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ある冒険者の話  作者: 整腸剤神
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 物心ついた頃から窓の外ばかり見ていた。

 木枠の窓はいつも冷たく、冬には白い霜が花のように張りついた。

 枝を振り回して遊ぶ同い年の子どもたち、荷車を軋ませて村を訪れる行商人、酒に酔って歌いながら肩を組む大人、石畳に声を響かせる火司の説法、水場で洗い物をしながら笑い合う女たち。

 窓越しに見える全ては、手を伸ばせば触れられそうなのに、決して届かない。肺腑の病に蝕まれ、寝台から動くことができなかった私にとっては、外に広がる景色は近いのに遠く、何もかもが別世界の出来事のようだった。

 病は生まれつきで、あとどれほどの季節の巡りを生きられるかは分からない。そう言われながら育った。母は夜ごとに火神へ小さな灯を捧げ、父は荒れた手を合わせて沈黙の祈り続けた。朝になって、一日を永らえた私を嬉しそうに抱きしめる両親に、ごめんなさいと胸の奥で謝るのが、あの頃の私の日常だった。

 両親は優しい人たちだった。先のない日々だと知りながら、娘が少しでも楽なようにと新しい寝具を縫い、灯を絶やさぬよう夜ごとに火を守った。咳き込めば夜通し水を取りに走り、熱に浮かされれば傍で手を握り続けた。そう遠くない明日にいなくなる娘のために、できる限りのことをしてくれたと思う。

 友と呼べたのは病床で開く物語本だけだった。木工職人だった父さんは決して裕福ではなかったけれど、故郷の村では貴重な本を、眠らずに細工を削った対価で少しずつ揃えてくれた。粗末な紙に滲んだ文字は、ときに読みにくかったが、私にとっては何よりも親しい声だった。

 世界を滅ぼす魔王。天空に住まう有翼の古代人。魂を食らう邪竜。炎に祝福された戦士たち。紙ににじんだ墨の染みが語る遠い世界は、色も音も匂いさえ伴って心に迫った。窓の外の景色よりも、ずっと自分に近しいものに思えて好きだった。

 熱にうなされた夜も、血混じりの咳が出た日も、寝台に横たわりながら空想を思い描いた。窓の内側の世界は冷たく狭かったけれど、頭の中では果てしない草原を駆け、竜と剣を交えていた。父は実は魔王の転生体で、母は有翼人の古代人。そのふたり血を引いた私は、右腕に封印された暗黒竜と共に、世界の危機に立ち向かう。そんなばかばかしい空想だけが、か細い呼吸を続ける唯一つの拠りどころだった。


 病には治療の術があった。それがかえって両親を苦しめていたと思う。希望があるからこそ、それに手をかけることのできない無力を思い知らされる。治療には万年雪に閉ざされた峻険な山の頂だけに咲くという希少な薬草が必要だった。市場に出回るそれは驚くほど高額で、両親が人生を何度重ねても届かない。父さんの皺だらけの手が、母さんのあかぎれた手が、私の頭を優しく撫でた後で、必ず震えていたのを覚えている。それがたまらなく申し訳なかったことも。あの頃、自分さえいなければと思わない夜はなかったと思う。

 父さんは火神の救い縋るように、ギルドに薬草採取の依頼を出した。でも依頼を受ける冒険者はひとりとしていなかった。当然だ。父さんは指物の仕事を増やして徹夜を繰り返し、母さんは銀貨を削るように倹約したけれど、それでも用意できた報酬は少ない。村人たちは父さんたちに優しい言葉をかけるけれど、陰では口々に囁いていた。そんなことをしたところで、と。囁きが窓の隙間から忍び込み、寝台に横たわる私の胸に冷たい影を落とした。

 でもそう、確かに村の人たちのいうとおりだ。報酬に見合わない危険を引き受けるのは、物語の登場人物だけ。私もそう思っていた。

 貴方がやって来るまでは。


 今でも覚えている。貴方が村を訪れたのは、何日も前から雪が降り続け、氷が戸口や窓枠に貼りついて離れなくなった、その冬いちばん寒い日のことだった。

 外を歩く人の姿はほとんどなくて、村の家々は焚き火の煙だけを吐いていた。そんな凍りついた静けさを破って、扉を叩く音が響いた。

 戸口に立っていたのは、旅の衣を纏ったひとりの男だった。背は高くも低くもなくて、髪も目も地味な黒色。ただ不思議と、厚い外套に積もる雪の白さだけが、貴方を遠い別世界から来たように見せていた。

