百十
帰国後、ヴィルヘルミネは叙爵の準備に取りかかった。
もともと持っていた所領はそのまま公爵領となり、同時に臣籍降下するために必要な書類も取り揃えなければならない。
とはいえ、ヴィルヘルミネはまだ十三歳。成人である十六歳までは親の庇護下にいなければならないため、臣籍降下もまた三年後だ。こちらは急いですることはない。
ただ、皇族ではなく公爵──つまりヴィルヘルミネ自身の所領となるなら、書き換える書類も多ければ関わる法律も多くが変わっていく。もともと少しずつ教えられていたそれらを一気に頭に叩き込む必要があったため、さすがのヴィルヘルミネもすっかり参ってしまった。
「公爵領になるなら税金が必要で、毎年十パーセントの納税義務があって、民にかかる税の上限が⋯⋯」
「ヴィルヘルミネ、お茶の時間ぐらい勉強は忘れなさい。休憩の意味が無いわ」
ミカエルシュナはそう言ってたしなめた。
時間を忘れて勉強にいそしむ娘のために休憩も兼ねてお茶に誘ったのだが、法律の本を手元から離さないことに、ミカエルシュナは呆れた。
「最初から完璧にできるものではないわよ。あと納税義務のところ、必ず十パーセント払わなければならないわけじゃないわよ。例外事例は二百四十二ページね」
「えっ」
「はい、お勉強は終わり。ほら、このケーキ、料理長の新作なの。おいしいわよ」
差し出された艶々の紅いケーキを見て、ヴィルヘルミネの意識は教本からケーキに移った。まだまだ甘い物に目が無い年頃である。
「⋯⋯気持ちは解るけれどね。地位にふさわしい知識と教養を身に着けなければと、焦るわよね」
どこか実感を込めた言葉に、ヴィルヘルミネは顔を上げた。
「お母様も、そうだったのですか?」
「ええ。わたくしは、妃教育を短期間で修めねばならなかったから⋯⋯それも、皇太子妃を飛ばして、皇妃としての教育よ。周囲の期待もあって、重圧は凄まじかった」
ミカエルシュナがユリウスに出会った時点で、彼はすでに皇帝だった。数年妃不在の状況も相まって、ミカエルシュナに対する期待は高かったらしい。
ユリウスに妃がいなかったのは、国内貴族の汚職などの膿出しと、それによる総数減少によるもので、それが終われば早急に妃を、と言われていたそうだ。そんな中で現れたミカエルシュナは、どこの貴族家門にも繋がっていない、だが貴族としての教養はある、それでいてカルンシュタイン家が求める武も備えた、まさに完璧な存在だった。逃がしてなるものか、とむしろ周囲の方が躍起だったそうである。
「普通、皇帝が望んでも周囲がいい顔をしないのでは?」
「それだけ陛下の妃選びに難航していたのよ。候補者がことごとく汚職に関わっている貴族家門だったし⋯⋯実は、外国から招くことも考えていて、それがマリーヌ・ティレシス様だったそうなの」
「え? あの聖人の?」
「ええ。もっとも、その立場や、ご本人が未来を垣間見たこともあって、流れてしまったそうだけど⋯⋯確か」
”皇帝陛下の運命の人は、ほかにいらっしゃいます”
「運命⋯⋯」
ヴィルヘルミネは息を飲んだ。まさかそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「先に言っておくと、わたくしも陛下も、運命というものを信じていないの。ただ、運命的だったとは思うわ。今思い返すと、だけど」
「そうなんですか?」
「だって、運命というのは他者が判断するものでしょう? そこに至るまでに、多くの選択肢があって、そこには人の意思が介在する。その結果が、人が運命と呼ぶものなのだと思うけど⋯⋯自分の選択を運命で片付けられるのは、あまりいい気持ちではないわ。運命的と思うぐらいがちょうどいいの」
「そうですね」
ヴィルヘルミネは頷いた。
ヴィルヘルミネとレオーネも、運命と名の付いた繋がりを持っているが、運命そのものを妄信して婚約したわけではない。そもそも運命だから互いを好きになったわけではない。それはユリウスとミカエルシュナも同じのはずだ。
運命というきっかけは、確かにあったのだろう。それが運命的だったという振り返りも、間違ってはいないのかもしれない。
だがそこから互いを選んだのは、自分達の選択だ。それさえも運命だと言うのは、どうにも受け入れがたかった。
「ユリウス様の手を取ったのも、皇妃になることを決意したのも、運命に定められていたからではなく、わたくしの選択、意思。だからどれだけ辛くても、耐えることができたわ。何より、ユリウス様──陛下が、わたくしのことを支えて、わたくしを迎えるために頑張ってくださっていたのを知っていたから、わたくしも頑張れたの」
「お父様は、お母様を愛してらっしゃいますもの」
「ええ、ありがたいことにね。でも、愛だけで乗り越えられるものでもなかったわ。互いを愛しているからって、生半可な覚悟と努力でなれるものでもなかったし」
「それは、そうですね」
「ええ。必要だったのは、何が何でもやり遂げるという覚悟と、互いを思いやり、支える信頼ね。でも、だからって休める時に休まないと、身体を壊してしまうわ」
ミカエルシュナの言葉に、ヴィルヘルミネははっとした。
「もしかして、お父様もこのようにお母様に休憩を促して⋯⋯?」
「ええ。お互い根を詰め過ぎないようにと、休憩の時間を合わせてくださったの。そんな風にしてくださるからこそ、わたくしもより一層勉強に身が入ったのよ」
照れたように頬を染め、軽く目を伏せるミカエルシュナ。その様子は、娘から見てもため息が出るほど美しく、また三人の子供がいるとは思えないほど愛らしい。
──この姿を見たお父様も、さぞ癒されたでしょうね。
若い頃の両親を思い浮かべ、ヴィルヘルミネは遠い目になった。実の両親の熱愛ぶりに、どう反応すればいいのか解らない時がある。
「こほん。⋯⋯何が言いたいかというと、何ごとも詰め過ぎてはいけないということよ。公爵として独り立ちするのはまだもう少し先なのだから、ゆっくり学んでいきなさい」
「はい⋯⋯」
誤魔化すように咳払いしたミカエルシュナに頷き、ヴィルヘルミネはケーキを頬張った。
「⋯⋯おいしい」
「でしょう?」
嬉しそうに微笑みながら、ミカエルシュナはヴィルヘルミネの頭を撫でた。
「大丈夫。貴女は一歩ずつ前に進んでいるわ。だから焦ることなく積み重ねていきなさい。貴女はそれができる子でしょう?」
「はい」
「よろしい」
ふふ、と笑うミカエルシュナは、紅茶を一口飲んだ。
「ところで、結婚式はローディウムで行うことになるでしょうけど、マルダスでお披露目はするのかしら?」
「そのつもりですわ。まだその辺りの話は、していないのですけれど」
「さっきはゆっくりと言ったけど、時間が有限なのも事実だわ。手紙でのやり取りだけになるのだから、しっかりレオーネ殿下と話し合いなさいね」
「はい」
返事を返して、ヴィルヘルミネは窓の外を眺めた。
今レオーネは、何をしているのだろう、と思いながら。




