慕情(後編)
※生々しい表現がありますのでご注意ください。
唐突な謝罪に驚いた春雷ではあったが、直ぐに事態に気が付いたようで、昭光に覆いかぶさっていた上体を起こす。
冷ややかな声を浴びせられる覚悟を決めた昭光は息を殺すが、降って来たのは予想外の内容だった。
「……劉昭容、この対処は自分でできるか?」
「それは、どういう……?」
「対応のために侍女を呼べば事が露見する。劉司徒の耳にも入ろう。最悪、後宮でそなたの良くない噂が広まりかねぬ。だが朕はそれを望まぬ。」
「…………。」
「そなたが一人で対処できるなら、このまま二人きりで一晩を過ごせる。出血は恙無く初夜を済ませた証ということにできる。さすれば、そなたの対面も保たれよう。」
「陛下……。」
春雷は宥めすかすように昭光の髪を繰り返し撫でる。漸く涙も止まり落ち着きを取り戻した昭光はこれ以上月の障りで夜着や寝具を汚さぬよう自分で処置を施し、その姿を直視せぬよう目を閉じて待っていてくれた春雷に招かれるまま、再び寄り添って寝台に身を横たえた。
「……お心を煩わせてしまい、誠に申し訳のうございます。」
「気にするな。朕こそ気付いてやれずすまなかった。」
「陛下からそのようなお言葉……畏れ多いことにございます。」
初めて共寝する夜に大失態を晒した昭光だったが、春雷からは怒りや呆れといった感情は微塵も感じられない。
春雷は優しく昭光を抱き締め、重く鈍い痛みを覚える腰や腹部を労わるように撫で続けてくれた。その温かな感触に安堵を覚えた昭光の体は徐々に安らぎ、やがて共に眠りに就いた。
翌日、春雷を見送ってから暫くしたところで、周期がやってきたということにした。侍女たちは落胆した様子であったが、幸いにも初夜について疑う者はいなかった。
月のものにより夜の務めは果たせないという連絡はすぐに春雷へと送られたが、彼はその晩も当たり前のように昭光のもとを訪れた。てっきりもうお渡りはないものと思っていたので、昭光も侍女たちも驚き慌てふためくなか、一人の侍女が進み出る。
「……恐れながら申し上げます。日中に侍女を遣わしましたが、劉昭容様のご体調についてお耳には入っていらっしゃらなかったでしょうか?」
「報せなら聞いた。だが、月の障りがあるからといってこの慣習を中途で終了する必要はないと思うが。」
「……ですが、劉昭容様はお相手を務められません。代わりに他の者をお召しになりますか?」
女主人に不都合がある場合、侍女がその代役を務めることは一般的にままあることだ。それを踏まえ、戸惑いを深くして問いを続ける侍女に春雷は首を振る。
「相手をするというのは、何も触れ合うことのみをいうわけではあるまい。このしきたりは皇帝と妃嬪とが互いをよく知り合うために時を共にする期間を設けるものだと、朕は解釈している。共に語らい、寄り添って眠るだけでも十分だとは思わぬか。――尤も、劉昭容が望まぬならば無理強いはせぬが。」
どうだ?――そう尋ねるように緩く首を傾げながら象られる微笑みを向けられた途端、昭光の心臓は大きく跳ね、次の瞬間には頷いていた。
初めて感じる胸の高いさざめきの意味をしかとは掴めないままの昭光ではあったが、その夜も、また次の夜も、春雷は定められた期間は律儀に通って来て、好きな花や菓子、趣味など、取り留めもない会話を楽しんで一緒に眠った。
それだけでも十分に幸せだった。当時は本当にそう思った。
だが、今は事情が違う。
嬌麗が出産し、栄節も懐妊。それはとりもなおさず、二人が春雷と男女の営みを済ませたということ。春雷が二人に対しても恐らくはあんな風に優しく触れて、繋がって、子を宿させたということ。
春雷を想えば何故か心が落ち着かなくなる昭光にとって、それは目を背けても背けきれない残酷な事実であった。
淑女の鑑といえる昭光は、普段なら絶対に不安定な情緒など見せない。本心など幾重にも覆い隠して振る舞える。
