慕情(前編)
※生々しい表現がありますのでご注意ください。
後宮での生活は、昭光にとって決して悪いものではなかった。
邸から出ることが許されない生活から一転、それまでは窓枠で切り取られた小さな絵画のようにしか認識していなかった外の景観に足を踏み入れたことにより、その広大さに目を瞠り、新鮮な空気の味を知り、風を全身に浴び、草花の感触を学んだ。
自由に散策できるのは後宮の敷地のみだが、昭光にとっては十分すぎる程に広い世界だった。
とはいえ、解放感に心を躍らせてばかりいるわけにもいかない。
劉家から寄越された侍女たちは、とどのつまりお目付け役だ。常に誰かしらが傍にいて、息が詰まることこの上ない。何かあればすぐに彼女たちから劉司徒に報告が上がる手筈になっているだろうから、油断はならない。
また、宦官や女官たちも劉司徒派の貴族出身者が少なからずおり、何処に行っても様々な感情を孕んだ目に晒されている。
あろうことか皇帝付きの宦官までもが劉司徒の影響下にあるとあっては、並び立つ者のない彼の権勢の凄まじさを否応なしに理解させられてしまう。
――そして今、昭光は己の宮でまたもや劉司徒からの監視役ともいえる人物と対峙していた。
「昭容様、劉司徒様の遣いで参りました。ご所望の品をご用意できたので、お納めいただきたいとのことにございます。」
「有難う、お養父様に御礼を伝えておいてちょうだいね。――それから、これはあなたに。お遣いご苦労様。」
「わあ!ありがたき幸せにございます!」
恭しく差し出された硝子瓶を受け取り、柔らかな笑みを向けながら珍しい菓子を心づけに差し出すと、劉家の侍女という名目で遣わされてきた孔寿は嬉しそうにそれを両手で包み込み、顔をふにゃりと緩ませた。
劉孔寿――彼もまた劉司徒の息子を自称する、いわば工作員のような少年である。
釣り気味の糸目がトレードマークで、いつも浮かべているふわふわとした表情がなんともいえない和やかさを醸し出しているが、その雰囲気に騙されてはいけない。
このように女装をしても全く違和感がないのをよいことに、堂々と正式な手続きを経て宮にやってくることがある一方で、その小柄な体格と高い身体能力を活かして日常的に後宮に忍び込み、昭光と劉司徒との連絡役を務めている。
時には宮女に扮し、後宮内であれこれと画策していることもあるらしい。恐らくは諜報活動や、嬌麗への嫌がらせの類であろう。
“らしい”“あろう”というのは、昭光は孔寿自身やその任務の詳細までは知らず、また敢えて知ろうともしていないことによる。その方が良いと直感的に判断しているからだ。
劉司徒と孔寿が父子というのも、きっと自分や炎益と同様に都合よく結んだだけの関係に違いない。その程度の結びつきに過ぎない手駒に劉司徒が与える仕事など、どうせ碌なものではないに決まっている。
そもそも男子禁制が原則である後宮に潜入している時点で、露見したら重罪だ。要らぬ巻き添えを食わないためにも、知らぬ存ぜぬを貫けるようにしておく方がいい。
そんな冷淡な心のうちなど知る由もなく、高級な菓子に頬擦りせんばかりに喜ぶ孔寿を送り出し、昭光は改めて彼が持って来た品に視線を向けた。
今宵は春雷の来訪が予定されている。夕餉も共に取る約束となっていた。これを使うなら今日しかない。この絶好の機会を逃せば、次にいつチャンスが訪れるか分からない。
昭光は焦っていた。春雷の寵愛も、子を授かることも諦めて、権力を掌中に収めるために皇后位だけを望むようになったはずが、そうもいかなくなってしまったのだ。
妃嬪になってからというもの、劉司徒から向けられる情欲の焔は弱まっていた。多少触れられることはあっても、流石に体を暴かれることはないだろうと一応の安心を得ていた。
しかし先日、春雷の渡りの頻度を問うて来た時の劉司徒の手付きは、明らかに娘ではなく女の身を撫でるそれであった。単に撫でるというより、最早愛撫と称した方が適切かもしれない。心の臓が凍り付くような絶望と不快を嘗て昭光に味わわせた、あの感触だ。
もしもあの後に炎益が来なかったなら、本当に劉司徒に襲われていたかもしれない。劉司徒は昭光と春雷の間で男女の営みが定期的に交わされていると誤認しているだろうから、実の父親が誰であろうと、昭光が懐妊すれば当然春雷の子として認知されると考えているはずだ。
