百七
リエーフはよろよろとアミラに近寄った。
「アミラ⋯⋯嘘だろう? 父上の妃になるなど、そんな⋯⋯」
「リ、リエーフ」
アミラは距離を取るように後退した。リエーフの焦点の合っていない目が、恐ろしく感じたのだ。
「嘘だと⋯⋯嘘だと言ってくれ!」
「っきゃ」
そのまま飛びかかろうとしたリエーフに、アミラは悲鳴を上げる。だが触れる直前、ヴィルヘルミネによって呼び出された蔓草によって、リエーフは雁字搦めにされた。
「あ、えっ」
「女性に何をなさろうとしたのです、王子殿下。わたくしの目の届くうちは、不埒な真似はさせませんわよ」
「こ、皇女殿下には関係無い! これは、俺達夫婦の問題だっ」
リエーフは何とか蔓草から逃れようともがいた。だが、蔓草は彼の想像以上の頑丈さで、片腕となった今ではどうしたって逃れることができない。
「解りましたか、兄上。これがアミラ妃の本音なんです」
リエーフの後から部屋に入ってきたレオーネが、ヴィルヘルミネの隣に立った。それを見て、アミラの目が輝く。
「レオーネ! 助けに来てくれたのね」
「⋯⋯このように、彼女の品性は決して褒められたものではない。男に媚びて、甘い蜜をすする、そんな女性です。その生き方を否定するつもりは無いですが⋯⋯少なくとも、これからの兄上を支え続けるのは無理でしょう」
「それは! だが、だが⋯⋯」
リエーフはレオーネの言葉に反発しようとした。だが、すぐに力無くうつむき、それ以上何も言えなくなってしまう。
そんな彼に憐みの眼差しを向け、レオーネは首を振った。
「兄上、確かにアミラ妃は兄上の運命の番です。けれど、このまま一緒にいても幸せになれませんよ」
「そんなことは⋯⋯」
「なら兄上は、自分のことを愛してくれない、ほかの男に甘える彼女を見ながら、これからの人生を送りたいのですか。それとも、彼女が貴方と別の男を選ぶまで粘るおつもりですか」
どちらにしても、リエーフを待つのは運命の番に愛されないという地獄だ。はたしてそんな状況にリエーフは耐えられるかどうか。
リエーフはしばらく言葉を無くしていたが、やがてぎろりとレオーネを睨んだ。
「おまえだって、運命の番と結ばれているくせに、俺達のことは引き離すつもりか?」
「俺達と貴方達では、状況が違います」
レオーネはしかし、怯むことはなかった。
「俺達は互いのことを知るために歩み寄り、努力してきました。貴方達はどうですか? 互いを知って、何を望んでいるのか話し合って、どうすればいいのかを考えましたか? それをしていれば、少なくとも離縁なんて話にはならなかったはずです」
レオーネの言葉に、リエーフは何も言えなくなってしまった。
運命の番に出会えたことに浮かれきって、アミラに言われるがまま与え続けた。彼女といると心が満たされて、その望みを叶えることは当然のことのように思えた。
だが、リエーフの望みが叶ったかと言われると、それは否としか言いようがない。
アミラを連れていったせいでヴィルヘルミネとの婚約はまとまらず、レオーネにかっさらわれた。
子供は宿ったものの、自分達の不注意で流れてしまった。
王太子としての地位は剥奪され、今は廃嫡される寸前まで行っている。
リエーフが望むまでもなく手に入っていた幸福は、ことごとくその手がこぼれていった。
──それでも、アミラまで失えば、自分は狂うかもしれない。
リエーフは背筋を撫でる恐怖におののいた。
「た、頼む⋯⋯頼む、アミラ」
リエーフは動けないまま、可能な限り頭を下げた。
「俺から離れないでくれ。いなくならないでくれ。俺には、もう⋯⋯おまえしかいないんだ⋯⋯」
「リエーフ⋯⋯」
「おまえが望む贅沢はさせてやれないかもしれない。いや、こんな身体では、おまえの望むことはほとんどしてやれないだろう。それでも⋯⋯俺には、おまえしかいないんだ⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
アミラは答えない──答えられない。
先ほどまで、国王の妃になることが、一番の幸福だと思っていた。
だが、ヴィルヘルミネから突き付けられた現実が、アミラの熱を冷ましてしまった。
男を魅了する美貌と身体を持つアミラ。だがそれらがなくなれば、何者でもないアミラ。問題無いと胸を張れる技能が無いアミラ。
──姉さんは、どうだったっけ。
アミラはふと、置いてきた姉を思い出した。
アミラと違い、人前に出ることは得意ではなく、また運動能力も高くはなかった姉シャフナ。その代わり頭がよく、母の薬師としての技術を充分に受け継いでいた。
アミラほど蠱惑的ではないにしろ、シャフナも美しい容姿をしていて、しかしそれに惹かれた下卑た男をあしらうことも得意だった。もっとも、そんな技術は貧民街の女達のたしなみのようなもので、シャフナが特別うまかったわけではないのだが。
そんな姉は、おそらく美貌が無くなっても困らないと言うだろう。もともと、自分の顔に頓着しない性格だった。泥が跳ねようが薬草の汁が付こうがお構い無し。彼女なら、笑って薬師の腕があると答えるだろう。
一方のアミラは、何も無い。踊りの技術はあるものの、それらはアミラの美貌と身体ありきだ。他者に教えられるぐらいはできるかもしれないが、やったことはないので解らない。
何も無いのだ──今、目の前にいるリエーフ以外は。
自分を運命の番だと言ってくれる、この獣人以外は。
「⋯⋯少し、考えさせて」
そう絞り出すのが、精いっぱいだった。
───
アミラの居室を出たヴィルヘルミネとレオーネは、解放したリエーフを侍女と近衛戦士に任せ、肩から力を抜いた。
「もっと暴れるかと思いました」
「ですね。⋯⋯どう思います?」
「はい?」
ヴィルヘルミネは首を傾げてレオーネを見上げる。レオーネは、複雑そうな顔をしていた。
「兄上とアミラ妃です。どうなると思いますか? 俺としては、このまま離縁した方が兄上のためになると思いますが」
勿論、精神安定のために抑制薬を飲み続けなければならないだろう。だが無理に夫婦でい続けるより、離縁して他人になった方が、リエーフにとってもアミラにとってもいいはずだ。
勿論、マルダス王の正妃になるのは論外だが、どこかの金持ちに嫁がせるぐらいさせて、両者を完全に引き離せば、どちらも諦めがついて、次に目を向けられるのではないか。
「⋯⋯レオーネの言うことはもっともです。ふたりは夫婦として破綻してしまっている。それもアミラ妃によって一方的にです。彼女といることは、第一王子殿下にとってマイナスにしかならないでしょう」
でも、とヴィルヘルミネは言う。
「たとえ結果が変わらなくとも、どちらか⋯⋯あるいは片方だけでも変化があれば、救いがあったと思うのです。わたくしの、自己満足かもしれませんが」
ふたりに対して、思うところは確かにある。だが、ふたりはシャオシンの被害者でもあるのだ。
シャオシンがいないければ、出会わなかったふたり。
同時に、シャオシンがいなければ不幸にならなかったふたり。
リエーフとアミラは、自分とは関係無い理不尽な理由で現状に至ってしまったのである。ならばひとさじの救いがあってもいいのではないだろうか。
「⋯⋯そうですね。少しは変わってくれたら、いいと思います」
レオーネも頷き、淡い微笑みを浮かべた。




