旧懐の詩(前編)
「ま、誠に申し訳ございませんでした!」
「え、ええと……取り敢えずお顔を上げていただけませんか?」
「な、ななななりません!そ、そそそっ、そのようなことが、わ、私に許されるなど……!」
霞琳は困惑していた。
栄節の拡声器役の侍女が、つい先程女官長の執務室を訪ねてきた。そして室内に踏み入るなり土下座をしてから、ずっとこの調子である。
立ってくれと言っても、顔を上げるよう促しても、それは駄目の一点張りで平身低頭の姿勢を頑なに崩さない。心なしかどもりもいつもより酷い。
「あの……ではどのようなお返事をしたら体を起こしてくださいますか?」
「ば、ばばば罰をお与えください!」
「……罰?」
「はい、ば、ばばばっ、罰です!」
霞琳は彼女の前で立ち尽くしたまま、益々困惑した。
霞琳には侍女に罰を与える理由がない。そもそも彼女は栄節の侍女であって宮女ではないため、後宮内のルールを甚だしく逸脱するなどといった特別な事情でもない限り、女官長には罰を与える権限もない。
だが、罰を与えねば梃子でも動かぬ様子の侍女に、霞琳は溜息を吐いた。
「……では、ご希望通り罰を与えましょう。」
「は、はい!」
「顔を上げなさい。」
「は、はい!」
侍女は勢いよくがばっと顔を上げ、緊張した表情を浮かべる。
成程、物言いがお願いのスタンスだと聞き入れてはくれないが、命令調であるなら受け入れてくれるようだ。
「起き上がりなさい。」
「はい!」
すくっと立ち上がる。次はどうすればいいのか、と更なる指示を待つ眼差しが問いかけて来る。
これほど意欲的な表情で罰を受ける者など見たことも聞いたこともないのだが、ここで冷静になったら負けのような気がして、霞琳は”罰”を与え続ける。
「そちらに座りなさい。」
「はい!」
侍女は霞琳に示されるまま応接用の椅子に座った。それを見届けてから霞琳も向かい合う位置に腰を下ろす。
「では貴女にはいろいろとお話をしてもらいま――……いえ、私の質問には全て答えなさい。」
「か、畏まりました!尋問ということですね……た、耐えてみせます!」
耐えるんかい。自分から罰を求めておきながら何たる矛盾。
尋問に耐えるという表現は口を割らぬと宣言するも同然だが、恐らくこの侍女はそこまで深く考えていない。その証拠に両手をぐっと握り締め、相変わらずやる気に満ちた顔をしている。
霞琳は妙な疲労感を覚えた。いろいろと突っ込みたい気持ちをぐっと飲み込む。跪かれたままでは埒が明かなかったが、どうにか会話をする体勢に持ち込めたのだ。余計なことを口にして、また状況を逆戻りさせるわけにはいかない。
「……では、質問……いえ、尋問です。」
「は、はい!何なりと!」
「貴女は何についての謝罪と罰を受けるためにいらしたのですか?」
「……先日の、その、御無礼の件です。つ、つい感情的になり、女官長様に失礼なことを申し上げてしまいました。曹昭媛様からも窘められまして……。」
ああ、と霞琳は漸く思い至る。どうやらこの侍女は、栄節が流産した時の発言を詫びに来たようだ。
――栄節の子が命を落としたことを残念だなんて思っていないくせに。
――嬌麗と親しいから、栄節の懐妊を快く思っていなかったのだろう。
――栄節の妊娠に気付きながら、適切な対応をせず知らぬ振りを決め込んでいた。
そんな内容を一方的に浴びせられ、確かに霞琳はショックを受けはした。だが、多少ではあるものの事実だと認めざるをえないところもあるために罪悪感の方が遥かに大きく、寧ろ自分こそ栄節に陳謝する必要があると考えていたくらいだ。
故に、まさか侍女から先に謝罪をされるとは思っていなかった。そもそも必要すらないと感じている。況してや罰を与えるつもりなど毛頭ない。
「その件については、こちらからお話に伺うつもりでおりました。ただ、曹昭媛様のお加減が良くなるまではと、控えていたのです。」
「左様でございましたか。……あ、あの、そのお話というのは、私の無礼について主である曹昭媛様にまで類が及んで……というものではございませんよね?失礼を働いたのは私ですから、ば、罰ならどうか私だけに……!」
「……落ち着いてください。妃嬪という高貴なお立場の御方に、たかだか女官長が罰など与えられるはずがありません。」
「よ、よかった……です!」
