九十二
どれぐらい走っただろうか。滅茶苦茶に疾走して、もはや元の場所に戻ることはできなくなったのではという頃、ヴィルへルミネは脚を止めた。
「ここまで来れば、ひとまず安心かしら」
「ぜー⋯⋯はー⋯⋯」
「すみません、第三王子殿下。引っ張ってしまって」
「ひゅー⋯⋯はー⋯⋯」
「⋯⋯殿下?」
「はひゅ⋯⋯はー⋯⋯」
「大丈夫ですか⁉」
全く息が整わないレーヴの背中を、ヴィルへルミネは慌てて撫でさすった。
「すみません。逃げるためとはいえ、全力で走ってしまって」
「い、いえ⋯⋯ふー⋯⋯僕の方、こそ⋯⋯」
それ以上続けることができず、レーヴは呼吸を正常に戻すことに専念した。
レーヴは身体能力の高い獣人とはいえ、未だ十三歳の少年である。一応剣の稽古などは受けているものの、形式上受けているだけのそれに、体力作りという概念は無い。
一方のヴィルへルミネは、実際に戦場に出る想定をして訓練している上に、実戦経験もあった。当然体力も同世代の女子よりずっとある。
基礎体力の差が、まさかこんなところに出るとは両者共に思わなかった。
「ふー⋯⋯本当にすみません。もう大丈夫です」
「ならよいのですが⋯⋯」
ヴィルへルミネは手を下ろした。
「改めて──はじめまして、第三王子殿下。わたくしはローディウム帝国の第三皇女、ヴィルへルミネ・カルンシュタインですわ」
「僕はマルダス王国第三王子、レーヴ・フェリドゥです。助けていただき、感謝します」
レーヴは何とか微笑んだ。それを暗闇ながら確認したヴィルへルミネは、ほっと胸を撫で下ろす。
「ご無事でよかったですわ。⋯⋯しかし、どうしてあのような次第に?」
「⋯⋯僕もよく解らないのですが」
レーヴ曰く、彼はついさっきまで正妃宮で勉強していたのだとう。だが何かに引っ張られる感覚がしたかと思えば意識を失い、気付けばシャオシンに抱えられていたのだそうだ。
「もしやその時、影のような触手を見ませんでしたか?」
「さあ⋯⋯何しろ混乱していたので、そこまでは」
しゅんとするレーヴ。彼は魔法のような超常の現象に馴染みが無いため、冷静に状況を確認するということができなかったようだ。こればかりは慣れなので、しかたかない。
「それにしても、ここはどこなのでしょうか。石造りの通路のようですが」
「⋯⋯おそらくですが、王宮の地下にある地下迷宮かと」
「地下迷宮?」
「迷宮と言っても、本当に迷宮というわけではなくて、本来は脱出用の通路なんです」
レーヴは言った。
何でも、王宮や王族に何らかの危機が迫った時、その危機から逃れるための通路らしい。追手をまくために複雑な造りになっていること、ここで籠城することも想定して広大になっていることから、地下迷宮という名称になっているようだ。
「では、じぐざぐに逃げたのは失敗でしたかしら」
「いや、王族にだけ解る目印があるので、出る分には大丈夫です。しかし、どうしてあの男はここの存在を知っているのか⋯⋯」
「第一王子殿下に教えられたのかもしれません」
ヴィルヘルミネが言うと、レーヴは不思議そうに首を傾げる。どうやら最初のやり取りは聞いていなかったようだ。
ヴィルヘルミネはシャオシンのことを知る限り教えた。
するとレーヴは、暗闇でもはっきり解るほど渋い顔をする。
「外部の人間には教えてはいけない決まりのはずですが⋯⋯」
「まあ、あの商人が独自に探索したのかもしれませんし、真相は解りませんわ。とにかく、ここから脱出しなければ」
ヴィルヘルミネは改めてレーヴの手を取った。とたん、レーヴの尾がぴん、と立ち上がる。
「エスコートをお願いいただけるかしら?」
「よ、喜んで」
ぎくしゃくとした足取りで、レーヴは歩き出した。その一歩後ろを、ヴィルヘルミネも付いていく。握られた手はたおやかで、レーヴはそれにもどぎまぎしてしまう。
──この人は、兄様の婚約者なのに。
レーヴは何とか頬の赤味を消そうと努力した。
目を覚ました時、何者かに捕まっている状況に、レーヴは混乱した。それでも騒いだりしなかった──できなかった──のは、目の前にヴィルヘルミネの美貌があったからだ。
