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ある冒険者の話  作者: 整腸剤神
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荷物配達 一

 十九歳の誕生日に、泣き叫ぶ父としきりに心配する母に見送られて村を出た。父は村の入口までと言ったはずの荷袋をいつまでも掴んで渡そうとせず、母は包んだ干麦を何度も持たせ直した。

 山を越え、石橋を渡り、夜は野営を重ねて、ようやくたどり着いた王都。書類一枚に名前を書くと、いとも簡単に憧れていた冒険者となった。

 冒険者はギルド経由で様々な依頼を受け、その報酬で生計を立てる。平たく言えば何でも屋だ。その実態は様々で、国家的な任務に従事する生きる伝説のような人物もいれば、日銭を稼いで糊口をしのぐごろつき半歩手前まで。新人冒険者はもちろん後者に近い。

 往々にして、理想と現実の間には冷たい大河が横たわる。それも渡し舟も架け橋もなく、ただ波風が頬を打つばかりの類の。新人は仕事を選べない。剣術に優れているわけでも、ろくに火術も使えないとなっては猶更だった。受けられる仕事は迷い猫探し、臨時の皿洗い、馬小屋の掃除…その他諸々。そして少ない稼ぎはいつの間にか下宿代と食費に溶けて消える。

 誇り高き初心者冒険者のための教訓その一、信頼は実績の積み重ね。とはいえ迷い猫を百匹探しあてたとて、大河に誇りの橋がかかるものなのだろうか。


 そんな中での今回の依頼は、ささやかではあったけれど、今までよりいくぶん冒険者らしく、小さな胸は高揚感に満ちていた。

 経歴・技能欄白紙の冒険者一年目に与えられた依頼は、ごくごく小さな輸送任務だった。

 王都の送り主の依頼により山間部の小さな村に向けた、徒歩で往復数日の荷物配達。荷物は肩下げ鞄に収まるほどの軽さ、道中も地図の上では難所なし。新人の冒険者が受けるにはうってつけの、地図さえ読めれば遂行可能な──そしてもちろん低報酬の仕事。

 そのはずだった。

 けれど現実は、地図には記されていない障害を突きつけてきた。

 想定外──またの名を未熟な冒険者の甘い見通し──だったのは雨だった。今は随分勢いが弱まり小雨になっているが、ここ数日容赦なく降り続けた結果、今目の前には、手がつけられないほど増水し土色の濁流と化した川があった。濁った水面は泡立ち、砕けた岩や黒ずんだ流木が渦を巻きながら流れていく。ごうごうと唸る水音は腹の底まで震わせ、石も流木もすべてを呑み込もうと牙を剥いていた。

 肩下げ鞄をかけ直し、荒くれものの川面を睨む。


「ううん、参ったな。まさかこれほどとは……。おのれ≪運命力≫め…! そうまでしてボクの行く手を阻もうというのかっ」


 拳を握りしめ悲壮感たっぷりに叫んでみる。ここが下宿先であれば、同居人の少女がなにそればかじゃないの、とあきれ顔で構ってくれたことだろう。しかし今この場に彼女はいない。返ってくるのは濁流の音だけだった。

 ちなみに≪運命力≫というのは人が抗うことのできない運命を動す力の流れをいう。この場合言ってしまえば天候のことだ。この頃、病の後遺症としての妄想癖はその全盛期を迎えていた。


 地図の上ではここに橋があるはずだった。しかし現実には、川面に突き出した橋の脚が何本か骨のように白く立ち、ねじ切れた断面だけが絶えず水飛沫を浴びていた。

 地図は、雨による増水も、崩れた橋も描いてはくれない。これは忘れがたい教訓になるだろう。

 濁流を前に、腰鞄から安物の地図を取り出し、睨みつけるようにして迂回路を探す。擦り切れた紙は湿気で端が波打ち、頼りない線が雨粒に滲みそうになっていいる。


「この先の橋は……遠いな。指定日に間に合わなくなる」


 いくつかの道を指で辿り、頭の中で旅の行程を思い描く。しかしどこを通っても、依頼主から厳守を指示されている配達指定日には間に合いそうになかった。冷えた雨水が髪から滴り落ち、地図の角を濡らしてじわりと線をぼかしていく。


