姜炎益(後編)
※流血表現および致してる表現ありますのでご注意ください。
妓楼では時に刃傷沙汰が起こる。大半は妓女に入れ込み過ぎた客の悋気によるもので、被害者は妓女か別の客だ。
こういった時、以前は男が一人で対処していたが、いつしか炎益が同行するようになった。
炎益は子供心にそれがとても誇らしく、まるで医師の見習いにでもなったかのような得意な気分になった。といっても、実際には大したことはしていない。
「麻酔。」
「針と糸。」
「血止め。」
などと、男がこちらに視線すら向けぬまま差し出してくる手に、発せられた単語が示す物を乗せるだけの簡単なお仕事である。
偶に間違えると、渡した物を無言のままその辺に放られて再度手が伸ばされる。叱責も何もせず、あの凄みのある悪い眼つきでじっと患部を見つめている男の姿はらしくもなく真摯で格好良く感じられ、炎益の憧憬は強まるばかりであった。
似たような薬や器具が何種類もあるなかで、男が求めるものを的確に渡せるようになるにつれ、自分も一人前の助手だという自信がついてくるようになった。男は何をするにも説明などしないから、彼が何をどのように診て、何を使用してどの順にいかなる処置を施したか、毎回食い入るように見つめては必死で暗記をした。
外傷の処置以外にも、客が飲み過ぎて気分を悪くしたり、妓女が体調を崩したりした際、呼び出された男に金魚の糞のごとく付き従い、問診の内容から触診に至るまで懸命に頭に叩き込んだ。
その甲斐あってか、やがて見よう見まねで簡単な介抱ができるようになった。ただし、実践するのは自分が怪我をした時や、親しい妓女がこっそり診せてくれる場合に限られていたが。
そんな日々が暫く続き、いつしか男からの無言の指導もほとんど入らなくなってきた。炎益は己のことを、もう一人立ちできるという自負を持つようになっていた。
そしてある日、炎益は芙蓉から密かな呼び出しを受けた。ありがたいことに彼女は率先して練習台になってくれており、ほんの僅かでも具合が悪くなると診察をさせてくれるばかりか、炎益が調合した薬も服用して経過観察までさせてくれているようになっていた。しかも薬がよく効くと心底喜んで褒めてくれるものだから、つい嬉しくなって益々医師の真似事にのめり込むようになっていたのである。
なので、この日もその類の用件であろうと心安く部屋に向かったのだが、芙蓉の口から飛び出したのは完全に想定外の内容だった。
「驚かないで聞いてね、坊ちゃん。……あたし、お腹に赤ちゃんができたの。」
「……待ってて、薬取って来る。」
「違うのよ、坊ちゃん。流すつもりはないの。」
「え?」
芙蓉の懐妊報告に対し、条件反射のように堕胎薬を取りに行こうと腰を上げるや否や、更に予想外にも制止の声がかかる。困惑する炎益に、芙蓉は柔らかく微笑んだ。
「――あたし、この子を産みたいの。だからお願い、協力してくれないかしら?」
二人きりの室内だというのに、芙蓉は重要な内緒話のように顔を近づけて囁き混じりの声で問うてくる。それはとても小さな声だというのに、いやにはっきりと大きく耳に残った気がした。そして飽くまで問いの形式を取りながら、お強請りに似た甘い響きを孕んでいた。
炎益は妙にどぎまぎとして顔を伏せ、無意識の内に頷いていた。他ならぬ芙蓉の願いならば、叶えてやらねばならないような気持ちになったのだ。父親が誰とも知れぬ腹の中の命に、やはり父を知らぬ自分が重なったのかもしれなった。
以後、炎益は定期的に芙蓉を診た。体が強い方ではない彼女のために、体力をつける漢方を調合して届けた。例の如く喜んで飲んでくれる芙蓉を目にするだけで嬉しくなった。
芙蓉は生家が貧しいせいでこの妓楼に売られた娘だった。家族仲は良かったようで、特に弟とは睦まじい姉弟であったらしい。そんな彼女は家族というものに強い憧憬を抱いており、だからこそどうしても赤子を産んで家族を持ちたいのだと話してくれた。芙蓉は炎益の夢を応援してくれている。ならば炎益とて、芙蓉の夢を応援せずにいられるわけがない。
