渇望
権力が欲しい――。
それを自覚するようになったのは春雷の側仕えに抜擢されてからのことだったが、無意識のうちにその欲望が芽生え大きく育っていく契機となったのは、やはり姜家に入ったことであったと、炎益は思い返す。
態々蘭蘭に金を払ってまで自分を引き取ってくれたのだから、余程息子を必要としているのだろう。ならば悪いようにはされまいと、不安や緊張はあれど楽観的な思考で敷居を跨いだが、姜家の面々――特に父親の妻とその子である兄たちは露骨に敵愾心と侮蔑を含んだ眼差しを向けて来た。しかしそれも一瞬だけで、以降は炎益など存在しないもののように振る舞ったのだ。
“家族”であるはずの人々に無視を決め込まれて戸惑う炎益に、父親だけはへらへらと調子のよさそうな笑みを浮かべて取り繕うような言葉を並べていた。それもこれも子どもの機嫌を取り警戒を解くためだったのだろう。
すぐに連れていかれたのは、古びた蔵だ。そこで父親から刃物を渡され、いきなり去勢を命じられたのだ。
「蘭蘭の奴、たかが売春婦のくせに調子に乗って金額を吊り上げやがって。お前を買うのに想像以上の額を払ったもんだから、ちゃんとした医者に施術を依頼する費用もなくなった。恨むならあの女を恨むんだな。」
「……ああ、逃げようなんて考えるなよ。ちゃんと自分で済ませれば出してやる。それまでは飯も抜きだ。」
一見優しそうに接してくれていた“父親”が母親に対して忌々しげに悪態を吐き、そう言い残して蔵から立ち去る後ろ姿を呆然として見送った。扉が閉まると、がたんといかにも厳重そうな施錠の音が響き渡り、本当に閉じ込められたらしいことを悟る。
逃げられない。食事ももらえない。体を清めることも排泄もここでは不可能だ。これまで衣食住に困ったことなどなかった炎益は即座に極限状態に陥り、何もせず餓死を待つより、さっさと自分で切り落として蔵から出してもらうのが最善だという結論を混乱した頭で導き出した。
幸い、炎益は医学書や薬箱といったものを持参してきていた。その知識と手元にある薬や道具を駆使し、恐怖と絶望に襲われながらもどうにか己の手で男性であることを捨てた。
もし医術への志を断ち切って何も持って来ていなかったなら、途中で激痛の余り気を失って適切な処置もできず、失血死は免れなかったろう。そうならずに済んだのは、自分を叱咤激励してくれた芙蓉のお蔭だ。彼女は精神的にも肉体的にも、炎益の命を救ってくれたといえる。
「いやあ、よくできた息子だ。蘭蘭と俺の子なだけあって、賢い賢い。将来が楽しみだ!」
翌朝様子を見に来た父親は、自分で言いつけておきながら、それにきちんと従った炎益を見て目を丸くしていた。
しかしすぐにへらりと笑って炎益の機嫌を取りながら、床や衣服に付着した多量の血痕には気づかぬ振りで、蔵から出してくれる。
ようやっと手を洗って血を落とし、着替えを済ませ、一晩我慢した用を足し、食べ物と水を口にした炎益は人心地を得た。そうして冷静さを取り戻すと、今更ながらに僅かな後悔が生まれた。そしてこんな仕打ちを強いた父親や、自分を姜家に売った蘭蘭に対する憎悪が沸々と浮かんできたのだ。
そもそも自分を宦官にするとして、医師に払う金を渋るなら、父親が自身の手で処置してくれればいいだけの話だ。だが小心者の彼にはそんなことをする勇気もなかったのだろう。うっかり死なせてしまったら殺人になる。しかし炎益が自ら切断しようとしたという体裁であれば、失敗して死亡しても彼はどうにか言い逃れて罪にはならない。つくづく小さい男である。
(……殺してやりたい、こいつらを。)
生まれて初めて湧いた感情を、炎益は黙って飲み込んだ。
やがて局部の傷跡が落ち着いて来ると、すぐに炎益は都へ送られて宦官となった。
「よいか、陛下のお気に召すよう励むのだぞ。よく働いて出世して、俺のこともお取立ていただけるよう陛下のお耳に入れるのを怠るな。姜家が中央政界に進出して繁栄できるようにすることこそ、お前の役目だからな。」
父親からそう口酸っぱく言われて送り出されたが、炎益には何をどうすればいいのかさっぱり分からなかった。否、何もしようがなかったという方が正しかろう。