「くっ、ボクが母さんの≪白銀の翼≫さえ受け継いでいれば……!」

 

 頭の中で、煌めく羽根が一瞬だけ背中に生え、濁流を越えて舞い上がる自分を思い描く。

 当時、母は有翼の古代人の末裔ということになっていたので(病が癒えても母は変わらず優しかったが、この話のときだけは大いに眉を顰めた)、その子である自分に翼がないことを嘆いてみる必要があった。

 地図を勢いよく閉じ川に視線を戻す。乾いた音が濁流の轟きにかき消された。

 橋の残骸と、それに引っかかって繋ぎ止められた岩が、川の流れから飛び石のように頭を出している。

 橋はない。迂回はできない。期日には間に合わせなければならない。そして自分に翼はない。

 方法はひとつしか思い浮かばなかった。

 誇り高き初心者冒険者のための教訓その二、危険に踏み込む者が勝利する。……ほんとかな。唇の端で小さくつぶやく。

 数歩下がって助走を付けてから跳ぶ。一瞬の浮遊感の後、一番手前のところどころ苔むした岩に足がつく。自分の身体が思っていたよりも軽くて少し驚く。すり減った靴底が滑って倒れそうになるのを腕を振り回して堪え、息を呑んで数秒、ようやく身体が安定した。うまくいった。


「これは意外といけるのでは…?」


 二つ目。三つ目。激しい川音に呼吸を合わせるように身を躍らせ、跳ねるようにして石から石へと渡っていく。

 踏み込むたびに石はぐらりと揺れ、濁流が足首をさらおうと牙を剥いた。靴底に伝わる石の冷たさと水しぶきが全身に跳ね返る。心臓がそれに呼応するように早鐘を打った。胸の奥で「いける」と声が響く。

 病が癒えたばかりの頃を思い出す。村に数少ない同年代の子どもたちにまだ馴染めず、彼らも自分を扱いあぐねていたころ。度胸試しに飛んでみろと言われた、今思えば浅く小さな川の飛び石越え。落ちたらどうしようと怯えながら精一杯飛んだ。対岸から行け! 飛べる! と叫ぶ声。たっぷりと時間をかけてそれでも渡り切ったとき、ようやく彼らの仲間になれた気がしたものだ。

 ほんの一瞬、濁流の音が遠ざかる。懐かしいな。みんな元気にしてるかな。


 火神に誓ってもいい。最初は間違いなく調子よく行っていた。

 しかし、思い出に背中を押されながら対岸まであと半分。輝かしい勝利の予感に、唇の端がわずかに緩んだその時だった。

 土砂がかろうじて支えていただけの岩にそうと気づかずに足をつけてしまった。ぐらり、と岩が沈んだ。靴底が頼りなく浮つき、次の跳躍のために溜めていた力が宙に逃げる。

 ──あ、しまった。

 岩がゆっくりとだが容赦のない流れに押されて動き出し、身体が重力に囚われる。

 一瞬の浮遊感。ほんの刹那、翼を得たような錯覚。だがそれをすぐに、濁流の牙が食いちぎった。冷たい衝撃。視界が濁った水に塗りつぶされる。肌を削る小石と木切れ。耳の奥に突き刺さる轟音。一瞬遅れて落ちたと理解する。

 軽率な判断の報いはいつだって手痛い。身体は木の葉のように回転し、上下も分からず叩きつけられる。耳の奥では轟音が響きっぱなしで、視界は茶色く渦を巻き前後左右も分からない。光は届かず、ただ濁った暗闇に押し込められたようだった。鼻と口から容赦なく砂の混ざった水が押し入り、肺が焼けるように悲鳴を上げて口を閉じる。

 死の気配。

 ここで?

 それでも託された荷物を手離すわけにはいかなった。肩下げ鞄を胸に強く抱きしめ必死に耐える。せめてこれだけは。だがやがて、肺が灼けるように軋み、息苦しさに抗えず口を開いた。

 ごぽっと泡が漏れ、世界がゆっくりと遠ざかっていく。

 指先から力が抜け、抱きしめた鞄の重さだけが最後に残った。


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