荷物配達 三
雨は再び勢いを増しつつあった。
腰に下げた蛍石角灯の光ははかなく、闇をほんの指先ほどしか押し返せない。それでも夕暮れの獣道を歩いた。靴は泥に沈み、冷たさが首筋を叩き、重くなった外套が肌に貼り付く。けれど焚火で取り戻した胸の奥の熱はまだ温かさを失っていなかった。
どうにか山道に出た。あとはここを辿ればいい。ぬかるんだ道をひとり黙々と進む。
しばらく歩くと、木々の切れ間から、淡い灯がいくつも揺れているのが見えた。煙突から白い煙が上がり、犬の吠える声が遠く響く。かすかに薪の匂いが風に乗る。村だ。目的地に間違いなかった。
安堵が胸に広がる。息を整え、濡れた髪を払い、泥に汚れた外套を軽く叩く。
村に着いたとき、周囲は夜に沈んでいた。
「……間に合った」
小さく呟き、鞄を抱え直す。まだ依頼は終わってはいなかった。
その村は故郷によく似ていた。小さな家々が、身を寄せ合って生きている。道沿いの家々からは笑い声や夕餉の匂いが漏れ、灯りが窓を温かく照らしている。
指定された家は村の外れにあった。窓の隙間から漏れ出す光は優しげだ。
肩掛け鞄を軽く胸に抱く。これを渡したとき、受取人はどんな顔をするだろう。どれほど喜んでくれるだろうか。期待と緊張が胸に満ちる。
息を呑み、戸口の前に立つ。濡れた拳を握りしめ、扉を叩く。こんこんと木の板を叩く音が、冷たい夜気に吸い込まれていく。
中からの気配が一瞬止まった。
しばらくして扉がぎいと開き、盛年の男が姿を現した。
「いったいどうしたんだ、そんな恰好で」
低く落ち着いた声が穏やかに響く。灯りに照らされた皺の刻まれた顔は、一瞬だけ父の面影を思わせた。
ずぶ濡れのこちらを案じる言葉にそうとわからないように安堵の息をつく。
拳を胸に当てて冒険者式の答礼をする。
「夜分にすまない、ボクはギルドの冒険者だ。王都からの依頼で、貴方に荷物を届けに来た。受領証に署名をもらえるだろうか」
受領証を差し出し、ギルドが定めた規定に則り、いくつかの事項を読み上げた。
男の表情が消えたのは、送り主の名を口にした瞬間だった。
「……今更、こんなもので」
冷たい声が夜を裂いた。憎しみが滲みだす声色に思わず身をすくめる。長い年月積み重なった痛みだけが持つ重たい響き。
困惑する中で、それが自分に向けられたものでないことだけは分かった。それでも胸の奥を凍らせるには十分だった。
咄嗟に胸に抱えた鞄をぎゅっと抱きしめる。
「えっ。あの」
男は受領証だけを乱暴に掴み取り、荒々しい筆致で署名した。だが肝心の荷物には目もくれず、低く唸るように言い放った。
「これでいいだろう。そいつはどこへなり捨てておけ。ご苦労だった。ついでにあんたの依頼主とやらに伝えてくれ。二度と俺たちに関わるな、と」
扉が閉じかける。その刹那、部屋の奥が一瞬見えた。
木の卓上には鶏の丸焼きが置かれ、惜し気なく灯された蝋燭の火が金色の油を照らしていた。その傍には気まずそうに俯く女性が一人。そしてその膝の上に抱かれた幼い子供が、きょとんとした瞳でこちらを見ていた。
胸に抱えた贈り物を拒む温かさに足元が揺れる。
どうしてかはわからない。気づけば手が伸びて扉の縁を掴んでいた。扉の縁を掴んだ手に木の節が食い込み、震える指先が白くなる。
「ま、待ってくれ!」
声は自分でも驚くほど裏返っていた。
男が鋭い目を向ける。怒気と困惑が入り混じった視線に、胸が潰れそうになる。これほどの敵意を人から向けられたのは、これが初めてのことだった。けれど手をかけた以上は、ここでひるんでばかりではいられない。
「こ、これはきっと、あの子の誕生日の贈り物だ」
男は何も言わない。ただ視線だけが重く光る。
沈黙が重くのしかかり、喉の奥がひりつく。
「誕生日の贈り物は、とても特別なものなんだ。来年も贈れるかも、受け取れるかも、わ、わからないんだ」
顔を上げて男と目を合わせる。
雨が頬を伝った。泣いていても大丈夫なはずだった。
「あ、貴方たちに何があったのかボクは知らない。家族のことに、軽々しく口を挟んでいいとも思ってない!」
言葉は途切れ途切れで、胸が潰れそうだった。必死に言葉を紡ぐ。
やめろ、と男が言った。その声音には、怒りよりもむしろ痛みに近い響きがあった。
それでも、ここで止めるわけにはいかなかった。
「けれど、これはきっと、特別な贈り物なんだ。お願いだ。せめて中身を」
言葉を捲し立てて、そこでようやく手紙の存在を思い出した。それさえ読んで貰えればきっと男の考えも変わるはず。冷たい雨の中に希望が宿った。
「そ、そうだ! 手紙! こ、この手紙を読ん……で……」
扉から手を離し荷物から手紙を取り出し、縋るように顔を上げて差し出す。それとほとんど同時に、全てを拒絶して扉が音もなく閉じられた。
雨はいつの間にか数歩先の視界を奪うほどに強くなっていた。
しばらくの間雨の中で立ち尽くす。大粒の雨が屋根から跳ね落ち、土を叩き、濁った水溜まりを作った。
閉じられた扉の奥から楽しげな声が漏れ聞こえ、そこでようやく理解できた。この扉はもう決して、自分に開かれることはないのだと。
手紙を鞄に戻す。せめてこれ以上、雨に濡れてしまわないように。
「ボクは……」
唇の端が震え、声は雨音に溶けた。
受領証はある。今間違いなく依頼は果たされていた。けれど一体自分は何を成し遂げたというのだろう。
煙るような雨の中を、行先もわからいまま、背を丸めて歩き出す。肩にかけた鞄はやけに重く、足は泥に沈むたびに地面に縫いとめられるようだった。
雨粒が頭布を打つ。何もできない無力を咎めるように。