レーヴも幼いながら一国の王子である。美しい女性は多く見てきた。
だがヴィルヘルミネの美しさは、それらの女性をはるか後方に置いていくような、飛び抜けたものだった。
正妃よりも色濃く輝く黄金の髪、花のように美しい淡い紫の大きな瞳、マルダスでは珍しい白い肌は真珠のようで、顔立ちは腕のいい人形師の最高傑作のように整っていた。
カンテラの頼りない灯りも相まって、どこか幻想的でこの世のものとは思えない印象を受けた。
それなのに大人の男に対して一歩も引かない度胸と、偶然目を覚ましたレーヴを利用する大胆さ。しかし皇女らしい品格と愛らしさを損なわない仕種に、惹かれずにはいられない。
「⋯⋯皇女殿下は、レオーネ兄様と婚約しているんですよね」
「ええ。色々不幸が重なって、正式な婚約はまだですけど」
「兄様と殿下は運命の番だそうですけど、殿下の方でその実感はありますか?」
そう聞いたのは、気持ちをごまかすためではあるが、もうひとつ好奇心からだった。
獣人と竜人は運命の番を知覚できる。そして一度会えば求めずにはいられない。個人差はあるが、結ばれなければ狂死する者もいるほどだ。
一方でそれ以外の種族は、その感覚は全く無い。相手がどれだけ運命の番だと訴えても、実感を得ることは無いのだ。その落差でうまくいかなかった番も、大勢いると聞く。
事実、リエーフの運命の番であるアミラはあっさりマルダス王に乗り換えた。リエーフを番だと認識していれば、そんなことはできないはずである。
ではこの皇女はレオーネのことをどう思っているのだろうか。
「あるのか無いかと言われれば、正直全くありません」
ヴィルヘルミネはきっぱり言い放った。あまりにもはっきり言うものだから、レーヴは面喰ってしまう。
「無い⋯⋯のに、兄様と婚約したのはなぜですか?」
「わたくしが、レオーネがいいと思ったからです」
これもまた、はっきりと言われた。あまりにも堂々と言うものだから、レーヴは反応する余裕も無い。
「そもそも、運命の番の運命なんて、本当に結ばれるべきなのかという疑問がありますわ」
「え?」
「竜人と獣人だけが運命の番を認識できる、とのことですけど──本当に互いが運命ならば、それ以外の種族でも解るはずでしょう。少なくとも、感じるところは出てくるはずでは?」
だが現実は、必ずしも結ばれるわけではない。拒絶される事例も少なくなく、そもそも出会う確率自体非常に低い。
「しょせん、子孫を残す上で最良の相手を見付ける感覚──そうわたくしは認識しておりますわ。運命と言っても、せいぜいきっかけにしかならないでしょう」
「な⋯⋯なら、どうして兄様がいいと思うんですか? 運命を感じているわけでもない、兄様のことを」
「⋯⋯そういえば、どうしてでしょうね」
ヴィルヘルミネの足が止まった。同じように止まったレーヴは、彼女を振り返る。
ヴィルヘルミネは首を傾げ、うーんと悩んでいた。
「目標に向かって努力する姿は好ましいですし、思慮深い性格は話していてとても有意義だわ。レオーネから聞くマルダスの話は楽しいですし、戦う姿は格好いいと感じますの。わたくしの言動で驚いたりする姿は可愛らしいと思いますし⋯⋯何より、わたくしを大切にしてくれる姿が」
ヴィルヘルミネは顔を上げた。暗闇でも解るほどに、蕩けるような微笑を浮かべて。
「ああ──わたくし、レオーネのことが愛おしいのね」
その笑みは誰よりも美しくて、愛らしくて──優しい。
その笑みを見た瞬間、レーヴは恋に落ちると同時に失恋を味わった。
どくどくと高鳴る鼓動で痛む心臓を抱えながら、レーヴも何とか笑みを返す。
「それ、兄様に言ったら喜びますね」
「そうですわね。そのためにも、ここから無事に脱出しなければ」
やる気を見せるヴィルヘルミネに同調するように頷きながら、レーヴは兄のことを思う。
──兄様が羨ましいよ、本当に。
それはレーヴが初めて抱いた嫉妬である。それをそっと隠しながら、レーヴは歩き出した。口元に、ほろ苦い笑みを浮かべながら。




