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ある冒険者の話  作者: 整腸剤神
10/17

港湾荷役 四

「づ、づがれだ……」


 部屋の隅で、床にずぶ濡れの外套ごとへたり込む。腕は焼けるように痛み、太ももは鉛みたいに重かった。靴を脱ぐ力も残っていない。手のひらは赤く、ところどころ皮が剥けている。

 海運ギルドは、嵐の中荷役に駆り出された者たちのために港湾事務棟の一室を臨時の宿舎として解放していた。風雨の吹きすさぶ港から切り離されたこの場所には、湿った木の匂いと人いきれが充満していて、今にも嵐に吹き飛ばされそうな外とは別の世界のようだった。

 本来の部屋の主であるはずの机と椅子は隅に追いやられて、中央には麦酒の樽がいくつも並び、港湾職員に荒々しく木の腹を叩かれ鈍い音を響かせた。


「諸君、ご苦労だった! こいつはささやかな特別報酬だ! 火神の次に寛大な海運ギルド様に感謝しろ!」


 喉の張り裂けそうな声の叫ぶに呼応して、湿った空気を突き破るように歓声が上がった。海運ギルド様万歳! 大灯台の祝福を! 湿気と汗に混じって、泡立つ酒精の匂いが広がる。蒸し暑い室内はさらに熱を増し、笑い声と足踏みで床板が震えた。

 麦酒の味は王都に来てから知った。自分も杯を受け取っていいのだろうかとすこし躊躇っていると、分厚い掌が背中をどんと叩き、若い男に陶器の杯が半ば強引に押しつけられた。彼は今日、積込口で作業をしていた男だった。


「いいの?」


「いいもなにも、今日の主役はあんただろ。なあおい、そうだよな!」


 そうだ! そうとも! 荒っぽい声があちこちから飛び、肩を組む者、足を鳴らす者、拳を振り上げる者。笑いの渦が一気に膨れ上がり、自分の小さな身体を呑み込んでいく。


「あんたが仲間を助けてくれたことは皆が知ってる。こいつらは俺と違って学はないが、礼儀は知ってるからな」


 若い男が手を広げて言うと、誰かが「お前も学はねえだろ!」「礼儀もな!」と野次を飛ばす。どっと笑いが弾けて、長靴で床を叩く音が続いた。


「え、えへへへ……なんか照れるな」


 言葉が掠れた。顔が熱いのは熱気のせいではない。

 これが港の作法と教えられたとおりに杯を樽に潜らせ、麦酒を並々と掬うと、泡が腕を濡らした。男たちがそれに続いて次々と杯を満たして行く。

 全員に酒が行き渡ると、皆が自分を見ていた。おずおずと、けれど精一杯高く杯を掲げて声を張る。


「それじゃあ、みんなもお疲れ様! かんぱーい!」


 ぬるく雑味交じりの麦酒を呷る。この場で飲む一杯は何よりも甘美だった。喉を抜けて全身に広がる熱が、疲労と誇りを同時に慰めてくれる。


「……なあ、おいあんた」


 背中を指でつつかれ振り返ると、昼間に助けた少年が立っていた。自分と同じか、少し下くらいの年頃。まだ濡れたままの髪が頬に張り付き、子どものあどけなさが抜けきらない顔に、真剣そのものの表情を浮かべている。


