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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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姜炎益(前編)

 姜炎益――元の名は薛炎益といった。

 母親は薛蘭蘭という名の民妓である。その出自は知らない。妓女になった経緯も聞いたことがなかった、というよりも母親と話した記憶すらほとんどない。

 どこまでが虚か実か知り得ようもない、蘭蘭が他の妓女や客に向かって話していた内容の聞きかじり――それだけが、炎益の知る母親の全てであった。


 それによると、蘭蘭は元々都の色町にあった小さな妓楼で客を取っていたという。その店では屈指の人気を誇ったが、所詮は弱小の妓楼内における話だ。色町全体でランク付けをすると、まあまあの知名度はあったが、上位に食い込むことは望めないといった程度。

 己の美貌や技術に自信があり、プライドが高かった蘭蘭には我慢がならなかったのだろうか。牛後に甘んずるよりも鶏頭になる道を選び、華やかな都を捨てた。そして発展途上の南部へ移り、自ら妓楼を開いたのだった。


 蘭蘭が店を持ったのは、征南将軍府が置かれている南部の中心地である。手始めに小さな妓楼を営み、最初は妓女も数人しか抱えられなかったので、自身も率先して昼夜を問わず客を取った。炎益の父を称する姜某が足繁く通ってきたのもこの頃のことであるらしい。

 南部では最も栄えている町とはいえ、遠く離れた都に比べれば非常に鄙びた田舎に過ぎない。元々あった妓楼は、妓女も酒肴もどこか野暮ったい。

 そんなところに、都でそこそこ名が売れた、容姿も立ち居振る舞いも洗練された美女がやって来たというのだから、それだけでも話題になり男の憧れを独占するのは容易かったようだ。詩や楽の才もあり、頭の回転が速く機転の利く蘭蘭は続々と訪れる客のあしらいも巧みで、あっという間に大変な儲けを上げたという。


 しかし、いつの間にか炎益を宿していた腹が目立ち始めると客を取れなくなった。妓女として仕事を続けるためには堕ろせばよかったろうに、そうしなかった理由は分からない。

 だが、結果的にそれが功を奏したといえる。蘭蘭は経営のなんたるかに関して完全な初心者であった。客を取れない間、身体を売ること以外についても学び、また貧しさ故に売られてきた田舎女たちを一端の妓女にすべく育成に励んだようだ。

 その成果もあって利益は益々右上がり。店の規模はどんどん拡張され、征南将軍府の上級役人の邸宅よりも豪奢になり、正に夢の園の如き様相を呈するに至った。蘭蘭自身が客を取らなくても、押しも押されもせぬ評判の妓楼として揺るぎない地位を確立したのだ。


 蘭蘭の妓楼には一人の男がいた。こういった店に用心棒がいるのはよくあることだ。

 彼は四角張った輪郭の強面で体格も好く、序でに眉間の皺が深く三白眼で目付きも悪い。口数も少なくぶっきらぼうで、言葉遣いも悪い。どこからどう見ても荒くれ者で、都風に洗練された妓楼の雰囲気にはそぐわなかったが、用心棒としては頼もしい限りの風体であった。

 そんな男には、用心棒らしからぬ点が一つあった。それは医術の知識を持っていたことだ。何でも嘗ては都で有名な名医に弟子入りしていたらしいが、師の覚えが目出度くなく、ある事件を契機に破門されたらしい。当時蘭蘭が働いていた妓楼に出入りしており、顔見知りだった縁で、彼女の南部移住にちゃっかりついてきたという。


 破門の原因について、炎益は興味本位から男に尋ねてみたことがある。

 普段ほとんど顔の筋肉を動かさないその男が、この時ばかりは口許をにやりと歪め、白眼視していると誤解されかねない目付きで炎益を見つめる。本人にとっては笑みなのだろうが、傍目には凶悪極まりないものにしか見えない表情を浮かべながら、彼は痛々しく残る左頬の傷を指差すだけで何も語りはしなかった。

 刃物によるものと思しき、流れるようにまっすぐで鋭利な痕は、時が経ったせいで生々しさこそないものの皮膚が引き攣った状態で固まっており、彼が滅多に顔の筋肉を動かさない理由の一つだったのかもしれない。

 詳細は分からないが、刃傷沙汰でも起こしたのだろう。まるで勲章を自慢するかのように傷痕を示すこのふてぶてしい態度に鑑みるに、不幸にも巻き込まれてしまっただけの被害とは到底思われない。医者見習いが暴力沙汰に関与したなら、破門されても当然だ。