内侍省に入り出納業務を担当することになったが、毎日帳簿と睨めっこする生活では皇帝に取り入りようもない、というよりも皇帝を目にする機会自体がそうそうない。
しかも宦官の大半は都の生まれであった。貴族出身の者も多い。そんな中にあって、幾ら南部では一番栄えている都市とはいえ所詮地方出身の田舎者に過ぎない炎益は、格好の虐めの的となった。
男として生まれながら、家の事情により本人の意思とは関係なく性別を失い、表舞台で活躍する武官や文官たちからは蔑まれる。宮女たちと接する機会も多いのに、男女の関係には到底なれない。宮女たちは宦官を男だとは思わないし、なんなら見下してくることだって珍しくない。皇帝や妃嬪の気分に振り回され、一方で彼らに媚びを売ってのし上がる。――そんな宿命を押し付けられた宦官たちは、自尊心が捻じ曲がりやすいのかもしれない。
そんな環境で鬱屈した思いを抱えた宦官たちからの嫌がらせは多種多様だ。雑務を押し付けられたり、折角仕上げた書類を駄目にされたりするのは可愛い方。時には暴力を振るわれることもあるが、それらは直接的で分かりやすいものではなく、さも偶然を装って足を引っ掛けてきたり肘で小突いてきたりするような執拗で厭らしいものばかりである。
そのような状況を想像すらしていないのだろう父親からは、
――まだ皇帝の目に留まらないのか。
――俺が都に召し出される気配はまだないのか。
――この役立たず、蘭蘭に払った金の分くらいさっさと働け!
などど思い違いも甚だしい手紙が度々届く始末。
縁あって春雷付きになった際は、皇帝ではなく可も不可もない第二皇子の側近など出世の見込みがないと、酷く罵倒されたものだ。
(……もういっそのこと、誰も彼も殺してやりたい。)
他者との関わりが疎ましくなり、そんな激情に幾度となく駆られる炎益の理性を支え続けてくれたのは、やはり芙蓉の存在だった。
恩人である芙蓉が、炎益が人を救うことを望んでいる。ならば、それに反する人を殺めるという行為は決してしてはならない。
忘れないでね、と美しく笑った芙蓉の姿が脳裏に浮かぶ。体の火照りまで蘇って来るかのようだ。
言われるまでもなく、忘れられるわけがない。男としての自分にとって文字通り最初で最後の女性となった芙蓉は、姉のようでもあり、恋人のようでもあり、しかし決してそのいずれでもなく、家族であって家族ではなかった。
忘れないで――その言葉は一種の呪縛であった。せめて心の片隅にでも置いてほしいとでもいうかのような健気さで男の気を引く一方、ふとした拍子に彼女のことを意識の外に出してしまいそうになるや罪悪感を駆り立ててくるような、男心を意のままにする仄暗い女心もきっと籠められているに違いない。
芙蓉にとってあの一晩は、炎益に対する餞別であり、愛情表現であり、復讐だったのだろう。妓楼を出てしまえばもう二度と会うことはないだろう炎益に、餞として一介の妓女が差し出せる唯一のものである自らの身を無償で捧げてくれただけのこと。思春期に差し掛かった年頃の炎益にとって、それが非常に重要な意味を持つものだと重々理解した上で。
炎益にとって、あの夜は贖罪だったのかもしれなかった。そして同時に、少年時代の甘えや傲慢を全て捨て去るための儀式だったのかもしれなかった。自分が失わせてしまった命が宿っていた芙蓉の胎に自分の種を注ぎ込むという、残忍で、倒錯的で、そしてそれ故に決して忘れ得ぬだろう悔悟と自戒を心の奥深くに刻み付ける行為だった。そんなことを炎益にさせて嫣然と微笑んでいた芙蓉は、一体何を想い、どの口で「恨んでいない」などと宣ってくれたのだろう。
子を成せない体になりこんな目に遭う羽目に陥ったのも、自分なりに納得したつもりでいた。何の罪もない胎児の命を奪った自分に相応しい報いだと思ったからだ。
そんな風に芙蓉の呪縛で心の均衡を保っていた炎益だったが、春雷付きになってから暫く経ったある日、徴夏の言葉で霧中から連れ出されることになった。
