明滅(前編)
報せを受けた春雷と霞琳は、すぐさま栄節の宮へ駆けつけていた。
寝台の傍らに跪く医官が触診や問診を行い、どことなく顔色の悪い栄節が身を横たえたまま静かに頷いたり首を振ったりしている。
その様子を、二人は神妙な顔つきで見守っていた。呼吸をするのも憚られるような雰囲気の中、霞琳は必死で母子の無事を神に祈り続ける。
やがて医官が栄節から手を放し、眉を下げた表情でこちらを振り返った。
「――どうだ?」
「残念ながら、御子様は……」
「……そうか。」
「っ……!」
春雷の問い掛けに首を左右にする医官は、最後まで言い切らずに口を噤んだ。
予想していたのか冷静に相槌を打つ春雷とは対照的に、霞琳は息を飲んで固まった。
「力及ばず申し訳ございません。曹昭媛様のお体だけでもご無事でいらっしゃったことが幸いにございます。……ただ、……」
「……ただ?」
「畏れながら……今後のご懐妊は難しいかと。」
室内がしんと静まり返る。医官の声は静かで小さなものだったはずなのに、全員の耳に異様に大きくはっきりと残酷な内容を届けたようだった。
それは女性にとって無情な、そして妃嬪にとって存在価値を揺るがす宣告だ。口にこそしないが、誰もが栄節の進退を不安視していることだろう。
皆が口を噤みしわぶき一つせぬ中、零れそうになる涙を必死に押し止めている霞琳の鼻声が静寂を破った。
「嘘、……嘘ですよね?そんなことって……間違いだって、仰ってください……!」
「私も自分の見立てが誤りであれば良いと願うばかりにございます。」
霞琳は縋るように医官の肩を掴み、その身を揺さぶる。それでも彼は悲しげに目を閉じ、されるがままになりながらも首を振るだけだ。
「霞琳殿、もう放してやれ。――医官の詳しい話は朕が聞かせてもらうこととする。すまぬがこちらは任せた。」
「……承知いたしました。」
春雷が霞琳の手に一回り大きな手を添えて医官から離させ、項垂れるばかりの彼を解放する。そして霞琳に目配せをし、栄節に労わりを籠めた視線を向けてから、医官と共に宮を後にした。
霞琳はやるせない思いに表情を歪めつつも、二人の後姿を見送って寝台に向き直る。そこにはぼんやりとした瞳で天井を眺めている栄節がいた。医官の言葉をちゃんと聞いていたのかどうかも怪しいくらい、先程までと表情が変わらない。
「曹昭媛様、この度は誠に残念なことで――……」
なんとも気の利かない決まり文句を口にしながら、それ以外の台詞が浮かんでこない自分が情けなくなった。
言うまでもなく、霞琳は子を持ったことなどない。だが寧江や蒼風との触れ合いを通じて、疑似的ではあれど親心というものを頓に感じるようになってきていた。自分の子でなくとも愛おしく、健やかに笑っていてくれるだけで幸せを覚える程だ。
況してや己の胎で数ヶ月間養って来た我が子に対する母親の情愛は一方ならぬものがあることだろう。それなのに、その命が一瞬にして消えてしまった栄節の心中はいかばかりか。想像するだけで、強烈な絶望や懊悩に襲われる心地がして心臓が竦む。
そんな栄節にかけるべき言葉はもっと他にあるはずだというのに、うまくそれを見付けられないもどかしさに苛立ちを覚える。一方で、譬え己の語彙が十分にあったとしても、どんな言葉をかけようと栄節の悲しみを慰めることは到底できないだろうとも思う。
「ざ、残念だなんて、本当は思ってもいないくせに……!」
「……え?」
例の拡声器役の侍女から突如投げつけられた言葉の意味を瞬時には理解しかねて、霞琳は呆気に取られる。
反射的に浮かべてしまったきょとんとした表情が侍女の感情を逆撫でしてしまったようで、彼女はぼろぼろと泣きじゃくりながらも霞琳を睨みつけて声を荒げた。
「女官長様は鄧昭儀様とお親しいから、栄節の懐妊が望ましくなかったのではありませんか!?」
「そんなことは――」
「いいえ、いいえ!きっとそうに決まってます!私たちが隠していた間も、本当はとっくに妊娠に気付いていたのに知らぬふりをなさっていたんじゃないんですか!?」
「!」
反論する間も与えられず一方的に捲し立てられる言葉の一部は鋭くも事実を含んでいて、霞琳は思わず双眸を丸めて息を飲む。