 炎益少年は態とらしく溜息を吐き、呆れ果てた視線を男に送る。

 そんな無言の非難を受けても全く意に介した風のない男は、炎益に向けて小さな籠をずいと押し付けてきた。


「任せたぜ。小僧。」

「はいはい、任されましたよ。でも僕の名前は“小僧”じゃないんですけど?」

「この店に男の餓鬼はお前だけだ。小僧で通じる。」

「通じるかどうかじゃないっつの。」


 炎益はぼやきながら受け取った籠を覗き込む。中には更に小さな包みが幾つも入っていて、それぞれに花の名前が記されていた。

 この妓楼では、妓女が客を取る時に使う部屋に花の名前がつけられている。部屋は一人一部屋宛がわれているので、花の名が示すのはその部屋の主ということだ。つまりこの男は、炎益だけでなく、妓女の名前も碌に覚えていないのだった。

 部屋にも序列があり、売り上げ次第で主は不定期に変わる。そのため妓女の名前を覚えた方が早くて確実だろうと思うのだが、他人に無頓着すぎるこの男にそれを言ったところで無駄だろう。艶やかな美女たちの名すら覚えない男に、自分の名前を主張する行為もまた不毛だ。炎益は小僧呼びを受け入れて、妓女たちの元に向かった。


「あら坊っちゃん、こんにちは。相変わらず可愛いわねえ。」

「坊ちゃん、もうちょっと大きくなったらあたしのこと買っておくれね。」

「やだあ、坊っちゃんが大きくなる頃にはあんた婆さんじゃないの。そそられないわよ。」

「ねえ、坊っちゃん。あたしなら坊っちゃんが大人になってもまだ若いから宜しくね。」


 まだ店が開く前の時間帯なので、化粧も髪型も整える前の“妓女”ではない単なる女や少女に過ぎない、ありのままの彼女たちが賑やかに部屋から顔を出す。

 炎益は妓女たちに可愛がられる人気者だった。単に子どもだからという理由もあったろうが、楼主の息子だからという要因も大きいはずだ。炎益の口を介して、蘭蘭に自分のアピールをしたいのだろう。

 そんな下心を何となく察しつつ、ちやほやされるのに慣れきってしまった炎益はけらけらと笑いながら礼を言って聞き流す。


 寄って来る女の中には寝起きと思しくしどけなく乱れた肌着姿の者もいるが、物心ついた時からそんなものを見慣れている炎益は、今更赤くなったり目を逸らしたりといったような初々しさなどとうに持ち合わせていない。

 寧ろそれも当たり前すぎる日常風景と化しているせいで、女性の裸体に興奮する男の心理が微塵も分からない有様であった。このままでは一生女性と交わることもないのかもしれないと、本気で思う程に。


 炎益は自分を取り囲む女たちに、男から預かって来た包を配っていく。中身は男が調合した薬である。

 頭痛や胃痛に効くという普通の薬から、子を流すためのものまで、男は妓女の求めに応じてどんな薬でも作っていた。望まれれば診察もする。しかもその見立ては的確で薬の効果も覿面だというから、その道の才能はあったのだろう。もし医者になっていたらさぞ腕が立ったろうに、人生とは無情なものである。


 炎益が男の人生を思う時、そこには自分の人生も重ねていた。

 蘭蘭の唯一の子ではあるが、楼主の地位を継いで店を切り盛りし、女を買い集めて育成を行うのはなんとなくしっくりこないものがあった。そもそも女に興味がなさ過ぎて、男を虜にさせる方法など教えられそうもない。

 では成人したら妓楼を出るかというと、この狭い世界しか知らずに育った炎益には、外の世界で生きる自分というものが全く想像できないのであった。

 未知の世界である妓楼の外がどんなものなのか、教えてくれるのは男だけだった。彼は自分から話すことはそうそうないが、聞けば言葉少なに応じてはくれる。だからというわけでもないのだが、炎益はよく男にへばりつくようにして一緒にいた。

 尤も男が教えてくれる外の世界というのも、彼が住んでいた頃の都の様子だとか、医者見習いの生活だとか、極めて限定的なものである。しかしそれでも炎益には充分に新鮮な世界だった。