心底ほっとした表情を浮かべ、侍女は肩の力が抜けたようだった。ずっと空気を張り詰めさせていたのは、己の失態が栄節に悪影響を及ぼすまいかと懸念してのことだったらしい。主人思いのその姿は、霞琳にとってとても好ましく感じられた。
「では次です。曹昭媛様のご懐妊について、侍女の方々は最初からご存知だったのですか?」
「は、はい……多分そうだろう、とは感じておりました。」
「それを秘していた理由は?早く医官に診てもらっていれば、より適切な対応もできたと思うのですが。」
「……後宮入りにあたり、周囲の者を信用してはならないと李太師様から口酸っぱく言い聞かされておりました。もし曹昭媛様を快く思わない方の息が掛かった医官がいたら、診ていただくことがかえって危険になるかもしれないと考えたのです。……それに、ご懐妊が公になったら鄧昭儀様のように嫌がらせをされるかもしれません。それは避けたかったのです。だから、ぎりぎりまで黙っておこうと……。」
侍女は段々と言い淀む。霞琳については言及こそしていないが、結局のところ女官長も信用ならなかったと白状しているに等しいのだから、気まずくもなろう。
霞琳としては、女官長という立場上、三人の妃嬪に極力公平であろうとはしている。しかし嬌麗は、個人的には友人であり、春雷にとっては派閥争いと無縁な唯一の妃嬪であるため、気の置けない付き合いをしていることは事実であった。しかも嬌麗本人や白維に乞われて宮に足を運ぶ回数が抜きん出て多い。
そういった事情から、傍目には霞琳が嬌麗を贔屓していると思われても止むを得ないものがあった。故に、栄節の侍女たちから信を得られないのは悲しくはあっても、憤ることはできない。況してや彼女を責めるつもりもない。
そして同時に、霞琳は安堵もしていた。気が利かない侍女たちだとばかり思っていたが、それは彼女たちなりに栄節を守ろうとする必死の態度だったと分かったのだ。
治泰の言いつけに従い、周囲に気を許さずに過ごしてきた栄節の侍女たち。後宮の恐ろしさを身を以て知っている霞琳にとっても、それは正しい判断だと評価できた。
「……ところで、なぜ李太師様にもお知らせしなかったのですか?ご報告していれば、李太師様の方から医師を手配することもできたかもしれませんのに。」
「それは、その……不確かなお話をご報告するのが躊躇われまして。それに、李太師様にどう連絡を取ればいいかも分からなかったのです。私たちは後宮を出ることはできませんから、文をお送りしようにもどなたかにお願いしなくてはなりません。その方が信用できるとは限りませんし……。」
どうやら慎重に過ぎるが故に、治泰に助けを求めることができなかったようだ。
後宮の外部と連絡を取ろうとしたら、宦官などの出入りが許されている者に頼まざるを得ない。しかし宦官も劉司徒派が多いと聞いているから、おいそれと依頼をしたところで文を盗み見されたり改竄されたりする可能性は否めないだろう。
治泰の方で信用できる者を連絡役に立てられればよかったのであろうが、もしかしたら人選も困難だったのかもしれない。治泰とて久方振りに政界に復帰したばかりである。かつての人脈は王氏の変により一掃されたも同然であり、現在の彼の派閥の構成員も確固たる絆で結ばれた面々というよりは劉司徒に反発する者が寄り集まった烏合の衆に近いのだから。
そうであればなおのこと、霞琳が女官長として栄節たちに寄り添い、信頼関係を築く必要があったのだ。返す返すも自分の至らなさが悔やまれる。
今回の件についてはもう取り返しはつかない。しかし、また栄節が助けを必要とする日が来るかもしれない。そのために、今からでも出来る限りのことをしたいと切に願った。
「――それで、曹昭媛様のご体調は如何ですか?先程も申しましたが、もし面会に支障がないようであれば宮にお伺いしたく思っているのです。」
「ご、ご体調は、もう問題ないかと。……ただ、お部屋からは必要最低限しか出ていらっしゃいません。」
「お部屋にお邪魔しても差支えがないのでしたら、これからお伺いしても宜しいでしょうか?」
「そ、それは勿論です!……で、ですが、その……」
侍女は奥歯に物が挟まったような調子で、もごもごと言葉を飲み込む。
その歯切れの悪さに、霞琳は首を傾げた。
「何か問題が?」
「あ、あの……罰はこれで終了でしょうか!?」
意を決した様子で投げつけられた問い掛けに、霞琳は思わず真顔になった。