「帝位に就け。さもなくばせめて権力を得ろ。」
「そうすれば私利私欲を剥き出しにした連中に、目にもの見せてやれる。」
それは徴夏が春雷に向けたものだったが、炎益の心にすとんと落ちて来た。
そうか、と素直に感じた。権力を得れば、姜家の者にも宦官たちにも報復することができる。自分の手を汚すまでもなく、死に追いやることも、死よりももっと悲惨な状況に追い込むことも。
「徴夏、私は政道を正したいのであって彼らを罰したいわけではないのだが……」
春雷が苦笑して紡ぐ答えなど耳には入らず、炎益はただただ権力を手にする手段を模索するのに没頭していた。
そして考えに考え抜いた結果、事実上の最高権力者である劉司徒に密かに接近したのである。
「劉司徒様――いえ、父上と呼ばせてはいただけませんか。」
後宮に入り浸る皇帝に謁見しに来ていた劉司徒が一人になった隙を見計らい、炎益は切なる思いを込めて声を掛けた。
炎益が幼い頃、酔っぱらった蘭蘭が珍しく構いに来て都時代の華々しい己の活躍を饒舌に語ってくれたことがあり、当時の馴染みの客の多くは今や高位高官に昇っているのだと我が事のように自慢げにしていた。その中の一人が劉司徒だったのである。
劉司徒は若干訝しげな様子ではあったが、蘭蘭が都を去るまで贔屓にしていたことは真実だったらしい。時期的にも符合する。大仰に驚いたり感激したりした素振りを見せた後、炎益を“我が息子”と呼んで抱き締めながら涙した。男の体に包み込まれる感触はあまり心地よいものではなく、分厚い肉に圧迫されて苦しいくらいであったが、炎益は黙ってそれに耐え、自分からも彼の背に手を回して応えた。傍から見れば、生き別れの父子が出会いを果たす感動的な場面だったことだろう。
だが当然、炎益は劉司徒を実父だと思ってはいない。たとえ血の繋がりがあったとしても、それが一体何だというのだろう。ただ権力のおこぼれに預かりさえすればいいのだ。
無論、劉司徒も炎益を実子だと信じているわけはないに違いない。彼とて血を分けていようがいまいが関係なく、役に立つならそれで満足であるはずだ。
炎益が願ったのは、劉司徒を父と呼ぶことと、内侍省で出世することのみであった。劉家の跡目相続、金、女性、政治の表舞台に出たいといったありがちな欲は一切ない。そこには劉司徒と対立する要素が全くないので、彼からすると炎益は好条件で入手できる手駒といえた。
「時に、出世してどうする?得たい物があるからこその出世であろう?」
「僕を虐げた宦官の連中に報復するんです。それから、これは宦官ではできないことなので父上にお願いしなくては成せないのですが、いずれは姜家を滅ぼしてやりたいと思っています。」
そこだけは率直に憎悪を隠しもせずに答えると、劉司徒は一瞬呆気に取られたようであったが、すぐに呵々大笑して炎益の頭を撫で回した。
「そうかそうか、気に入った!流石は我が子よ。お前が期待に応えてくれた暁には、褒美として姜家など滅してやろう。容易いことだ。」
「ありがとうございます。父上のお役に立てるよう努めます。」
こうして劉司徒と炎益は“父子”となった。
最初は後宮内の情報を流す程度だったが、今では妃嬪となった昭光を蔭から支え、嬌麗への嫌がらせなども請け負っている。徐々に弱っていく嬌麗を見るのはいい気分とまではいえないが、彼女の日頃の横暴さを知っているからこそ、胸がすく思いが全くないと言えば嘘になるだろう。
一方で、嬌麗の懐妊については知らぬ存ぜぬを通すなど、程々の距離を取ることも忘れない。余りに都合の良い存在になってしまうと、いいように使われるだけで価値が軽くなってしまいかねないからだ。
また最近の状況に鑑みれば、劉司徒よりも春雷が優位に立つ可能性も十分にある。そうなった時、劉司徒に肩入れし過ぎていては巻き添えになりかねない。
春雷と劉司徒の間を上手く泳ぎ回って権力を得る。そして気に食わない者を排除する――いつしかそれが炎益の生きる目的になっていた。
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「――先輩、ご家族からの書簡ですよ。」