 依頼を受けた。貴方がそれだけを父さんに告げたとき、家の中の空気が一瞬止まった。父さんたちは互いに顔を見合わせた。父さんの唇は何かを言いかけて動き、母さんの手は膝の上で小さく震えていた。

 物珍しい部外者の姿に集まってきた村人たちの中には「騙されているに違いない」と言い立てる人もいた。火神の御前に誓うほどの大事を、わずかな報酬で引き受ける者がいるはずがない、と。

 貴方は誰にも何も言い返さず、ただ静かに私の寝台を訪れた。貴方はしばらく黙って私を見下ろした。貴方の沈黙は、村人のざわめきを吸い込んで消していくようだった。淡い光を帯びた瞳が、弱々しい自分の呼吸を映している。その眼差しは百の言葉よりもはるかに雄弁で、胸の奥が熱くなったのを覚えている。やがて貴方は父さんたちに向き直ると、また来るとだけ告げて、振り返ることもなく家を出ていった。扉が閉まると同時に、凍りついた風が隙間から吹き込む。貴方の背中を窓越しに見送った。降りしきる雪の向こうへ消えていく姿に、まるで物語の一幕のようだと思った。


 村人たちは噂しあった。貴方が戻るはずがないと。父はただ仕事を、母は祈りを続けた。

 私はと言えば、貴方は冥府から蘇った不死身の戦士ということにして、その肩書きにふさわしい敵と戦場を頭の中で追い求めていた。


 ひと月が経った頃、吹雪の夜を越えた村に貴方は本当に戻ってきた。

 白い息を吐きながら、貴方は扉を押し開けた。外套は氷と雪で硬く凍りつき、滴る雫が床を濡らした。

 その手には万年雪の山の頂にしか咲かぬはずの薬草が確かに握られていた。

 父さんたちは膝を折って涙を流した。きっと貴方が火神の使いに見えていたと思う。貴方の帰還に気づいて集まってきた村人たちは息を呑み、本当に、と誰かが呟いたきり静まり返った。誰もが言葉を失い、互いに顔を見合わせながらも、声を出すことはなかった。ただ風の唸りだけが村を包んでいた。

 当の貴方はといえば、ただ「思っていたより寒かった」と言って外套を払うだけだった。


 両親に迎え入れられ、寝台の端に腰かけた貴方は、何を誇るでもなく、黙って私の頭を一度だけ撫でた。温かくて大きな手だった。

 それは窓の外の世界が、初めて私に触れた瞬間だった。

 貴方は伝説の英雄に違いないと思った。だってそうでなければ説明がつかない。本で読んだ炎に祝福された戦士たちも、きっと貴方のような手をしていたはずだ。

 どうして? と尋ねた私に貴方は答えた。生きていれば、そういうこともある。


 帰り際、娘の未来以外の何も求めていなかった両親がせめてもの礼にとつつましい家と土地を渡そうとしたとき、貴方はただ困ったように肩をすくめた。ありがたい申し出だが、と貴方は笑った。釣銭がないから受け取れない。

 そして翌日には名も名乗らぬまま村を去った。

 貴方が残した足跡に雪が降り積もりやがて消えていくのを、私は窓越しにいつまでも眺めていた。胸の奥で、物語と現実が重なり合い、ほどけぬまま結び目を作っていく。

 貴方を見たのはそれが最後だった。けれどその背中は、物語の頁をめくるたびに、窓の向こうを見つめるたびに、私の心に何度でも蘇った。


 病は癒えた。

 病を克服した私は、それまでの人生を取り戻すかのように健やかに育った。

 貴方にも見せたかった。時折、元気すぎて両親を不安にさせてしまったこととか。

 後遺症は少しだけ残った。──病床で過ごした年月に育まれた、現実を物語の窓枠越しに見てしまう癖が。とはいえまあ、貴方が私にくれたもの……本当なら私が手に入れるはずのなかったもの思えば、それは些細なものだったと信じられる。

 窓辺で過ごした年月の空想と、名も知らぬ誰かの献身は、ひとりの少女の生き方を決めるに十分すぎるものだった。

 貴方のようになりたいと思った。貴方のような冒険者に。

 それが私が冒険者になった理由。


 これからいくつかの話をしようと思う。私が冒険者になったばかりの頃の話を。

 貴方のようになりたくて、何もかもが輝いて、泥臭くて、辛くて、愛おしかった頃の話を。 

 最初は、あの荷物配達から始めよう。私がまだ冒険者になって幾月も経っていない頃の話だ。多分、あれが私の始まりだった。

 貴方を追いかけて、どこにも届かなかったはずの手で、初めて世界に触れようとした日。



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