「その、助けてくれて……ありがとう」


 言葉少なに少年が言った。

 あの人の後ろ姿がちらりと浮かぶ。


「いいよ、お礼なんて。怪我がなくてよかった。今日はお疲れ様!」


 ぽんと肩を叩いて笑いかけると、少年の顔が赤くなった。

 港の仲間たちが囃し立てるように笑い声をあげる。


「おやあ? こいつはもしかして?」


「惚れちまったか!?」


「ち、ちがう! そんなんじゃない!」


 真っ赤になって否定する少年と、それを面白がる大人げのない大人たち。


「どうだお嬢ちゃん、こいつは面白みにはかけるが仕事は真面目にやる。将来有望だぞ。まだ女を知らんがこの際むしろ丁度いいだろ」


 下品な煽りをした隣の男の脇腹を無言のまま肘で突く。倍の勢いで肩を叩き返され、結局自分も笑ってしまった。

 しばらくの間、名前も知らない仲間たちと酒を酌み交わし、互いの健闘を称えあった。

 酔いが回って椅子に座って休んでいると、入れ墨の男が僅かに酒気を帯びた笑みを浮かべて近づいてきた。


「海には落ちなかったみたいだな」


 嵐の塩気をまだ纏った声だった。


「聞いたぞ、大活躍だったらしいじゃないか」


「ふっふっふ。まあボクにかかればこんなものさ」


 びっと指を立てる。酔いのせいか、それとも本心か、胸が少し膨らんだ。

 何気なく周囲を見回す。しかしここにいるのはほとんどが荷役人たちだった。冒険者の姿は見えない。


「来たのはお前だけだ」


 視線の意味を読んだのか、入れ墨の男が静かに言った。


「海運ギルドもそっちのギルドをずいぶんせっついたみたいだけどな。まあそりゃそうだ。嵐の港で足を滑らせて溺れ死んだんじゃ格好もつかん。報酬もさして高くない。そもそも話が急すぎる。面子の問題もあったんだろうが」


 男が杯を呷り、口元を裾で拭う。天井から吊るされた油灯の炎が、彼の彫りの深い顔を揺らした。


「勘違いするなよ。来なかった連中にどうこう言いたいわけじゃない。そもそもが俺たち側の不手際だ。もっと前に荷をどうにかするべきだった。土壇場で人様に頼んで助けてもらえなかろうが、そりゃ自業自得ってもんだ。文句は言えん」


 淡々と、しかし重みを込めて語る声が、室内の喧噪の中でも耳にはっきり届いた。


「だがお前は来た。レイチェル。お前だけが来たんだ」


 聞き慣れたはずの自分の名前が不思議と胸に沁みた。冒険者になってから、誰かにこうして真っ直ぐ名前を呼ばれることがどれだけあっただろう。嵐の轟きよりも、酒場の喧噪よりも、その声は力強く空気を震わせた。


「よく覚えておけ。港の男は受けた恩を忘れない。そいつの働きぶりもな。お前が運んだ荷は確かにある。レイチェル、お前はよくやった」


「……うん」


 こくりと小さく頷く。大それたことができたわけじゃない。それはわかっている。それでも自分が成し遂げられたものがあった。自分が来たことに確かに意味があった。ほんのささやかだとしても。それがわかっただけで胸が満たされた。


「明日になっても、俺の言葉を思い出せ。いいな」


 男が真剣な眼差しを向けて言った。

 その意味を測りかねて首を傾げる。どういうことかと尋ねようとしたところで、誰かが古い港歌を歌い出した。低い調子に合わせてひとり、ふたりと声が重なり、やがて誰も彼もが肩を組んで歌いあう合唱に変わる。

 ――樽を転がせ、風が来る。

 知らない歌をでまかせで口ずさむ。笑いと酒精と潮気が混じり合い、外の嵐を忘れさせた。

 宴が終わるころには、濡れ鼠たちの笑い声も疲労に溶けていた。床に並んで横たわる者たちは、皆英雄のように眠っている。

 特等席がある、と言われて入れ墨の男に案内されたのは、事務机の上だった。上質な黒檀の板の上に、薄い布が一枚だけ敷かれている。


「え、でも」


「遠慮するな。机の主も、俺たちが使うよりよっぽど喜ぶだろうよ」


 まだ生乾きの服に身を包みながら、机の上に横たわる。


「ま、さすがにいないとは思うが。もしこいつに手を出す奴がいたら」入れ墨の男がにっこり笑った。「俺が直々に殺す」


 冗談めかしていたものの目は本気だった。

 汗と潮にまみれた化粧っ気のない女をどうこうしたがる者がいるとは思えなかったが、男の言葉に何人かが目を逸らした。おい、と突っ込みを入れるとまた笑い声。

 窓を叩く嵐はまだ収まらない。だが遠く、大灯台の灯火が滲んで見えた。あれが消えない限り、次の船は必ず来る。荷物はまた運ばれる。

 酒精の熱と、感謝の余韻と、どうしようもない疲労とに包まれながら、嵐の音を子守歌に眠りへと落ちていく。

 今日はいい日だったと思った。

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