「あー……うん。悪いな、いつも。」
「いいえ、先輩にはお世話になりましたし。また一緒に飲みましょう!」
「ああ、そのうちな。」
不意に掛けられた声により物思いから現実に引き戻された炎益は、例の後輩から差し出された書簡を受け取る。
彼はすっかり炎益に懐いているようで、話せるだけで嬉しそうにしていた。適当に一言二言会話を交わし、自室に向かう。
霞琳の手前、後輩との仲が良好に戻ったということにしてはいたが、そもそも炎益は端から彼と親しいという認識など持っていなければ、炎益個人ではなく皇帝付きの宦官である自分に近づきたいだけだろうと依然として考えている。
だからどう、ということはない。この世の中はそんなものだろうと思っているだけで、卑屈なつもりも猜疑心が強いわけでもないつもりだ。
先達て後輩からの頼みを聞いたのも、単なる気まぐれと劉司徒に対する得点稼ぎに他ならない。
以前、劉司徒が後宮の出納部署に鼠がいると溢していたことがあった。詳しい事情までは知らないが、女官に横領でもさせていたのが上手くいかなくなったようだ。だから敢えて後輩の頼みを聞き入れ、出納部署の事情に霞琳の首を突っ込ませてみれば、鼠とやらは絹逸のことであったらしく、彼女が処罰を受けたことで劉司徒の機嫌は大層良くなり炎益を褒めちぎってくれた。出納部署の乱れが正されたために公金の詐取はもう叶わないだろうが、憎らしい絹逸に報復ができたことで一応の満足としたらしい。
ただ、一年前に絹逸が徴夏に密告して処分された女官が詐取した金が流れていた先は范淑妃派だったと春雷たちは判断していたから、炎益は内心で不思議に感じた。もしかしたら春雷たちの調査結果は誤りで、本当の主犯は劉司徒だったのだろうか。或いは劉司徒自身が范淑妃派の一員なのかもしれない――炎益はそこまで考えて止めた。己の渇望には全く関わりのないことである。
部屋に入り書簡を開くと、自称父親からの機嫌を取るような文面が視界に飛び込んできて、うんざりした炎益はすぐにそれを床に投げ出した。
馬鹿馬鹿しい、と思う。
父子として過ごした時間など皆無に等しく、自分をこんな地獄に突き落とした男のために、炎益が骨を折るとでも本気で考えているのだろうか。もしそうであれば、出世できないのはその頭の中身のせいだと嘲笑してやりたい気分だ。
だが、炎益は敢えて彼を突き放すことはしない。
これまでも罵詈雑言を連ねた手紙が届く度、炎益は只管しおらしい態度を装い、謝罪と共に“いつかは必ず父上のお役に立ってみせます”などと心にもない言葉を連ねた返事を送っていた。
春雷が即位してからは、父親からの書簡は“よくやった、自分は春雷が皇帝の器だと前から思っていた”“それで、俺が中央に呼ばれるのはいつか?”などと調子のいい図々しい文面に変わった。
それに対しては、姜家の処遇について春雷に願い出ているところだと、さもそれらしい出鱈目を返し、父親の実力に全く見合わぬ高さの自尊心を擽り煽てて舞い上がらせている。しかし口添えなど全くしていないどころか自分に対する仕打ちを告げ口しているので、春雷に姜家の者を取り立てるつもりなどあろうはずもない。
するといつまで経ってもお呼びが掛からず痺れを切らした父親からまた炎益を罵る手紙が届き、それを受けて健気な返事を送り、父親から上機嫌な書簡が返って来て――という不毛なやり取りが、ここ暫く繰り返されている。
炎益はそうして愚かでプライドだけは無駄に高い父親を弄び、持ち上げるだけ持ち上げて一気に突き落として自尊心をずたずたに切り裂いてやり、怒り狂う彼を想像して嘲笑うのだ。悪趣味な憂さ晴らしであるという自覚はある。だが、止められない。
「あー、本当、くっだらない。……何もかも。」
炎益は嘯いて寝転がる。
くだらない。くだらなさすぎる。この世の中も、自分に碌でもない仕打ちをしてくれた連中も。そして何より、そんなことで己を慰めている自分自身が。
そうして、いつまでも満たされてくれそうにない渇きから目を背けるように、瞼を下ろした。




