九十一
冷たい石の感触で目が覚めた。ヴィルへルミネは手足の感覚と、握りしめた鉄扇を確認しながら、慎重に起き上がる。
そして周囲を見回し、困惑した。
「ここは⋯⋯?」
ヴィルへルミネが倒れていたのは、周囲が石でできた狭い廊下だった。
廊下とは言うものの、ただ前後に道が続いているというだけで、そこが廊下なのかは判然としない。おまけに光源が無いため、はっきりと周囲が認識できなかった。夜目が利くよう訓練していたから何となく解ったものの、そうでなければ自分の手元さえ見えなかっただろう。
ヴィルへルミネは魔法で光を出すかどうか迷った。だが逡巡している間に、ふと向こうから光が近付いてくるのを目視する。
通常であればほっとするような光景だが、状況が状況だけに油断できない。ヴィルへルミネはいつでも動けるように身構えた。
光源がどうやら人間が持つカンテラであるらしいと解ったタイミングで、向こうもヴィルへルミネが起きていることに気付いたようだった。足を止め、舌打ちする。
「ちっ⋯⋯まさかもう起きているとはな。エルフゆえなのか、抵抗力が思いのほか高い」
現れたのはターバンとローブを身に着けた、温度の無い黒い目の男だった。片手にカンテラ、もう片方には、何やら大きな荷物を抱えている。目を凝らしてみると、何と人間ではないか。
歳の頃はヴィルへルミネと変わらない、がっしりとした体躯の少年だった。丸い獣耳と長い尾を見るに、獣人のようである。ぐったりと手足と頭を放り出していることから、どうやら気絶している様子だった。
獣耳と尾の形状、そして年格好から、ヴィルへルミネは彼がレオーネの弟であるレーヴであることに気が付いた。同時に、黒目の男の正体にも思い至る。
「貴方は第一王子の⋯⋯」
「そうか。すでに私のことを聞いていたんだったな」
男──商人は特に動揺も無く言った。ヴィルへルミネはすぐ立ち上がれるように脚を組み替え、商人の観察を続ける。
日に焼けた顔をしているものの、なるほど確かにマルダス人とは明らかに趣の違う顔立ちをしていた。かといってローディウムやその周辺国の人種とも違う。一見すると人間にしか見えないが、隠しているという前提で見てみると、ローブもターバンも少し不自然なほど大きいように見える。特にローブなど、身体の線が全く解らない。
ヴィルへルミネの探るような眼差しに気付いているだろうに、商人は意に介していないように鼻を鳴らした。
「よけいな真似はするなよ。少しでもおかしな真似をすれば⋯⋯解っているな」
商人はレーヴを抱える腕にぐ、と力を込めた。ヴィルへルミネは奥歯を噛み締める。
──まさか、人質のためだけに彼を連れてきたというの?
そんな思いが思考をよぎる。もしそうだとしたら、勝手にもほどがあった。
「そう、大人しくすることだ」
黙り込むヴィルへルミネをせせら笑い、商人はカンテラで改めてヴィルへルミネの姿を浮かび上がらせた。
揺らめく火の光が豪奢な黄金の髪を輝かせ、春の花のような紫の瞳は僅かな光源で艷やかに煌めいている。白い頬は青ざめているが、それでもなお滑らかな輪郭は目を惹きつけた。
──末恐ろしいな。
商人は内心そう思った。
十三歳ですでに人を惑わす美貌と色香を持っている皇女。成長すればどれほどのものになるのか、と期待させてしまう未成熟さも合わさって、男を惑わす相を宿していた。
商人がただの男であったなら、浮き足立っていたかもしれない。
「ローディウムの皇女、おまえに訊きたいことがある」
「⋯⋯わたくし、無礼者と会話するつもりはなくてよ」
ヴィルへルミネは鉄扇を広げ、優雅に微笑んだ。
「わたくしに質問したいのであれば、せめて名乗りなさいな。それさえできぬ者の質問に答える義理など無いもの」
「⋯⋯貴様に拒否権があると思うか?」
商人は眉をひそめ、見せつけるようにカンテラをレーヴに近付けた。
「素直に答えれば、両者無事に逃がしてやろうというのに」
「そんなことを言う悪党が、本当に無事に逃がした例は聞いたことが無いわね。出し抜きたいにしても、稚拙な発言だわ」
ヴィルヘルミネはあくまで余裕を崩さない。それにますます顔をしかめる商人だが、彼女には関係無かった。
「どうしたというの? 名も名乗れぬ臆病者。それとも名が無いのかしら。だとしたら悪いことをしたけれど」
「⋯⋯いいだろう」
ややあって、商人は馬鹿にしたように唇を緩めた。
「名乗ったところで支障は無い──私の名はシャオシン。リー・シャオシンだ」
「その響き⋯⋯龍帝国の出身ね」
「そうだ」
商人──シャオシンは頷き、目を細めた。
「さあ、今度こそ答えてもらうぞ」
「内容によるわ」
「ルゥリの居場所を話せ」
「⋯⋯は?」
ヴィルヘルミネはぱちぱちと睫毛を震わせた。
「ルゥリ⋯⋯レオーネのお母様?」
「そうだ。知っているのだろう!」
シャオシンはぐ、と顔を近付けた。怒鳴り声が銅鑼のように石の内壁を震わせる。
「なぜ、ルゥリ妃の居場所を知りたいの?」
「妃などと呼ぶな!」
シャオシンは更に顔を寄せ、ヴィルヘルミネを睨み付けた。両腕が塞がっていなければ、掴みかかっていたかもしれない。
「おまえはただ、彼女の居場所を教えればいいんだ。そうすれば見逃してやると言っているだろう!」
「⋯⋯はあ」
ヴィルヘルミネはわざとらしくため息をついた。
「淑女に対してなんて無礼な⋯⋯おまえのような慮外者、ルゥリ妃に近付けるわけがないでしょう」
「貴様っ!」
「レーヴ殿下」
突如、ヴィルヘルミネは意識の無い王子の名を呼んだ。
虚を突かれたシャオシンの腕を、激痛が走る。
「が、あ⁉」
痛みに呻くシャオシンの顔に、ヴィルヘルミネは素早く鉄扇の一撃を放った。頭部への容赦無い攻撃に、シャオシンはレーヴとカンテラを取り落とす。
衝撃でカンテラの火は消え、レーヴは地面に降り立った。
「殿下、こちらへ!」
ヴィルヘルミネが左手を差し出すと、ぱっちり目を開いたレーヴがその手を取った。
ヴィルヘルミネに意識を向け、カンテラの明かりも彼女に合わせていたシャオシンは気付かなかったが、レーヴもまた先ほど目を覚ましていたのだ。そこで視線で示し合せ、レーヴが噛み付くことでシャオシンの隙を突くことに成功したのである。
ヴィルヘルミネの攻撃により、シャオシンのターバンが外れた。その下から、長い黒髪が零れ落ちる。
黒髪の間からは、根本近くでぽっきりと折れた、ねじれた角が二本伸びていた。
ヴィルヘルミネは目を見開くものの、そんなことを気にしている場合ではない。レーヴの手を引っ張り、駆け出す。
「ぐ⋯⋯ま、待て⋯⋯!」
シャオシンの制止など、聞く道理は無い。
ヴィルヘルミネとレーヴは、全速力でその場を走り去った。




