荷物配達 二
どれほど流されたのか分からない。
雨粒が土を叩く規則正しい音に意識を取り戻した。目を開けた時、そこにあったのは重い灰色をした空だった。生きている。
肺の奥に残った泥水に咳き込む。砂利に荒らされた喉が焼けるように痛い。胃の底から込み上げた水を吐き出すと、土と血が混じった味が口いっぱいに広がった。
岸辺の冷たい砂利の上に横たわり、それでもかろうじて両腕は胸元を抱きしめていた。依頼品の詰まった肩下げ鞄。痺れた腕がそれだけは離していなかったことを確認して、安堵に息を漏らす。
身体は鉛のように重く、指先は痺れて感覚が曖昧だった。足を動かそうとすると、擦り傷に染みる泥水が焼けつくように痛んだ。濁流の音がまだ耳の奥に残っている。
けれど、幸いなことに、大きな怪我はしていない。依頼の継続に支障はない。たぶん。
「……しっ、死んだかと思った」
唇から漏れた声はひどくかすれて、風の音にすぐ掻き消えそうだった
這うようにして岸辺を離れ、ぬかるんだ地面を指先で掴み、濡れた草の上に仰向けに身を投げ出す。草の感触は砂利よりも柔らかかった。雨に濡れた匂いが肺の奥まで染み渡り、生き延びた実感を少しずつ運んでくる。
数呼吸の間だけ、ただ空を見上げた。灰色の雲は重く垂れ込めている。直に日がくれるだろう。
「ま、まあボクは≪冥府より追放されし者≫でもあるから、こんなことで死ぬわけはないんだけども……」
このままいつまでも休んではいられない。ずぶ濡れの衣服は冷たい爪のように肌に食い込み、雨粒は容赦なく体温を奪っていく。
火を起こさなければならない。
気力をふり絞ってどうにか立ち上がった。膝が笑い、視界がぐらつく。
ひと際大きな木を雨風避けの屋根替わりにして、その下岩陰から拾った落ち葉を丸め、樹皮を細かく裂いて積み重ねる。集めた枝はどれも表面は雨で濡れていたけど、折ってみれば中がまだ乾いているものもあった。折れる音に希望が聞こえる。
火打石を打つたびに、濡れた空気は小さな火花をすぐに呑み込んでしまっう。空振りをしながら何度も繰り返すうちに、ようやく火種に赤い点が生まれる。息を吹きかけると煙が立ち、やがて小さな炎となって揺れた。
その温もりが掌に返ってきた瞬間、ようやく肩で大きく息をついた。冷え切った身体を、火の温もりはが繋ぎとめる。
ずぶ濡れの服を脱ぎ肌着だけになる。母がみたら卒倒しそうだけど、今周りには誰もいないから、火神もお許しになるはず。
服を乾かしながら目をこらすと、下流には流されたものの、暗くなりかけた川の向こうに先ほどの橋の残骸がまだ影のように立っていた。地図と照らし合わせれば現在地を割り出せるはず。
問題は体力だった。身体はまだ重く、関節のひとつひとつが痛む。十分な休息が必要だった。もう日も沈みつつあり、濡れたままで夜道を行くのは、命を賭けるに等しい無謀だ。
けれど。ちらりと地面に置いた肩掛け鞄に視線をやる。休んでいては指定日に間に合わなくなる可能性もあった。
休むか、進むか。指定日厳守の依頼条件と、弱りきった身体とが、頭の中で天秤にかけられる。
火の光に照らされた肩掛け鞄の革は水を吸って黒ずみ、だが紐はまだ固く結ばれていた。毀損は厳禁──依頼票の記載が脳裏を過ぎる。本来、預けられた荷物を開けて中を見るなどあってはならない。けれどもし先ほどの転落で内容物が棄損したのであれば、自分にはそれを償う責任もある。確かめずに運ぶのもまた、信義に背くことになる。
迷いながらも革の留め具を外す。震える指先で鞄の口を開くと、布に包まれた小さな木彫りの熊の人形が現れた。小さな掌に収まるほどの大き。刃の後が残る背中は丸く、瞳はどこか笑っているように見える。王都でも見たことがあった。それは北方の民が、子どもの成長を願って掘るものだった。
さらに底から、小さく畳まれた手紙も出てきた。濡れた手で破らないようにそっと広げる。そこに記されていたのは短い一文だった。
君たちの子に。そして私たちの孫に。誕生日おめでとう。
焚き火の赤い光に照らされた文字が瞳に滲む。息が詰まった。
誕生日の贈り物。誰にも等しく訪れる、季節が一巡するうちにたった一度しかない日。配達日の厳守が求められていた理由がようやくわかった。確かに早くても意味がない。もちろん遅くても。
病床での誕生日を思い出す。母お手製の焦げた焼き菓子、父が削ってくれた変な音しか出ない不恰好な木の笛。
同じ想いを、今誰かが自分に託している。離れていても、届けたいと願っている。共に祝いたいと祈っている。
焚き火の炎がぱち、と弾け、小さな火花が空へ舞い上がる。
煙が目に染みた。視界に涙が滲むのはそのせいのはずだった。
「……ふっふっふ。依頼主よ。君は実に運がいい」
手紙と人形を丁寧に元通りにし、鞄の口を固く閉じる。胸を張ると、焚き火に照らされた影が大きく見えた。
「この《炎の娘》レイチェルは、決して指定日に遅れたりはしないのだから! いざ出立!」
生乾きの上着にいそいそと腕を通し、泥を吸った脚衣を引っ張り上げて、胴締を強めに閉める。補修跡だらけの雨よけ外套を、家で何度も練習した通りにばさっとはためかせながら羽織る。水を含んで重いそれは、実際には想像していたほど格好良くは広がらなかった。
それでも冒険者の誇りは、今確かに自分の中にあるような気がした。
火を消して、歩き出す。水をたっぷり吸った深靴からはぎゅぽぎゅぽと間の抜けた音が鳴った。まるで自分の姿を笑うように。それでも構わないと思った。