だが酒に理性を奪われた今、ここにいるのは一人の年頃の女性としての昭光である。劉司徒との関係だとか、妃嬪の争いがどうとか、そんなことは関係なく、自分でも気づけていない淡い感情に突き動かされて、たった一度でいいからと健気に春雷を求める弱々しい女性に過ぎない。
「……このようなことを口にするなど、はしたない女子と思われるかもしれませんが……どうかお聞き届けくださいませ……」
「……」
春雷は何も言わない。ただ、表情は少し改まったような気がした。
拒絶されないのを口実にして、昭光はゆっくりと顔を近づけていく。春雷が避ける気配はない。それだけで歓喜したように心臓が頻りに騒ぐのは、やっと純潔を彼に捧げられる喜びからか、或いは酔いが血の巡りをよくしすぎているからか。
唇が柔らかな感触を捉える。ほんの僅かではあったが、それに応えてくれる動きを感じ取れる。感極まった昭光は再び静かに涙を零し、そして――完全に意識を手放した。
******************
「あーあー、僕の可愛い可愛い義妹は頭の中身まで可愛すぎるんですかねえ?大方陛下を酒で酔い潰して襲おうとして、自分がぶっ潰れちゃったってとこでしょう。その頭、馬と鹿の区別はちゃんとついてますー?」
「……黙ってくださるかしら。たかだか宦官風情が妃嬪に対して許される口の利き方ではありませんわよ。」
「お望みなら黙りますよ。呆れ果てて言葉も出ないってね。」
「まあ、本当に良識のない方。義妹として恥ずかしゅうございますわ。」
――翌日。
春雷の遣いとしてやって来た炎益と昭光は、人払いをした部屋で二人きりになり、睨み合いを続けていた。
この二人は劉司徒がいないといつもこの調子である。互いに見下し合い、或いは嫌味を飛ばし合い、全く以て剣呑な雰囲気である。
極めてそりが合わない者同士ではあったが、どうにも相手がいけ好かないという点だけは二人とも意気投合していた。同族嫌悪のようなものかもしれない。
「予め相談してくれていれば、陛下が酒に強いって情報くらい教えて差し上げたんですけどねえ。何なら媚薬の一つや二つ、調合するくらい造作もないですよ?」
「結構ですわ。そのような怪しげな物を召されて、陛下の御見に何かあってはいけませんもの。」
「失礼だなー、僕が作った薬なら陛下は何度も使ってますよ。」
「……仮にご無事であったとしても、陛下はご聡明にあらせられます。いかがわしい薬を盛られたことなどすぐにお察しになり、こちらが警戒されるようになってしまっては意味がありません。」
鼻で嗤ってばかりの炎益が、不意にきょとんとした表情を浮かべる。そして今度は人を一層不快にさせるにやにやとした笑みに変わり、昭光の顔を無遠慮に覗き込んできた。
「……へーえ。世間では可もなく不可もない程度の陛下に対して、随分と評価が高いんですね。しかも警戒されたくはない、と。――ああ、もしかして惚れちゃいました?」
「……お義兄様こそ、馬と鹿の区別がついてないのではなくて?篭絡せねばならない相手に私が篭絡されていると、そう仰りたいの?随分と見くびられたものですわね。」
「あははっ、違いましたー?」
最初こそ露骨に鋭い視線を返した昭光だったが、付き合っていられないと言いたげにこれ見よがしな溜息を漏らすと、手にした扇で口許を隠しそっぽを向いた。
全く以て最悪だ。自分でも嫌気が差すほどに情けない。
結局昨夜は自分が酒酔いに負けて眠ってしまった。当然、春雷に抱かれてなどおらず、またもや一緒に眠っただけになった。しかも眠りが深すぎたようで全く目が覚めず、朝に春雷の見送りすらできないという有様だったのである。
そういうわけで、ただでさえ起きてからずっと己の失態に落ち込んでいたところに、春雷は自分たちの関係性を露も知らぬのだから仕方のないこととはいえ、犬猿の仲である炎益が見舞いに寄越されて不躾に不愉快極まりない言葉を投げられ続ける羽目に陥るなど、最早この状況は拷問の域だ。
