覚醒
※未遂ですが無理矢理な場面がありますのでご注意ください。
散策から帰った昭光は、心温まる一時の余韻に浸っていた。
春雷と共に庭園を回り、牡丹を始めとする種々の花を愛で、穏やかに言葉を交わして微笑み合う。その最中、後宮に迷い込んでしまったらしい弱った仔猫と出くわした。
「気に掛かるなら世話をしてやると良い。情が湧いたなら飼っても構わぬ。」
そんな温情に満ちた春雷の一言に甘えて連れ帰った雌の仔猫に早速“牡丹”という名を付けて、鮮やかな赤が映える飾り紐を首に結んでやる。
牡丹はよほど腹が減っていたものと見えて、餌を与えるなり勢いよく平らげた。
最初こそ警戒して毛を逆立てていたが、元々人に慣れているのか、優しく接しているうちすぐに甘えてくるようになった。
今も膝の上でごろごろと寝そべる牡丹の背を指先で撫でながら、昭光は幸福な時間を過ごす――はずだった、のだが。
「――昨夜、陛下のお渡りがあったらしいな。」
「……流石はお養父様、お耳が早いことで。」
予定外に急遽面会を申し出て来た劉司徒を前に、昭光は常の如くただただ従容とした淑女を装っていた。束の間の安寧から一転、針の筵に座らされているような心地を味わう。
早く用事を済ませて立ち去ってほしいという昭光の願いが通じたのか、劉司徒は突如として立ち上がった。しかし劉司徒は何の用件も済ませていない。今来たばかりなのだから、帰るにしては余りにも早すぎる。
怪訝に感じた昭光が視線を上げるや否や、劉司徒が帯を解き圧し掛かって来るのを受けて、ひっと音にならぬ呼吸を飲み込んだ。
「政務の合間で時間がない。存分に可愛がってやれぬのは口惜しいが、さっさと済ませるぞ。」
「い、嫌……!」
「騒ぐでない、人が来る。」
上げかけた悲鳴は劉司徒の分厚い唇によって塞がれ、彼の喉の奥に吐息ごと飲み込まれて消えていく。
春雷のものとは対照的な、性急で欲望が剥き出しの唇の感触に身の毛がよだったが、幾ら藻掻こうとも昭光のほっそりとした腕では肥えに肥えた劉司徒の巨躯を押しのけられるはずもない。
騒ぐな、と劉司徒は口にしたが、人が来たところで彼自身はちっとも痛くも痒くもないだろう。
この宮にいる侍女は全員、劉司徒によって選定された者だ。劉司徒の意に逆らってまで昭光を助けてくれるわけはない。それどころか侍女たちは劉司徒の手助けをする可能性すらあり、昭光は養父に犯される姿を彼女たちに見られるという、人としての尊厳が益々踏み躙られるも同然の事態に陥る羽目になるだろう。
昭光はそんな想像をするだけで背筋が凍り付くような恥辱に震え、体を這い回る劉司徒の唇や掌から伝わる不快感にえずきそうになり、無駄と知りながらも必死で逃れようと身を捩り涙が零れた。
――がちゃん!
