七十四
ぱりん。
突如頭の中で響いた音に、ヴィルヘルミネは思わず立ち上がった。
「殿下?」
シュネーが驚いて振り返る。ぱたぱたと駆け寄ってくるシュネーに、ヴィルヘルミネはすがりついた。
「レオーネが」
「レオーネ殿下が、どうかしましたか?」
「レオーネに、何かあったようなの」
ヴィルヘルミネは胸の前でぎゅ、と手のひらを握り締めた。
ギルエルフィネの王太子任命式の日にかけた、レオーネを守るための加護。それが発動したのを感じ取ったのだ。
それを説明されて、シュネーは戸惑った。
「それって⋯⋯レオーネ殿下に命の危機があったということですか?」
「ええ。何が起きたのか解らないけど⋯⋯何かがあったのは確かだわ」
シュネーに促され、ソファーに腰を下ろしたヴィルヘルミネは、細いため息をついた。
「無事、なのは確かよ。でも、でも⋯⋯」
「心配、ですよね」
「ええ。一体何があったのか⋯⋯」
ヴィルヘルミネはしばらく考え込んだ後、先触れを出すように頼んだ。
「皇帝陛下ですか?」
「いえ、今回はお母様にお願い」
「かしこまりました!」
出ていくシュネーを見送り、ヴィルヘルミネはぐったりと背もたれに倒れこんだ。
加護を付与したのは、保険のためだった。そもそもきっかけは、ミミネア・トゥファの一件である。
それが、こんな遠く離れた時に役立つとは思わなかった。
「レオーネ⋯⋯貴方に何があったの?」
答える者がいないことを理解しつつ、そう呟かずにはいられなかった。
───
皇妃の執務室に訪れると、ミカエルシュナが難しい顔で出迎えてくれた。
「ヴィルヘルミネ、貴女”神の加護”をレオーネ殿下に与えていたのね」
挨拶もそこそこに、ミカエルシュナはそう言った。
「いけませんでしたか?」
「いいえ。わたくしも結婚前に陛下にかけたことがあるもの、それはいいの。問題は、それが発動したという事実の方よ」
「⋯⋯レオーネの身に、何かが起きたということですわよね?」
「そうね。何かしらに害されたのは確かだわ。魔物による攻撃ならいいけど──人間の場合、かなり厄介だわ」
「レオーネを排除しようとする者がいると?」
もしその場合、一番疑わしいのは第一王子派だろう。
リエーフが王太子を解任されたのは、正式な書簡で通達されている。理由は書かれていなかったが、公文書の偽装によるものだということはローディウム側にとって公然の秘密と化していた。
王太子派もとい第一王子派は、相当な打撃を受けただろう。リエーフが王太子に返り咲くには、かなり大きな功績が必要になってくる。たとえ返り咲いたとしても、公式の書類を改ざんするような者を信用するはずがない。どうあがいても、リエーフが落ち目になるのは避けられないのだ。
だが、そのせいでレオーネを逆恨みしたり、彼を排除すればいいという短絡的な発想をする者がいないとも限らない。
そんな人間に害されたとしたら。
「加護による蘇生は一度だけ。もし同じことが起きたとしたら、自力で身を守るしかないわね」
「っ⋯⋯そう、ですわね⋯⋯」
ヴィルヘルミネは言葉を詰まらせ、しかし深呼吸することで精神を落ち着かせようとした。
それでも、不安と手の震えを抑えることができない。胸元で握られたヴィルヘルミネの拳を、ミカエルシュナは優しく包み込んだ。
「心配しないで───と言っても、貴女の不安を払拭できないでしょうね」
「お母様⋯⋯申しわけありません。わたくし、弱くて」
「いいのよ。それは弱さによるものではないの。それほど、貴女にとってレオーネ殿下が大切になっている証拠よ」
ミカエルシュナは微笑みながら、ヴィルヘルミネの頭を撫でた。
「どれだけ強くても、信頼する相手だとしても⋯⋯心配したり、不安になったりするのは当たり前なの。わたくしだって陛下──ユリウス様のことを送り出す際は、心配してしまうもの」
「お父様を⋯⋯? でも、お父様は」
「ええ。とても強いわ。きっとこの国で一番強い人。でも、わたくしにとってあの人は大切な夫。そんな彼を心配するのは、当然の気持ちよ。信頼と心配は同居するの」
だから、とミカエルシュナはヴィルヘルミネの目をじっと見つめた。娘すら見惚れる神秘的な美貌には、優しい表情が浮かんでいた。
「その気持ちを弱さだと切り捨てては駄目よ。盲目的に信じることと信頼は、同じではないのだから。不安、心配を忘れてはいけないの。いい?」
「⋯⋯はい」
「よろしい。⋯⋯とはいえ、問題は解決していないわね」
ミカエルシュナは笑みを消し、眉をひそめた。
「一応マルダスの情報は探っているけど⋯⋯もう少し深く探った方がいいかしらね」
「深く?」
「今は様子をうかがう程度なのだれど⋯⋯中枢の情報も収集する方がいいわね。陛下やギルエルフィネとも相談して、マルダスの優先順位を上げて、それから⋯⋯」
ぶつぶつ呟くミカエルシュナに、ヴィルヘルミネはこれ以上自分にできることは無いと悟った。
自領ならともかく、ローディウムでの権限は、ヴィルヘルミネには無い。その辺りはユリウスやミカエルシュナ、ギルエルフィネに頼るしかないのだ。
──レオーネ、どうか無事で。
今できることは、婚約者の無事を祈るだけ。
心配は弱さの証ではないとミカエルシュナは言ってくれたが、ヴィルヘルミネに使える力が少ないからこそ、自分の婚約者の安否を調べることすらできないのである。
己の無力さに、ヴィルヘルミネは歯噛みするしかなかった。
───
「⋯⋯う、ぐ⋯⋯?」
草の臭いと肩の激痛で、レオーネは目が覚めた。どことなく嗅ぎ慣れたそれに、肩をかばいながら頭をもたげると、少し離れた場所から声がかかる。
「あ、目が覚めたんですね」
落ち着いた雰囲気の、大人の女性の声だった。どこかで聞いたことがあるような音を持ったそれに、レオーネは視線を巡らせる。
「⋯⋯は?」
そして視界に入れた女性に、レオーネは唖然とした。
艶やかな黒髪に、小麦色の肌、ルビーのような紅い瞳。
美しい面立ちは、兄リエーフの妻によく似ている。
だが兄嫁アミラとは違い、使い古した服をまとい、妖艶さも豊満さも無い。
美しいがどこか疲れた雰囲気の、儚い印象の女性だった。
「目覚めてよかった。二日も目覚めなかったんですよ」
アミラによく似た女性は、心底ほっとしたようにそう言った。