献身的に世話をしているうち、炎益もまた芙蓉の子を愛おしく感じるようになっていた。まだ目立たない腹を撫でては微笑んでいる芙蓉の姿は前にもまして美しく、それでいてどこか儚げでもあり、自分が支えねばならないような気持ちになった。まだまだ子どもでありながら、無意識の内に、芙蓉とその子を守る一家の大黒柱のような存在を気取っていたのかもしれない。
――が、悲劇は突如として訪れた。
芙蓉が出血して倒れたと聞き、炎益は彼女の部屋にすっ飛んでいった。
意識を失い蒼白の顔色で横たわる芙蓉の傍らで、いつも通り無表情ながら、よく見れば僅かに厳しく眉を顰めた男が脈を診ている。
「おっさん、芙蓉は……芙蓉は無事なの?」
「…………」
「おっさんってば!」
「……るせえ、小僧が。」
普段よりも集中して慎重に指先を添えている男の様子からして、芙蓉の脈は相当弱っているのだろう。
千々に乱れる心の儘に思わず声を荒げた炎益を一瞥すらせず、しかし確実に不快そうな声で男が悪態をつく。それでも怖気づいて大人しくなどいられない炎益は、しつこく男の肩に手を添えて揺さぶった。
「おっさん、ねえ、おっさんってば!無事なの!?」
「……芙蓉は。恐らく、な。」
「……子どもは?」
「流れた。」
「…………」
ひゅっと、音を伴わない空気だけの声が喉から抜け、炎益はその場に蹲った。すぐ傍に生々しい血の海が広がっている。その中を胎児と思しき肉の塊が漂っているような錯覚に襲われ、炎益は慌てて頭を振りその幻覚を追い払った。
信じられない。信じたくなかった。嘘だと言って欲しかった。いや、今からでもいい、嘘だって言ってくれ。芙蓉が子を産み、夢であった家族を持ち、幸せに暮らす姿を思い描いていたのだ。傲慢にも、その想像図の中に自分も描き込んでいた。
打ちひしがれる炎益の前に、男は小さな包みを放り投げる。炎益はそれに見覚えがあった。自分が芙蓉に処方した、滋養強壮に良いとされる漢方薬だ。
「……原因はそいつだ。」
「……え?」
「芙蓉がこうなった原因はそれだっつってんだよ。二度も言わせんな。」
「……馬鹿言わないでよ、おっさん。そんなはずないだろ?芙蓉は体が強くないから、体力をつけてもらうために……。」
「そいつが体の調子を良くする漢方だってのは事実だ。具体的にどういう効能があって、精力をつけることに繋がるか理解してんのか?」
「……それは、五臓六腑の働きを活発にして……」
「違うな、そりゃあこいつによく似た別の薬草の効能だ。」
「え?」
炎益の顔から色が失せる。それに構わず、男は続けた。
「こいつはなあ、体の中の悪いモンを排出して、体調を整える薬なんだよ。」
「悪いもんって……」
「芙蓉の場合は腹の中の餓鬼だったってことだろうよ。元々強くねえ母体から栄養を吸い取ってるも同然の餓鬼を、いない方がいいモンだって体が見做して追い出した。それだけのこった。」
「そんな……!」
炎益は絶句した。それはつまり、芙蓉の子を死なせたのは自分だということだ。芙蓉をこのような目に遭わせたのは自分だということだ。
震える炎益に対する気遣い一つ見せずに、男は小さく溜息を漏らした。
「……だいたいなあ、妓女が子を産むなんてするもんじゃねえんだよ。それは夢ってやつだ。現実にゃならねえからこそ夢なんだよ。」
それからのことを、炎益はあまり覚えていない。
大きすぎる衝撃に耐えかねて、炎益は引きこもるようになった。男の元へも行かず、芙蓉の見舞いにだって行けるはずもない。
当然、医者や薬師の真似事も空恐ろしくてできなくなった。そして同時に、そういったことをしてはならないと考えるようになった。所詮は素人に過ぎぬ自分が調子に乗ってそんなことをしたから、芙蓉とその子が悲劇に見舞われたのだ。ならば、自分はもう何もすべきではない。してはいけない。
ただただ自分の行いの罪深さに震えて部屋の隅で蹲っていた。
そうして無気力に過ごすようになって間もなく、炎益の父親だと名乗る姜某に引き取られることが決まった。