「誰だ!」
誰か助けて――昭光の悲痛な胸の内が天に届いたのか、突然外で響いた物音に劉司徒が跳び起きて戸を開く。
するとそこには、高価な花瓶の破片と一輪の牡丹が床に散り、そしてその傍を悠然とうろつく仔猫と膝を着いた憲樹がいた。何があったかなど容易く想像がつく光景である。
「……申し訳ございません。急に出てきた仔猫に驚き、花瓶を落としてしまいました。」
姿勢を正し跪いて深く首を垂れる憲樹の脇で、仔猫は何故か得意げに鳴き声を上げている。
劉司徒は沸々と怒りが湧き上がらないでもなかったが、そこはやはり狸である。感情一つ御せぬ程の愚昧ではない。
憲樹の姿には見覚えがないが、それはつまり自身が昭光につけた侍女ではないということだ。ならばいつぞや話題に上がっていた、妃嬪専属の宮女とやらであろう。春雷や女官長の息が掛かった者に下手な対応はできない。
「……左様か。さっさと後始末をして立ち去るように。幾ら不慮の事態に遭遇したとはいえ、粗相をするような者は劉昭容様の宮に必要ない。次はないと思え。」
「寛大な御心に感謝申し上げます。」
劉司徒はくるりと憲樹に背を向けて舌打ちをすると、興が削がれたと小さく零して帯を拾い、素早く身繕いをして立ち去った。
どうにか難を逃れた昭光であったが、大きすぎる衝撃の余り、劉司徒のように器用な切り替えができずに呆然としている。そこに、とてとてとやって来る小さな影が一つ――牡丹である。
「牡丹、……貴方が、助けてくれたのね……」
みゃあ、と愛らしい鳴き声を耳にして、昭光はやっと我に返る。つい先程まで春雷と過ごした一時に思いを馳せながら愛でていた存在が擦り寄って来るや、今度は安堵の涙が滲み出て、牡丹を抱き上げて頬を摺り寄せた。
甘えるように喉を鳴らす仔猫の振る舞いに、張り詰めきっていた心が一気に解けて涙が止まらなくなった。
「――劉昭容様、誠に申し訳ございません。不手際で花瓶を割ってしまいました。牡丹を活け直して参りますので、もう暫くお待ちください。」
「……待って!」
扉の外で慎ましく首を垂れる憲樹の声を受け、昭光ははっとした。
劉司徒に乱された衣類がそのままのあられもない格好を今更ながらに自覚して、羞恥で頬に熱が募る。一方で、この部屋で何が起ころうとしていたか憲樹に気付かれてしまったに違いない恐怖で心臓が止まりそうな心地に襲われ、顔から血の気が引くような感覚を味わう。
赤面とも蒼白ともつかぬ顔、そして泣きじゃくった涙の痕で化粧も落ち、さぞかし酷い有様になっているだろう己を目にして、憲樹は一体どんな気持ちでいるのだろう。感情が全く顔に出ない彼女の頭の中などさっぱり想像もつかず、時には空恐ろしさすら感じる時もあるが、今は兎も角も窮地を救ってくれた彼女にどうしても礼を伝えなくてはならない。
「花瓶なんていいのです、貴女に怪我がなければ。……どうもありがとう。それから……後生です、どうか、どうかこのことは誰にも言わないで……」
仔猫を抱き締めたまま、小さく震える我が身を叱咤して床に額がぶつかりそうな程に深く頭を下げる。本来、妃嬪が下級宮女に取るべき態度ではない。だがそんなことは関係なかった。
その身分差ゆえに、憲樹は普段昭光の目につかぬような場所とタイミングで雑事をこなしている。だから昭光はすっかり彼女の存在など忘れて過ごしていたのだが、今日は急遽春雷と散策に出ることになり、門前を掃き清めていた憲樹と偶々顔を合わせ、春雷から贈られた牡丹の花を手渡し活けておくよう頼んだのだ。
全ては偶然の産物。この宮にたった一人だけの、劉司徒の息が掛かっていない人物のお蔭で昭光の貞操は守られた。しかし、憲樹から春雷や霞琳に未遂とはいえ姦通の事実が伝わったら、結局は身を亡ぼすことになるだろう。
だがそれよりもなによりも、昭光は春雷に自分と劉司徒の関係を誤解されたくなかった。そのためなら宮女に対する土下座のひとつやふたつ、惜しむことがあるだろうか。
「どうかお顔をお上げください。怪我などございません。お気遣い、身に余ります。……どうぞお心安くあらせられますように。」
暫しの沈黙の後、憲樹は淡々とそれだけ述べると一礼して去っていったようだった。
憲樹は劉司徒の手駒ではないが、かといって昭光の持ち駒でもない。よって彼女の言葉が全て信用に値するようなものではなかったが、扉をきちんと閉めて行ってくれたというその行為だけで、昭光は彼女の衷心を受け取った気がした。
やがて徐々に冷静さを取り戻し始めた昭光は思案に暮れる。
