九十
マルダスの王宮は幾つかの建物に分かれ、全てが廊下で繋がっている。主宮は謁見の間を始め、マルダスの政治の中心になっている建物だ。マルダス王の執務室も、この主宮にある。
ヴィルへルミネとレオーネ、ヴォルフは廊下を走り抜け、この主宮にたどり着いた。
そして、絶句する。王宮の中で最も広大かつ荘厳で、働いている人数も多いのが主宮だ。魔物が現れたと聞いた時点で嫌な予感はしていたが、そこにあったのは想像以上に酷い光景だった。
壁や床に飛び散った血と、無惨に破壊された装飾品。血の海に沈んだ者を足蹴に逃げ惑う人々を追うのは、炎をまとった魔狼五体である。
変異種と呼ばれる魔狼が、王宮の中に五体。異常事態以外の何ものでもなかった。
「こっちだ! 別宮に向けて逃げるんだっ」
レオーネは声を張り上げ、魔狼に向かっていった。そんな彼にヴィルへルミネは防護魔法をかけ、自らも前に出る。
水属性の妖精を呼び出し、水球を魔狼達にぶつけた。
「ヴォルフ!」
「はっ」
ヴィルへルミネの命令を受け、ヴォルフが手近にいた魔狼を斬り捨てる。その横で魔力を練ったヴィルへルミネは、レオーネに向けて声を上げた。
「どいてください!」
地面を蹴って場所を作ったレオーネの目前を、大量の氷のつぶてが通り過ぎていく。視線で追えば、魔狼達につぶてが刺さっていた。
ぎゃいんっ、と悲鳴を上げて倒れ込む魔狼達。一匹そこから逃れた魔狼がいたが、その首をレオーネの斧槍が捉えた。
吹き飛ぶ頭を見送った後、周囲を見回す。
「ここはこれだけでしょうか」
「奥にいるのかもしれません、行きましょう」
三人は頷き合い、主宮の奥へと走り出した。
───
主宮の奥には、マルダス王の執務室がある。普段はけっして騒がしくない場所だが、今や喧騒の空気に包まれていた。
その中を、ヴィルへルミネ、レオーネ、ヴォルフは疾走していく。途中すれ違う人々には、別宮に逃げるよう誘導するのも忘れない。
主宮の奥にいたのは、雷をまとった魔猪だった。
魔猪は文字通り猪によく似た魔物である。だがその大きさは猪などよりふた回りも三回りも大きく、牙は槍のように鋭い。突進されれば、人間などひとたまりもなかった。
そんな魔猪が、なんと四体もいる。
「な⋯⋯」
ヴィルへルミネは絶句した。
魔猪は本来、斜面の多い森や山の奥に住んでいる。また魔狼とは違い群れることはなく、せいぜい家族単位で動く程度だ。
そんな魔猪が、それも雷をまっていることから変異種が、四体群れて存在していることに、嫌な予感が確信に変わってしまった。
すなわち、何者かが王宮に魔物を放ったということである。
「動きを止めます!」
何はともあれ、最大の脅威である突進力を止めねばならない。ヴィルへルミネは土属性の妖精を呼び出し、床に触れた。
大理石の床は、自然から削り取られたものである。ゆえに魔法の干渉も受けやすい。
「”大地に還れ”」
そう唱えたとたん、床はびきびきと音を立てて割れ出し、魔猪の周囲を覆った。次いで、その足元が陥没する。
「ぶもぉぉ⁉」
聞き苦しい悲鳴を上げて、陥没に飲まれる魔猪達。巨体なのが仇となり、そこから抜け出すことができない。
そこにレオーネが炎を投げ入れた。完全に制御された炎は、魔猪達のみを燃やしていく。炎が消え去った後、まだうごめいている魔猪の首に刃を入れて、完全にとどめを刺した。
動かなくなったのを確認し、レオーネは周囲を見回す。
魔物らしき影はもうなく、人影や気配も感知できない。
「これで、全部か⋯⋯?」
「いえ、十体以上と戦士は言っておりましたわ。わたくし達が斃したのは九体──戦士達が斃したにしても、少ないです。それに、終わりと思うよりまだいると思った方が、油断はしづらいかと」
「ですね」
三人の中で最も実戦経験が豊富なヴォルフが頷いた。
「ひとまず、国王陛下の安否を確認しましょう。この時間帯、主宮にいらっしゃるんですよね?」
「そのはずだ。執務室にいないということは⋯⋯謁見の間かもしれない。急ごう」
レオーネが謁見の間へと足を向けた時だった。
ころり。
三人の足元に、六面体の鉄塊が転がってきた。それを見た三人は、目を見開く。
ミミネア・トゥファがレオーネを拘束するのに使った魔道具に、よく似ていたのだ。
「逃げっ⋯⋯」
レオーネが声を発するも、その途中で六面体から閃光が放たれた。思わず目を閉じながらも、ヴィルへルミネはとっさに魔法による障壁を張る。
だが、それで守れたのは自分だけである。
どさり、と倒れるレオーネとヴォルフ。閃光が収まり、それを視認したヴィルへルミネは障壁を解除した。
「大丈夫ですか⁉」
そしていつぞやの時のように、呼び出した蔓草で雷の帯を断ち切ろうとした時だった。
「⋯⋯⁉」
突如、足元が揺れるような感覚があった。次いで、ぐい、と引っ張られる。
ヴィルへルミネが視線を巡らせると、影のような触手が、足元から伸びてきている。まるで底なし沼に引きずり込まれるかのような気持ちの悪さ。
「っく⋯⋯!」
その中でとっさに行ったことは、蔓草によってレオーネとヴォルフの拘束を解除することだった。
自由になった腕をこちらに伸ばすレオーネの姿が視界に映る。だがそれも黒に塗り潰された。
──一体、何が起きているというの⋯⋯?
そんな疑問を最後に、ヴィルへルミネの意識もまた黒に飲み込まれた。
───
ヴィルへルミネが影のような触手に飲まれた瞬間、レオーネは動かない手足を何とか動かそうとした。
だが動けるようになったのは、ヴィルヘルミネが一瞬の隙で解放してくれたからで、もうその時には彼女に手が届かなくなっていた。
とぷり、と影ごと沈んで消えたヴィルヘルミネ。後に残ったのは、ただの大理石の床だ。ヴィルヘルミネがいた痕跡は、一切残されていない。
「殿下⋯⋯⁉」
ヴォルフが愕然とした声を上げる。その声を遠くで聞きながら、レオーネは呆然と床を見つめた。
──ヴィルヘルミネが消えた⋯⋯?
──あれは魔法なのか? だとしたらどんな魔法だ?
──手、届かなかった。拘束されていたせいで。
──ヴィルヘルミネ、どこに行ったんだ?
──誰が、ヴィルヘルミネを連れていった?
「⋯⋯探さなければ」
呆然と呟いた声は、自分のものとは思えないほど低かった。
まるで、地獄の底から轟いているように。