「……僕の、父親?今更?」
「今更でも何でも、もう決まったことなんだよ。姜家の旦那は地方官吏とはいえご立派なお役人様だ、そのご子息になれるなんて幸せだろう?」
蘭蘭は金を数えるのに夢中になりながら、炎益にそう言ってからからと笑った。
己の人生すらどうでもいいとばかりに投げやりな気持ちになっていた炎益ではあったが、死ぬまでずっと暮らすのだろうと漠然と思っていた妓楼から出る日が突然訪れたことに戸惑った。蘭蘭や男たちとの縁が切れるということに心の中がざわつく。しかし、どうせ抵抗したって意味などない。蘭蘭が数えている金は、つまり姜家から支払われた炎益の代金に違いないのだから。
そして何よりも、姜家に入ればもう芙蓉と二度と会わずに済むという安堵が大きく、黙って従うこととした。
芙蓉は自分を恨んでいるに違いない。家族を持つという夢をぶち壊し、愛しい子の命を奪ったも自分を憎悪しているはずだ。だから炎益が妓楼を出ることは、きっと彼女の心に平穏を齎してくれる――そんな偽善的な考えも浮かんでいた。
――だが予想に反して、炎益が姜家に移る前夜、芙蓉は自ら別れの挨拶にやって来た。
合わせる顔がなく追い返そうと試みるが、頑として彼女は帰らない。根負けして部屋に招き入れると、芙蓉は若干痩せ細っていたが、相変わらず見る者を癒すような嫋やかでおっとりとした美しい少女のままだった。
炎益を責め立てる様子を一切見せない彼女の態度に、寧ろ苛まれる心地がして知らず涙が溢れ出す。
「っごめん、ごめん、芙蓉……!謝って済むことじゃないし、許してくれなくていい、……全部全部、僕のせいだ!」
顔をぐしゃぐしゃにして泣いて詫びる炎益を、芙蓉は暫く無言で見つめていた。
「僕、もう薬を作るのなんて止めたんだ。人を診ることもしない。僕にそんな資格も能力も――」
「駄目よ、坊ちゃん。」
嗚咽混じりに吐き出し続ける炎益の濡れた両頬に、芙蓉のほっそりとした指先が添えられる。そして炎益の顔を上げさせて目を合わせると、彼女は毅然とした口調で告げた。
何も言い返せずにいた次の瞬間、炎益の視界は瞼を閉じた芙蓉の美しい顔でいっぱいになった。
「……は、っ……芙蓉?」
ややあって、ゆっくりと離れていく芙蓉の顔を、炎益は呆然と見つめていた。驚きの余り瞬きも忘れ、唇に重ねられていた柔らかくしっとりとした感触すらも夢か現か判じかねていた。
そんな炎益の涙を指の背で優しく掬い取り、芙蓉はいつものように穏やかに繰り返す。
「駄目よ、坊ちゃん。――貴方はこれからも、薬を作って人を診るの。」
「でも、……でも僕が、芙蓉の子を死なせたんだよ?そんな人間がこれからも医者の真似事をするなんて――って、芙蓉……?」
静かに炎益の話に耳を傾けていた芙蓉は、徐に簪を髪から抜いた。細く尖るその先端を目にして、炎益は自分が刺されるのだと感じた。そして、芙蓉の気が済むならそれでいいと思い眼を瞑った――が、何も起こらない。
しかし鈍い物音がして恐る恐る瞼を持ち上げると、芙蓉が自らの細く白い腕に簪を突き立てていた。深い刺し傷から血が溢れる。ぷくりと丸く膨らんだそれが重力に抗いきれず、たらりと肌を伝い落ちる様に、炎益は目を瞠った。
少し前まで、この程度の流血など何とも思わなかったというのに、今は恐れで息が詰まる。先日、芙蓉が激しく出血した際の赤い海が脳裏を過り、胃の腑から何かが込み上げてくるような気がして口許を押さえる。
だが、そんなことをしている間にも芙蓉の腕からは絶えず血が流れ落ちて床に朱の模様を描いていた。その様子を黙って見ているだけの芙蓉を放っておけず、頭を振って余計な感情を追いやると、部屋の隅で埃をかぶっていた薬箱を引き寄せて彼女の腕を掴んだ。震える手で簪を抜き、青臭い薬を塗り、晒を巻く。手際は明らかに悪くなっており、芙蓉が時折僅かに顔を顰めるのが見て取れた。
「……どうして突然こんなことしたのさ、芙蓉。」
「坊ちゃん、やっぱり向いているわ。」