だが、実際には昭光と春雷の間にはずっと何の関係もない。このタイミングで身籠れば不貞の子であることは即座に発覚し、姦通を罪に問われることは明白だ。
故に、万が一劉司徒に犯される場合に備え、昭光は春雷の情けを受けておく必要がある。あわよくば子を宿しておきたい。嬌麗や栄節を羨む気持ちが、心の奥底でちらりと首を擡げる。
(……いえ、それ以上に、お養父様にはどうしても知られてはならないことがある。)
真実から目を背けるように俯いて、昭光は下唇を噛み締めた。
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「皇帝陛下におかれましては御機嫌麗しく――」
「ああ、そなたも変わりないようで何より。折角水入らずで過ごせる時間だ、楽にしてくれ。」
夕刻、先触れ通りやって来た春雷を恭しく迎え入れ、昭光は表情を綻ばせた。何度見ても美しい男性だ、と思う。
自意識過剰と思われるかもしれないが、昭光は自らの容姿を類まれなものと判じていた。侍女や宮女にも顔立ちが整った者は少なくないわけではないが、鏡を見て己と彼女たちを比べるとやはり自分の方がより綺麗だと感じる。それは客観的な事実であり、周囲の者もそう持て囃してくるので、そうなのだろうと自認していただけのことである。
だが、初めて春雷と対面した時、その美貌に雷に打たれたような衝撃を受けた。彼の前では自分の美しさなど形無しである。だがそれで卑屈になるようなことはなく、ただただ圧巻の美に魅了されたものだ。
しかも外見のみではなく、春雷は性格も穏やかで優しい。それが表向きの態度であったとしても構わない。これまで身近な男性といえば劉司徒しか知らなかった昭光は、同じ男でもこれほどまでに異なるものなのかと驚き、このような麗人の傍近く仕えられる幸運に感謝したものだった。
「ご多忙とは聞き及んでおりますが、休養もしっかりとお取りくださいませね。」
「休養か。何もしないとそれはそれで落ち着かなくてな、……そなたならどのように休息を取る?」
「最近でしたら、庭園の散策を楽しんでおります。温かくなり花々が咲き乱れるようになった光景がとても美しく、心が癒されるのです。」
「そうか、ならば今度共に見に行くか。」
「まあ、それは嬉しゅうございます。」
卓についた二人は他愛ない会話を交わしつつ、贅を尽くした宮廷料理に舌鼓を打つ。
昭光は政務に追われてばかりいる春雷を慮り、敢えてその話題は口にしない。それは幼い頃、劉司徒を労う母親を見て学んだことだった。仕事を終えて女の元へ通う男が求めているのは癒しであり、男は女に仕事について口出しされて喜ぶはずもなければ、折角気を晴らしに来ても仕事を思い出させてしまいかえって疲労を増させるのだ、と。
しかも昭光は劉司徒の養女なのだから、春雷に政治的な話題を振るのは悪手になりかねない。だからそういった内容とは無縁な立場を装って、春雷には一人の女として慎ましく仕えることに決めていた。
春雷も春雷で傲岸さの欠片もない性格故にか、寧ろ昭光のことを気に掛けてくれる。
彼が振ってくれる話題といえば、体調に変わりはないか、最近何をして過ごしているか、嬉しいことはあったか、辛いことはないか――そんな内容ばかりで、返答すれば頷きながら話の先を促し、柔和な笑みを浮かべて楽しそうに昭光の言葉に耳を傾けてくれる。
これではどちらが癒されているのか分かったものではないというくらい、昭光にとってかけがえのない一時であった。
やがて食事を終え、共に寝室に籠る。並んで寝台に腰掛けながら、昭光は孔寿から受け取った品を取り出した。
「――陛下のため、特別なお酒をご用意いたしました。遥か西方で作られている物だそうです。お口に合うと良いのですが……。」
劉司徒に頼み取り寄せてもらったのは、この国ではほとんど流通していない希少な果実酒だった。瑞々しい甘さが特徴的で飲みやすい割に、アルコール度数がかなり高い。厨の厳しいチェックは通過しており、後宮に持ち込む分には何ら問題のない品である。
冷静沈着な春雷であっても、酔いが回れば関係を持ちやすくなるのではないか――浅はかにして在り来たりではあるという自覚はあるが、これが今の昭光にできる精一杯であった。
知識欲の強い春雷は未知の品に少なからずそそられたようで、興味深そうに瓶を見つめている。透明感のある瞳を輝かせる姿は、いつもの大人びた印象とは対照的に好奇心旺盛な少年の面影を感じさせるようで、昭光は彼から目が離したくなくなってしまう。