 男の方はといえば、幼い炎益が周囲をうろちょろしていては仕事の邪魔だったろうに、追い払うでもなく黙々と薬の調合をしているのだった。

 炎益はその男の手許を見ているのが好きだった。同じような見た目の草が、或いは乾燥させて粉になり、或いは擂り潰して塗り薬になる。異なる種類の薬草を組み合わせることで効果が変わり、配合や量を違えれば毒にもなる。

 炎益にはそれが殊に神秘的に感じられた。妓女を癒すも殺すも、この男の指先一つに全てが委ねられているような、そんな気がしていた。

 自分の知る二つの世界――妓楼と医術の組み合わせ、即ちこの男と同様にこの店で女たちのために薬を作ったり病気や怪我を診たりする人生こそが、己には最も合っている道のように感じ始めていた。


「おっさん、僕もそれやりたい。」


 炎益が、そう言い出すのは自然な流れだったといえよう。

 男も予期してはいたようで、そうかい、と短く返事をする。しかし炎益には一瞥もくれず、煙管をふかしながら薬研で薬草を挽く手を止めない。

 常人ならば遠回しな拒絶と解して諦めるところを、炎益は一歩たりとも引かなかった。“やりたい”という希望を伝え、相槌が返って来ただけなのである。その“そうかい”という単語そのものに可否の意味はない。


「おっさん、教えて。」

「……。」

「ねえ、おっさん。ねえってば。」

「……教わる前に自分で学べや、小僧。」


 薬研に注がれ続けていた男の視線が初めて横に逸れる。その先を追いかけると、狭い部屋の片隅に乱雑に積まれた書物があった。

 炎益はそれを手に取り開いてみるが、文字など読めない。蘭蘭も男も、炎益に学問の手解き一つしてくれたことがないのだ。


「読んでよ、おっさん。」

「嫌なこった。俺ァ暇じゃねえんだ。」

「よく言うよ、頼まれてない薬まで作りまくって溜め込んでるくせに。」

「薬ってのは頼まれてから作っても遅えんだよ。ンなことも分からねえ餓鬼が言うんじゃねえ。」


 男の言は一理あったが、しかしそうはいっても作りすぎだ。

 需要が多い風邪薬や避妊薬なら在庫を貯めておくのも納得する。しかし頼まれたとは聞いたこともない毒薬だとか、麻酔薬だとか、そんなものまで大量にあるのだから多忙なわけがない。

 だが、男は一度言ったら態度を翻さない性格だ。だから炎益は教わることを諦めて、代わりに舌を出して思いっきり悪態をついてから、本を抱えて飛び出した。


 目指すは、一番仲の良い妓女の部屋だ。名を甄芙蓉という。眉も目許も柔らかく垂れた癒し系の美少女で、その外見通り身のこなしも優美でおっとりとしたところが評判の売れっ子である。

 妓女は閨事の手練手管だけを学んでいるわけではない。女の体だけを目的に訪れる客もいるが、この妓楼は都から下って来た主が開き、その主の手解きを受けたお蔭で洗練された妓女が多い高級店として売っている。故に単なる房中術のみならず、ちょっとした知的な会話だとか、文化芸術を楽しむ一時を求めて来る文化人の相手もそつなくこなせるよう様々な芸事を仕込まれていた。 

 そういうわけで、この妓楼の妓女は読み書きなど朝飯前だった。芙蓉はそれのみならず、即興で漢詩も詠めれば舞も得手、琴も巧みという非の打ち所がない才女でもある。蘭蘭は客を取れない息子よりも、打ち出の小槌となる商品の育成の方に余程手をかけているのである。


「まあ、坊っちゃん。どうしたの?今日は先生に薬をお願いしてはいないのだけれど……。」

「ああ、今日はおっさんのお遣いじゃあないんだ。――あのさ、芙蓉。僕に字を教えてくれない?」


 炎益が突然勉学に意欲を見せるものだから芙蓉は首を傾げたが、事情を説明すると納得したように頷いて可憐な花の如く表情を綻ばせた。


「坊っちゃん、夢ができたなんて凄いわ。あたしもいつか坊ちゃんを“先生”って呼んで、お世話になる日が来るのかしら。なんだか楽しみよ。」

「夢なんて大層なものじゃないよ。“先生”なんて柄じゃないしさ。」

「そんなことないわ、とても素晴らしい夢よ。坊ちゃんが夢を叶えるためなら、あたし、喜んで協力するわ。あなたの役に立てるなんて嬉しいもの。」


 褒められて悪い気はしない。炎益は擽ったい気持ちになった。

 妓女が男性を喜ばせつつ掌の上で転がす話術を身に着けていることなど承知しているが、その外見や性格のせいか、芙蓉が発する言葉は打算も駆け引きも何もない純粋な感情がそのまままろび出てきたかのように、人の心にすっと染み渡るような不思議さがあった。