「何言って……」
芙蓉は笑みを乗せた双眸をじっと向けて来る。彼女が言いたいのだろうことはよく分かった。
「……あのねえ、このくらいなら素人だってできるよ。買いかぶり過ぎ。」
「“できる”と“やれる”は別でしょう?坊ちゃんはこういうことを“できる”し“やれる”。――そして“やりたい”のではなくて?今は自信を失ってしまっているだけで、人を救いたい気持ちに変わりがないのではないの?」
「……そんなことない。できてもやらない。やれないよ。芙蓉の夢を駄目にした僕に、そんな資格も能力も――」
「だからこそよ、坊ちゃん。――貴方の夢を捨てては駄目。あたしの夢を、貴方が夢を追わない言い訳にしないで。そんな資格も能力も、こんな経験をした貴方にこそあると思うの。」
「……恨まないの?芙蓉の子の命を奪った僕を。」
「恨まないわ。……先生から聞いたの。元々強くないあたしの体では、出産までこぎつけたとしても、あたしか子どもか、どっちかしか助からなかっただろうって。なら、それがあの子の運命だったのよ。」
そんなことはない、と言いかけて開いた口を閉じた。炎益だって本当は最初から理解していた。芙蓉の夢を叶えるという綺麗事に酔いしれて、身請けもしてくれない客の子を妓女が身籠ったらどうなるかという現実から目を背けていただけだということを。
もし芙蓉が死んで子どもだけ助かったら、遺された子を蘭蘭が世話する理由などありはしない。女児であれば将来の妓女として育成する可能性も無きにしも非ずだが、余程目鼻立ちの良い赤子でない限り、客を取れる年齢になるまで投資するだけの価値はない。ましてや男児であれば端から育てる価値がない。ならば生まれた子は、良くて売られ、悪くて捨てられるのが関の山だ。
また芙蓉だけ助かったとして、懐妊中に離れた客が産後に戻って来てくれる保証などない。売れなくなった妓女など単なる穀潰しだ。そうなれば妓楼から追い出され、自力で生き抜く力を持たない彼女は野垂れ死ぬのが落ちだろう。奇跡的に母子ともに助かった場合も同様だ。
そうなるよりは早期に流産するこの現実が一番ましだったと思えなくもない。芙蓉だけでも命を取り留め、夢は叶わずとも衣食住に困らない生活を送れるのだから。
「これでよかったの。あたしは分不相応な夢を見ただけなのよ。――その夢は終わってしまったけれど、お腹の子と、その子を待ち望んでくれた坊ちゃんと三人で家族のような時間を過ごせた。少しの間だけでも夢に浸れたことが本当に嬉しかった。それだけで一生分の幸せを感じられたわ。」
「家族?……僕も?」
「勿論よ。坊っちゃんが応援してくれたお蔭で、あたしは素晴らしい夢を見られたの。あたしの夢はもうとっくに叶っていたんだわ。本当に有難う。」
「芙蓉、……。」
「だから今度は、あたしが坊っちゃんの夢を応援する番。――薬を作るのをやめないで。誰かを救うことを諦めないで。ね、お願いよ、坊ちゃん。」
「……良いのかな。僕はまだ、夢を追っても良いのかな。」
「良いのよ。坊ちゃんならきっと先生みたいに……ううん、先生を超える先生になれるわ。そんな未来が見える気がするの。」
「……何だよ、それ。怪しい占い師みたいなこと言っちゃってさ。」
笑いが零れた。ぎこちなくはあったが、炎益は久々に笑った。
それを目にした芙蓉も優しく双眸を細め、どちらからともなく顔を寄せて唇を触れ合わせる。やがて二つの影は一つに重なり、小さな衣擦れの音だけ響かせて縺れ合い、長い時間離れなかった。
「……坊ちゃん、あたしのこと、忘れないでね。」
名残惜しさからか殊更にゆっくりと片手で体をまさぐりつつしなだれかかってくる芙蓉のどこか愁いを帯びた微笑みは、初めての熱に浮かされるばかりの炎益の胸を切なく締め付けた。
余裕なんてなく、与えられる心地よい温もりと快感に喉を反らさずにはいられない炎益には頷くことすらままならなかったが、代わりに繋いでいた彼女の手を確りと握り返す。
途端、大輪の芙蓉が幸せそうに綻んだのだった。