ずっと見つめていた気持ちを抑え、これまた西方から渡って来たグラスに深い赤色の酒を注いだ。既に検められてはいる品だが、毒見のように先に口に含み、無害であることを示すべく春雷に微笑みを向ける。
「果実の芳醇な香りと優しい甘さがとても美味しゅうございます。宜しければ陛下も是非。」
「そうだな、折角そなたが用意したくれたものだ。共に楽しませてもらおう。」
昭光は心底嬉しそうに破願した。劉司徒の養女だからこそ警戒されているはずの自分の勧めを、春雷が受け止めてくれる――たったそれだけのことで心が躍るのを感じながら、一緒に果実酒を味わい雑談を交わす。
そうしてどれほどの時間が過ぎたろうか。
昭光はすっかり上気した頬を春雷の肩に摺り寄せてしなだれかかっていた。一方の春雷は顔色ひとつ変えず、淡々と口に運んでいたグラスを一度置く。
「……そろそろ休んだ方が良い。酒に強くないなら無理はせずとも良かったものを。」
「いや……今夜は、陛下といっしょに……」
「ああ、一緒に寝るから――」
「いや!まだねません!」
「……劉昭容?」
控え目にしていたつもりだったが、まるでジュースのような口当たりのせいでついつい進んでしまった果実酒により、昭光は完全に酔いが回ってしまっていた。
心配して就寝を促す春雷に対し、若干舌の動きが覚束なくなった物言いで駄々を捏ねる。一介の妃嬪が天子に反論するなど、普段の昭光ならば絶対にありえない態度であった。
最早正常な思考に支障を来していると見えて、我儘をぶつけるついでとばかり思いきり圧し掛かって春雷を寝台に押し倒す。
嬌麗のお蔭で奔放で身勝手な女性の対応には慣れている春雷であったが、いつもは理知的な昭光がそうなるのは完全に想定外だったため、おとなしく寝台に背を預けつつも困惑を滲ませた表情で彼女を見上げていた。が、不意に頬に一滴、二滴と落ちて来る水滴に双眸を瞬かせる。
「……へいか、……私もあなたの子がほしゅうございます……」
「……劉昭容。」
「それが私には過ぎた願いであるなら、せめて……せめて、いちどだけでもお情けをいただけませんか……?」
「…………」
整った顔が悲しげに歪み、昭光の美しい瞳からは涙が次から次へと溢れ出していた。水滴が降って来る間隔が狭まり、春雷は赤みを帯びた彼女の目尻にそっと指を添えて涙を拭う。昭光は静かに瞼を下ろして、春雷の手に頬を摺り寄せた。
誰にも、とりわけ劉司徒には絶対に知られてはならない秘密――昭光は生娘だったのである。
皇帝が新たな妃嬪を数日間にわたって訪ねるあのしきたりの少し前、昭光は自分の体調に不安を抱えていた。
なんとなく肌の調子が悪く、腰も痛い。お腹も重苦しい。これはそろそろ月のものが来る――その予感に怯え、しかし誰にも言い出せずにいた。お渡りの順序についても相当に揉めたと聞いている。それなのに今更順序の変更を願い出るような真似など、果たして許されるものなのか。
最悪の場合、日程変更はなされず春雷と褥を共にする機会自体がなくなってしまうかもしれない。そうなったら、劉司徒の怒りは如何ばかりであろう。
ただでさえ精神が不安定になる時期だ。昭光の考えは悪い方にばかり向かっていく。結局打開策を見付けられないまま初夜を迎えることになってしまった。
幸い、まだ月経は訪れていない。どうにかこの状態を一晩維持したい。一度体を重ねてさえしまえば、既成事実ができたことにより言い逃れの道も開けよう。
昭光は不安と緊張に震える身を春雷に委ねた。
欲望が剥き出しで性急だった劉司徒とは異なり、春雷の触れ方はどこまでも気遣いに溢れ、丁寧で優しい。それがかえって昭光の羞恥を募らせ、動揺し、強張りが解れそうになるのを、気を緩めてはならないと己を律し、うっかり腹部に力が籠ってしまった時に悲劇が起きた。
「――っ、……お赦しください!」
――出血してしまった。
見ずとも、触れずとも、確かに出てしまったのがいやに明瞭に分かった。
一巻の終わりだ。体調を隠して春雷を受け入れようとしたことを罰せられるかもしれない。今夜はもう帰ってしまい、明日以降お渡りがなくなったら、劉司徒にどう責め立てられるか――混乱と怯えの入り混じる顔を両手で覆い、昭光はすすり泣きを漏らした。