その表情を目にした侍女もまた、悲痛そうに一層表情を歪めた。感情のままに責め立ててはしまったものの、もしかしたら本心では霞琳が否定することを期待していたのだろうか。しかし霞琳が口籠ってしまったために無言の肯定として受け止められ、憶測が確信へと変わってしまったのかもしれなかった。
「やっぱり――……!」
侍女の口が不意に閉じる。怪訝に思って視線をそちらに向けると、彼女は振り返って栄節を見下ろしていた。
寝台に横たわったままの栄節は、侍女の袖を軽く摘まんで首を左右にしている。その動きは大層非力に見えたが、侍女を制するだけの効果はしっかりと備わっていたようだ。
ぐずぐずと鼻を啜り、侍女は姿勢を正して頭を下げた。
「……御無礼いたしました。気持ちが抑えられなくなって、取り乱してしまい……。」
「いえ、構いません。このようなことになってしまい、曹昭媛様のことを思えばこそ冷静でいられないのは当然ですから。……曹昭媛様も、お気持ちに寄り添いながら献身的にお仕えくださる侍女の皆様がいらっしゃること、とてもお心強く思われていることと推察いたします。」
「…………。」
俯く侍女からの返事はない。その蔭で、眉を下げた栄節が霞琳のことを見つめていた。いつものぼんやりした表情に気づかわしげな様子が滲んでいる。
一番辛いはずの彼女から配慮を受ける状況になってしまった状況に忸怩たる思いを抱きつつ、霞琳は深々と一礼した。
「曹昭媛様におかれましては、まずはゆっくりお休みになられますよう。私はこれで失礼いたします。」
「…………。」
例の如く兎のようにごもごと口を動かしながら栄節が頷く。それを確認してから、霞琳は重い足取りで扉に向かった。
退室する際、ちらりと肩越しに振り返る。侍女たちは栄節を囲み、床に崩れ落ちてさめざめと泣いていた。普段は気が利かず頼りなく見えていた侍女たちであるが、栄節を想う気持ちは全員強く持っているようだ。それが今は非常に頼もしく感じられると共に、彼女たちにそれだけ慕われる栄節は意外にも主としての素質があるのかもしれない。
医官の見立てもさることながら、負担は大人しい侍女に責め立てられた内容も衝撃的すぎて、霞琳は遣る瀬無い気持ちを抱えながら執務室に戻るのだった。
――数日後。
霞琳は春雷に呼び出され、シャムナラ姫の宮を訪れていた。階に並んで腰を下ろしながら彼の話に身意を傾ける。
春雷が齎したのは、主に三つの事柄に関する情報であった。
一つ目は、以後の栄節の様子。
流産したあの日、侍女たちの取り乱しようが酷かっただけに栄節の方が冷静に見えたが、やはり本人も相当にショックだったらしい。食も細くなり、無気力に寝台で過ごす日が多くなっているという。
春雷も日々栄節を見舞い、気分転換を兼ねて宮の庭の散策に誘うなどしているそうだが、階を下ること自体がトラウマにでもなってしまったようで、決して建物から出たがらないのだという。
仕方のないこととはいえ、栄節の心身の健康が気に掛かる。せめて少量の食事でも十分な栄養が摂れる料理を供するよう、厨に指示をしておこうと霞琳は思った。
二つ目は、栄節の転倒についての調査結果。
春雷と徴夏は誰かが意図的に事故を惹起した可能性を踏まえ、密かに捜査をしていたのだという。だが、事件と判じられるだけの材料がなく、偶然の産物という結論に落ち着けざるを得ないようだ。
春雷たちが気にしているのは、栄節の靴底の裏に付着した油であった。そして階にも油が浸み込んでいた。故に通常よりも滑りやすくなっており、それが転んだ原因であることは疑いようがないという。
しかし、その油が故意に塗られたものだという証明ができなかった。栄節が転ぶ少し前、照明用の油の補充が行われていたそうなのだが、その際に油壷を持参した宮女が階で躓き中身を盛大に溢してしまったらしい。
油はすぐに拭き取られたとはいうものの、完全に除去できるわけではなかろうし、かえって段板に塗りつける結果になったのかもしれない。そしてそこを栄節が通ったのだから、靴に油がつくのも当然といえば当然だ。
この情報からすると、流産は不幸な事故にしか見えない。それでも春雷と徴夏が釈然としないのは、油の補充をした宮女が特定できないからだった。