どうやら劉司徒は一刻も早く昭光を身籠らせるため、そして同時に彼自身の欲をも満たすことができる、一石二鳥の強行手段を採ることにしたらしい。それでいて懐妊のタイミングに疑いを持たれぬよう、昭光を辱めるのは春雷と夜を共にした時期に合わせるという周到さを忘れない。
ならば、昭光にできることといったら春雷の夜の来訪を徹底的に回避することのみだ。彼に触れてもらえないこと、彼の子を宿せない悲しみはあるが、それらはもとより一度諦めた夢である。もう一回望みを捨てることくらい、何ほどのことがあるだろう。それよりも今は劉司徒の魔の手を逃れ己の身を守ることこそ最優先だ。
それでいて皇后の座に近づく手段を模索せねばならない。権勢を手にすることこそ、昭光にとって重要であった。
そのためにはどうすればよいか――そこまで思考を巡らせて、昭光は静かに目を閉じる。腹は決まった。
******************
「ごきげんよう。お加減は如何かしら。」
「………………。」
「ほ、本日はとてもご気分が宜しいそうです!」
昭光は栄節の宮を訪れていた。
淑やかな笑みを浮かべて体調を気遣う昭光に対し、いつも通りぼんやりとした顔でもごもごと小さく何か言っているらしい栄節と、彼女の発言を大きな声で伝えてくれる侍女という、珍妙な三者でのやり取りだ。
目上に当たる昭光への栄節の態度は本来なら無礼極まりないものであるが、初対面の時からずっとこうである。昭光は今まで、それを咎めたことは一切なかった。恥ずかしがり屋なのね、と優しく微笑んで受容するだけである。
今日もまた昭光は栄節と直接言葉を交わせない状況について特段気にした風もなく、日ごとに大きくなっていくように感じる彼女のお腹を眺める。ちくりとした痛みは心の奥底に閉じ込め、口許を緩めるとお茶を口に運んだ。
二人の妃嬪の交流は今に始まったことではない。
後宮に入ってから間もなく、昭光は折に触れて栄節に文を送っていた。互いの後ろ盾である劉司徒と治泰は政敵であるが、妃嬪同士――否、慣れない場所に放り込まれてしまって心細い女同士、個人的に親しく付き合いたいという趣旨である。
当然ながら随分と怪しまれていたようで、最初は当たり障りのない文言ではあれど遠回しに拒絶しているような返事しか来なかった。しかし、それにもめげずに手紙を書き続け、散策や公式行事などで顔を合わせる度に親しみを込めた笑みを送っているうちに、社交辞令に毛が生えた程度の交流が生まれるようになった。正に努力の積み重ねの結果である。
以降、こうして昭光はしばしば栄節の宮に足を運んでいた。
特に栄節の懐妊が公表されてからは、見舞いと称して宮を訪ねることも珍しくなくなっている。
ただし、礼を欠いていることは承知の上で、昭光は敢えて手ぶらで訪問している。真っ当な品を贈ろうとも、万が一栄節の体調に影響が出るようなことがあればあらぬ疑いを掛けられかねない。人目のあるなか瓜田に履を納れるような真似をしないのが昭光の主義である。
一方で、栄節の宮で出された物は何であろうと快く受け入れる。茶や菓子は遠慮せず、寧ろ喜んで口に入れた。栄節に対する信頼ぶりを周囲にアピールするために。
今もお茶を共に楽しみ、侍女を介して挨拶や雑談と言えるかも怪しい程度の会話を交わし、身重の体を気遣う言葉を残して宮を後にする。いつもの流れである。
強いていつもと違う点を挙げるとすれば、昭光がやや饒舌だったことくらいである。
「先日、庭園を散策しましたの。色とりどりの花が咲き始めて、とても綺麗でしたわ。」
「私が好きな牡丹の花も、少しずつ蕾が開いてきておりました。曹昭媛様はどんなお花がお好きですか?」
「そうそう、散策中に仔猫を拾ったのです。この子が可愛くて可愛くて……今度曹昭媛様にもお見せしたいですわ。猫が苦手でなければ、是非。」
そんな他愛のない話で興を添えただけだ。栄節の反応の薄さのせいで話題が弾んだとはお世辞にも言い難く、一方的に語り掛けたも同然ではあったが、彼女も完全な無関心という訳ではなかったようだ。時折双眸をぱちぱちとさせていたのが、その証だと思っている。
この通り、昭光はただ自分の近況を口にしたに過ぎない。決して何の促しも誘いもしていない。
つい最近まで肌寒い時季だったということもあって、懐妊してからというもの体を大事にしろという周囲の言に従い部屋に引きこもってばかりの栄節は、昭光が楽しげに語る外の世界に僅かなりとも興味を抱いたのだろう。運動不足を医官に指摘されていたところでもある。ちょっと散歩にでも行ってみようかと思い付く流れは必然だったかもしれない。
外出しようとした栄節が階で足を滑らせ地面に転げ落ちた――そんな報せが後宮を駆け巡ったのは、昭光が彼女を見舞ってからほんの数日後のことだった。