気遣いの人である春雷のことだから、昨夜のことを事細かに炎益に語り聞かせてはいないだろう。しかし炎益は腹が立つほど察しの良い男であるから、“酒”“見舞い”というキーワードだけで昭光が酔い潰れたことも、その発端となった己の企みもおおよそのことを推察してしまっている。流石に自分がまだ処女だとは気付いていないだろうが、何はともあれ嫌悪している人物に愚行を知られるなど、二日酔いの頭痛を悪化させる種でしかない。
そして何よりも、春雷に愛想を尽かされただろうと思うと胸が痛んだ。日頃は皇后に相応しいと称賛されるほどの完璧な立ち居振る舞いを見せている己が、それとは正反対な無様な姿を晒してしまったのだ。こんな女にかける情けなど、春雷の心にはもう欠片もなくなってしまっているのではあるまいか。
「――し、失礼いたします!」
「何事ですか、騒々しい。」
「申し訳ございません!ですが――あっ、お待ちくださいませ!」
考えれば考えるほど気が塞いでしまっていたところに、部屋の外から慌てふためいた様子で侍女が声を掛けて来る。
はっと現実に引き戻されて、昭光が妃嬪としての品位を取り戻しながら言葉を返すと、一層焦った侍女の声がするが早いか扉が開かれた。
「……陛下……?」
「すまない、気が急いていて許可を得る前に来てしまった。……炎益はまだいたのか。」
「そろそろお暇申し上げるところでした。」
「そうか。」
そこに佇んでいた春雷は炎益と言葉を交わした後、ばつが悪そうな視線を昭光に向ける。
きっともう春雷が来てくれることはないと諦めていた昭光は、目の前の現実を信じられずに固まっていた。春雷はそんな昭光の傍らまで歩み寄ると、手にしていた一輪の牡丹を差し出す。
「……これは?」
「炎益を見舞いに遣わした後、咲いているのを見つけてそなたに届けたくなった。牡丹が好きだと、以前に話してくれただろう?」
「……覚えていてくださったのですか。」
春雷の言う通り、牡丹は昭光が一番好きな花だ。昭光が月の障りの最中にもかかわらず律儀に通って来てくれた、あの時期に話した何気ないことを気に留めていてくれたことに胸が熱くなった。
まだ牡丹の盛りには早いため庭園を散策していてもせいぜい蕾しか見つけられず、花開くのを心待ちにしていたのだが、真っ先に咲いたそれを春雷から贈られるなど夢のようだ。無意識に表情を緩ませ、受け取った牡丹を鼻先でくるりと回す。
ふわりと香りを漂わせ、華やかにして堂々たる牡丹の姿は、昭光が理想とする品位と威容を携えた后妃の姿そのもので、改めて自分もこうあらねばと奮い立たせてくれる気がした。
「――時に劉昭容、具合はもう良いのか?」
「ええ、だいぶ。……昨夜はお見苦しいところをお見せしてしまい、誠に申し訳のうございます。」
「謝ることはない、朕の気が回らなかったせいだ。それに調子が戻ったのなら何より。……一刻も早く見せてやりたいと思い手折って来てしまったが、もし体調に問題がないなら散策に行かぬか?」
「……え?」
「約束しただろう、一緒に花を見に行くと。」
「……左様にございましたね。」
微笑む春雷が差し出した手を呆然として見つめていた昭光だったが、徐々に喜色が表情に滲む。恥じらいながら彼の手を取り肩を並べて回廊に向かう昭光の背は、先程までの落ち込みようが嘘のようにしゃんとしていた。
他の者からすれば、それはいつも通り優美な昭光の姿に見えたことだろう。
しかし、良くも悪くも淑女の仮面を脱ぎ捨た状態の彼女を知っている炎益からすると、それが普段通りではないことなど一目瞭然だ。無自覚であろう恋情に心揺らし、慕う相手に寄り添える幸福感に浸っている。
彼女の想いが実ることはないと知っていればこそ、何も知らなければ微笑ましく見える光景が無慈悲極まりないものに思えてしまう。
「……本当に罪作りな人ですよ、陛下は。」
二人の後ろ姿を見送った炎益は、誰にも聞こえぬ声量で独り言ちる。そして肩を竦めながら一息吐くと、仕事に向かうために腰を上げたのだった。