 だから炎益は、芙蓉を妓女というよりも姉として見ていた。一番近い存在の異性として慕っていたのである。


 こうして芙蓉から文字を教わることになった炎益であったが、もともと母親譲りで素質があったのかもしれない。芙蓉の教え方が上手かったこともあろうが、それを差し引いても順調すぎるペースで読み書きを会得し、ある程度本を読むことができるようになるまで時間は掛からなかった。

 それからというもの、薬草の挿絵入りの本を片手に妓楼周辺を駆け回っては草を摘むのに夢中になった。時には色町の区画から外に出てしまい、近隣の住民に出会うこともあった。しかし、妓楼で生活する子どもだという理由で奇異な目を向けられたり、ふしだらなものに近づきたくはないといった様子で避けられたりして、誰とも交流を持つことはなかった。

 炎益としてもその方が都合が良かった。薬草に熱心になり過ぎていたこの少年は、他人に対する興味など欠片もなかったのだ。


 ある日、炎益は採取してきた草を種類ごとに器に分けて、男の作業部屋に放置したことがあった。

 暫くしてから見てみると、皿に盛っていた草の一部が床にうちやられていた。そこでよくよく図鑑と見比べたところ、器に乗っているのは本物の薬草、床に捨てられているのは薬草に見た目こそそっくりだが何の効果もないただの草であった。

 教えを乞うた時には断固拒否していた割に、あの男はこうして指導をしてくれているらしい。教えること自体が嫌だったのではなく、沢山話すことが嫌だったのかもしれない。


 以来、炎益は草を採る度に男の部屋に置いておくことにした。男は仕事の合間に、炎益の仕分け状況を確認してくれる。

 効能のない草が紛れていると、無言で取り除いておいてくれるのは変わらない。酷い時には毒草まで薬草に混ぜてしまっていることもあったが、そんな時は取り分けたそれに“馬鹿野郎”というメモまでご丁寧に添えてくれた。不器用ながらも熱意の見え隠れする指導のお蔭で、炎益は如何に酷似していようとも段々と見分けがつくようになって来た。

 薬草の判別が出来るようになって来た頃、古めかしい薬研や笊といった道具が皿の脇に置かれていた。どうやら男からのプレゼントのようだ。

 炎益は嬉々としてそれらを手に取り、男がやっているのを真似て、薬草を笊に並べて干してみたり、粉に挽いてみたりした。


 完成した薬を紙に包んで、“腹痛”と書いて置いておいた。下手くそな字だ。後日確認すると、炎益の汚い字は消され、達筆な字で“下剤”と横に記されていた。効能を誤って覚えていたらしい。男が訂正してくれたようだ。

 それから、炎益は作った薬も全部男の部屋に置いてくことにした。男は露骨に面倒くさそうな顔をしていた割に存外律儀な性格らしく、炎益の認識に誤りがあればいつもきちんと正してくれていたのだった。


 妓楼では、妓女が体調を崩すこともある。そんな時、男は女の部屋を訪ねて診察をする。炎益はいつしかその場に同行するようになった。流石に患者を診せてはもらえないが、男が女に何を問い、その答えを受けてどこを触診し、何を以て正常と異常とを判別しているのか、視覚と聴覚を最大限に活用して盗み取るのに必死になった。

 なかには、体調不良だと思っていたらうっかり客の子を孕んでしまっていたという妓女もいた。そういう時、男も妓女も躊躇わずに堕胎薬を使用する。炎益は幼い頃から男の部屋でその薬を目にし、お遣いで妓女に届け、今では自身で作ったことも一度や二度ではないが、懐妊と診断され即座に服用に至る状況をいざ目の当たりにすると息が詰まるような苦しい心地を覚えたものだ。

 だが、繰り返されるうちに徐々に何とも感じなくなった。男が懐妊だと診断すれば、炎益は指示される前に薬箱から堕胎薬を取り出して妓女に渡す――それが反射的な行為となっていった。


 妓楼とはそういう場所なのだ。真っ当な人間の感覚を麻痺させ失わせていくものなのである。そしてそれを当たり前のこととして、炎益も何も思わなくなっていったのだ。


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