八十六
深夜、マルダス王は物音で目が覚めた。
はっとして身体を起こすと、柑橘を酒精に漬けたような甘い匂いが鼻をかすめる。その匂いを認識した瞬間、くらりと目眩を覚えた。
「何だ、この匂いは⋯⋯」
こんな匂いの香を使った覚えが無い。定まらない視線を彷徨わせると、薄暗がりの中から女がひとり姿を現した。
「貴様は⋯⋯アミラ妃⋯⋯」
「ご機嫌よう、陛下」
白い薄衣をまとったアミラは、嫣然と微笑んだ。
「あたし、陛下にお願いがあって来ましたの」
女──アミラは滑るように近付くと、ベッドに乗り上げた。
「陛下⋯⋯」
僅かな光源で身体の線が透けて見える。女性的な豊満さから目を逸らせば、涙で濡れるルビーの瞳が視界に飛び込んだ。
艶やかな美貌を涙で彩ったアミラは、柔らかな身体をマルダス王に寄せた。その身体から、ずっと漂っていた匂いが強く香る。
その瞬間、マルダス王の思考は真っ白に塗り潰された。
───
マルダス王宮は騒然とした。それというのも、マルダス王が出したふたつのお触れのせいである。
ひとつは、第四側妃であるルゥリとの離縁。これに関しては、やっとか、と考える者が多数だった。何しろルゥリは用意周到かつ念入りに準備をした上で姿を消したのである。レオーネのことがあったとしても、側妃とし続けるのはもはや無理に等しかった。
問題は、もうひとつである。
「陛下、どういうおつもりですか⁉」
早朝、先触れも無く正妃が執務室に乗り込んできた。前に訪れた時にあった冷静さは消え去り、青ざめた顔でマルダス王に迫る。
「アミラ妃を自身の妃にするなど、正気ですか⁉」
朝から発布されたそのお触れに、正妃は起きて早々ベッドに逆戻りしそうになった。それを何とかこらえ、マルダス王の執務室に向かったのである。
一方、突然の襲撃を気怠そうに迎えたマルダス王は、どこかぼんやりとした表情で言った。
「そうだ。リエーフとは離縁させるのだから、特に問題は無かろう」
「大有りです!」
正妃は眉をしかめた。
「確かに彼女にも不自由無く生活できるよう取り計らう必要はあるでしょう。ですが、それと彼女を娶ることは別問題です!」
「うるさい! これはもう決定事項だ。文句を言うようなら、貴様を側妃に降格させてもいいのだぞ」
「それは別に構いません」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯は?」
歪んだ笑みを浮かべかけていたマルダス王は、虚を突かれた顔をした。一方の正妃は、呆れたようにそんな顔を見つめる。
「わたくしが正妃の座に固執していると思っていらっしゃったの? 確かにリエーフとレーヴのことを思えば、正妃という立場は重要でしたが──あの子達の後ろ盾になるなら、側妃でも充分ですわ。わたくしの出身家門は、その程度の力はございますしね」
「な⋯⋯な⋯⋯」
「何なら、わたくしも離縁しても構いませんわよ。所詮わたくし達は政略結婚ですもの。なら政略で離縁しても、なんら問題ありませんわ」
「っ⋯⋯⁉」
言葉を無くすマルダス王を、正妃は冷たく睨み付けた。
「我が家門の権勢を一番必要としているのは、貴方自身でしょうに⋯⋯なぜそのようなことを言うのやら。さあ、アミラ妃の件を撤回なさいませ。まさか彼女の色香に惑ったというわけではございませんでしょう?」
正妃がそう言った瞬間、マルダス王の顔色が変わった。視線があらぬ方向を凝視し、唇を引き結ぶ。それを見て、正妃の眉が吊り上がった。
「⋯⋯呆れた。まさか本当に色香に惑ったというのですか。第四側妃を無理に娶った時もそうでしたわね! まさか強引に床を共にしたのですかっ」
「違う! 誘ってきたのはあちらだっ」
それは盛大な自爆だった。その言葉に、正妃のカーネリアンの瞳が憤怒に燃え上がる。
「⋯⋯貴方は本当に見下げた方ですわ。それが本当ならアミラ妃の品性も疑いますが、それに乗った貴方も最低ですわね」
「それは⋯⋯わしは、わしは⋯⋯」
「言い訳は結構。そういうことでしたら、撤回はしなくてよろしい。ですが、わたくしとの離縁も考えていただきますからね」
正妃はマルダス王に背を向けた。
「⋯⋯運命の番を寝取られたリエーフに、寝首をかかれなければよろしいですわね」
そんな恐ろしい一言を残して。
───
王宮内にある正妃宮に戻ってきた正妃を迎えたのは、不安な表情をしたレーヴだった。
「母様、アミラ妃の件は⋯⋯」
「それは」
正妃は一瞬、幼いレーヴに聞かせるには酷ではと考えた。
だがレーヴは幼くとも継承権は第二位。リエーフの件もあって、最も王位に近い人物である。それに隠していたとしても、どこからか漏れ聞く可能性は高い。
それなら変に脚色される前にと、正妃はなるべく簡潔に、淡々と聞こえるように意識して事実を話した。
最初、レーヴは唖然としていた。だが徐々に表情を怒りに染め、自身の胸元をぐっと掴んだ。
「父様もアミラ妃も⋯⋯! リエーフ兄様や母様を何だと思っているんだ⁉」
「レーヴ」
「母様、離縁の際は僕も付いていきます。母様の言う通り、臣籍降下さえしなければ問題無いのですから」
「ありがとう。ですがそれだと、レオーネ王子がひとり取り残されることになります」
正妃は首を降った。
「あの子は王位を望んでいない。それに王位争いを起こすことも本意ではないでしょう。あの子はただ、魔法というものをマルダスに広めたいだけなのだから」
「それは……そうですけど」
「あの子が帰ってきたら、その辺りの話し合いをしましょうか。ルゥリ妃の離縁は彼も望むところでしょうが、すり合わせはしておきたいですから」
「はい」
頷いた息子を確認して、正妃はするべきことを整理しようと執務室に向かった。だがその途中、厳しい顔をした戦士団長に行き会う。
「正妃殿下にご挨拶申し上げます」
「ええ。⋯⋯どうしたの?」
正妃宮で戦士団長と偶然行き会うだなんてありえない。その上手紙らしきものを手にしている。正妃は嫌な予感を押し殺して尋ねた。
ここではさすがに、と言う戦士団長を執務室に連れていき、彼が手にしていた手紙を渡される。レオーネから、戦士団長に向けてのものだった。
手紙に視線を走らせた正妃は、再び気が遠くなるような感覚を味わうことになる。
「これは⋯⋯本当なのですか?」
「裏取りはまだですが、字は王子殿下のもので間違いありません。あの方が嘘を書く必要も無いでしょう」
「そう⋯⋯ああ、なんてこと」
手紙にはレオーネが毒矢で射たれたこと、それがリエーフの指示によるものだったこと、毒を用意したのはリエーフの御用聞き商人であることが書かれていた。まさか、という驚愕で視界がぐらぐらと揺れている。
リエーフの御用聞き商人のことは、正妃も知っていた。怪しい雰囲気を感じていたため付き合いを見直すように言っていたが、聞き入れられることはなかった。
無理矢理にでも引き離すべきだったと、今更ながら悔やまれる。
「件の商人を探しなさい。ただし、秘密裏によ」
「了解いたしました」
戦士団長が頷くのを確認し、正妃は頭を抱えた。
だが、商人の行方はここからぱったりと解らなくなる。
不自然なほど、その足取りは消え失せたのだった。