宮女の数は多い。全員が顔見知りというわけでもないから、栄節の侍女たちがその宮女の顔を覚えていないのは仕方がないかもしれない。
しかし、一方の宮女たちにもそれとなく探りを入れてみたが、栄節の宮に油を届けたという者はいなかった。事態の重大さに恐れをなして口を噤んでいるだけかもしれないが、嬌麗に嫌がらせをした宮女もいまだに発見できていないことを考えると、何者かが暗躍している可能性を捨てきれないのもまた事実である。
調査はこれで打ち切りにするとのことだが、また後宮に渦巻き始めた不穏な空気に、霞琳は心を曇らせずにはいられない。
三つ目は、政情である。
栄節はもう子を宿せない体になった。昭光からも春雷に対し夜の渡りを暫し免除してほしい旨の申出があったため、当面身籠ることはありえない。
つまり、名実共に春雷唯一の男児たる蒼風の立太子を阻む要素がなくなった。ほとぼりが冷めた頃合いを見計らい、皇太子に指名するつもりだという。
なお、栄節の懐妊を大喜びしていた治泰は、一転してすっかり気力が衰えてしまったそうだ。もう妊娠を望めない妃嬪など手駒として役に立たないだろうが、治泰は毎日面会に訪れ栄節を励ましているという。
彼女は彼にとって単なる政治的な道具だったわけではなく、心から大切にしている存在なのだろうと判って、霞琳は安堵感を覚えた。
一方の劉司徒はというと、普段とさして変わらぬ態度でいるらしい。
今後栄節が皇子を産む可能性がなくなったこと自体は彼にとってメリットであろうが、蒼風の立太子を止める口実が消滅してしまったため、手放しで喜ぶわけにもいかないといったところだろうか。
「あの、一つ気になったのですが。……劉昭容様は、どうしてお渡りを辞退されたのですか?」
一通り話を聞いた後、霞琳は疑問を投げる。
春雷もその問い掛けは予想していたようで、予め答えを用意しておいたかのようにすぐ口を開いた。
「昭光は栄節と親しいため、流産の件も我が事のように衝撃を受けて気持ちが塞いでしまっているそうだ。それに栄節にとっても、私が妃嬪の宮に渡るのは精神的苦痛になりかねぬ。故に、私との時間を持つのは当面控えたい、と。」
「成程、劉昭容様らしいご配慮ですね。……確かに、お二人が交流されているのは後宮で周知の事実ですし、今回の件でも劉昭容様が曹昭媛様を何度も見舞ってらっしゃるのも広く知られていますから。」
霞琳は納得したように頷いた。
憲樹や季望からの報告のお蔭で、昭光と栄節の関係については以前から承知している。
最初こそ昭光の動きは劉司徒の悪意ある企みの一環ではないかと警戒していたが、どうやらそんなこともなさそうなので、後援者同士は政敵であっても妃嬪同士が平和的な関係を築けるなら寧ろ望ましいことだと考え、敢えて傍観を決め込んでいる。
ただ、嬌麗のみが妃嬪の交流の輪から外れていることは懸念していた。彼女の性格からいって、昭光や栄節と睦み合うことはないだろう。
だからといって露骨に不仲になってほしくはないのだが、霞琳のそんな願いも虚しく彼女たちの関係性は良好とは到底言えない。嬌麗だけが悪いわけではないとはいえ昭光と言い争ったこともあるし、栄節の懐妊が発覚して以降はあからさまにライバル視してマウントを取りまくる言動が目立ったのも事実だ。
そんなこともあって、後宮内では最近まことしやかに流れている噂がある。
曰く、“曹昭媛様の流産の報せを受けると、劉昭容様は涙を流して悲しまれ、鄧昭儀様は手を打って高笑いなさった”というものだ。
根も葉もないと一刀両断してしまいたいところだが、白維の話によると嬌麗が「春雷様の実子はこれからも蒼風殿下だけということね」と安堵した様子を見せたというから、本人にとって他意のない言動であっても傍目には根や葉と誤解されてしまったそれが、悪意や興味本位によって成長させられ大輪の花が咲いてしまったのだろう。
それを下手に毟り取りに動く方がかえって真実味を増してしまいかねないので、霞琳も堂々と嬌麗を庇うこともままならず、「噂話に興じる暇があるなら仕事をなさい」と宮女たちを窘めるくらいしかできずにおり、頭が痛いところであった。




