまって泥にまみれた靴先を見つめる。ぬかるんだ山道を歩いた証。
「ふ、ふん! まあいいさ!」
声を張り上げると、近くの馬がむず痒そうに鼻を鳴らした。
懐かしい家畜と藁の匂いに包まれながら胸を張る。誰も聞いていない小屋の隅で、ただ自分に聞かせるように。声の余韻はすぐ湿った空気に吸い込まれ、跡形もなく消えた。
腰鞄から受領証を取り出す。雨に濡れて端はよれ、墨も滲んでいたが、署名は確かに残っている。本来であれば輝かしいはずの、あまりにも頼りない、依頼達成の証。
「受領証に署名は受けたんだ。依頼は完了、ばっちり期限内。初めての配達任務だとというのに、さっすがボク! 才気があふれてるぅ!」
わざとらしく鼻を鳴らす。功績を誇れば誇るほど、からっぽな胸に空しく響く。
「ふっふっふ、今日の冒険は偉大なる冒険者レイチェル、その栄光への第一歩というわけだ」
声は虚勢に満ちている。笑いの余韻が夜の雨に消え溶けて、やがて静けさだけが残った。藁の匂いと湿気の中で、隣には届けることのできなかった包みがひっそりと横たわっていた。
視界の端にそれが入るたび、胸が詰まった。
手にした証明は軽く、置かれた包みは重い。
もう無理だ。
もう。
膝に額を押し当て、腕に爪を立てる。
「ぼ、ボクは」
声が震え、唇を噛みしめる。
「ご、ごめんなさい。ぼ、ボクは、あ、貴方の荷物を、届けることができませんでした」
そう口にした瞬間、堰を切ったように胸の奥から涙が溢れた。幼い頃から憧れてきた冒険者。胸を張って依頼を果たすはずの自分。けれど、今はなにもかもからあまりにも遠かった。
あの扉を叩く前に思い描いた幼稚な妄想を思い出す。──どれほど喜ばれるだろうか、だなんて。砕け散って当然だった。
一度零れはじめた涙は止まらない。両目から溢れた涙が頬を濡らし、藁に吸い込まれていく。胸を張り、笑っているはずの自分が、涙がひとつ流れる度に、ぼろぼろと音を立てて崩れていく。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ。ぼ、ボクは冒険者なのにっ、貴方から依頼を受けたのにっ。何にもできなくて、ごめんなさい……」
みっともない泣き声だけは漏らすまいと歯を食いしばった。あの人と同じ冒険者になったのだから、今せめて声だけは。けれど努力は虚しく、次第に嗚咽が漏れ始める。
王都の空の下で、依頼主は、今どんな光景を思い描いているのだろうか。
あの贈り物を、ほんの少しだけ苦みが滲んだ顔で、届け先の男が受け取ることを?
それが少しでも、失われた何かを取り戻すきっかけになることを?
あるいはせめて、何も元通りにはならなくても、あの人形が、ただあの子の小さな手におさまることを?
そのどれもが叶わなかった。叶えられなかった。任務は完了した。何ら滞りなく。報酬は支払われるだろう。実績にもなるだろう。けれど自分は何も届けられなかった。荷物も、それ以外も、何ひとつとして。
誰かに責めて欲しかった。けれど今は責めてくれる人すらいない。
どうしようもなく無力だった。
ただ泣きながら謝り続けた。
夜が白み始めるまで。何度も、何度も。
雨と涙が、私の冒険者としての始まりだった。




