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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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あなたのためにできること

 蒼風は大人しい赤子であった。

 然程泣きもせず、かといって笑うことも少ない。感情に乏しいのかと思いきや、眠たくなると露骨に不機嫌になって大層愚図る。どうやら眠るのを殊に好むらしい。少し目を離した間にすやすやと寝息を立てていることも珍しくはない。

 寝顔は春雷に似ている――気がする。陶器のように滑らかで白い肌、しっとりとした質の良い黒髪、まるで美人画の名手による最高傑作が具現化したのではないかと目を疑いたくなるような白皙の美貌は、幼子には不相応な程の気品すら漂わせており、触れるのが躊躇われるほどだ。

 ――が、目を開くと途端に嬌麗似になる。紛れもない母親の血を思わせる、その釣り気味の丸くて大きな猫のような瞳からは、子どもらしい愛嬌が滲み出している。


 そんな相反する魅力を生まれ持った蒼風に、誰もが首ったけになっていた。

 特に夢中なのが寧江である。夭折した実弟に対する贖罪の気持ちに起因する感情も最初はあったのであろうが、今やそれとは関係なくめろめろのでろでろになる程の溺愛ぶりだ。

 春雷の采配により、蒼風は寧江の宮に共に暮らすことになった。呪詛騒動を公にはしていないので、嬌麗の宮から蒼風を出すにあたり、彼に単独で宮を宛がうよりも己の子を一つ所に住まわせることにしたという形にする方が、周囲の目に不自然に映らぬだろうという判断である。

 その決定に狂喜乱舞した寧江は、日がな一日蒼風にべったりして離れない。


「かわいいかわいい蒼風殿下、わたしはあなたのお姉様よ。」

「……うー、……?」


 今日も今日とて蒼風が寝ていればずっと添い寝をして彼を見つめ続け、起きていればその傍らに陣取り愛おしげに見つめながら、自分が姉だと猛アピールをしている。

 蒼風は当然ながらまだ人語を解していない。故に意味など解っておらず、寧江を見つめ返しながら喃語を発しているだけである。だが寧江にとってはそれだけでも至上の反応を得た感慨があるらしく、「ふわああああ!」と感極まった声を上げ、転げ回りたいのを必死に堪えるかのように打ち震えている。


「蒼風殿下、なんて賢いの、本当に!わたしがお姉様ってわかってるのよ、だから返事をしてくれるのだわ!」

「いや、それ俺にも同じ声を出すからな。ちびすけにだけじゃねえからな。」

「だまってなさい、徴夏は!」

「へいへい。ったく、我儘な公主様だな。」

「因みに、蒼風殿下は僕にも同じ反応してくれますよ。」

「だまってなさい、炎益も!殺すわよ!」

「はーいはいっと。おー、こわこわ。」

「……うー、……あーふ……。」


 蒼風の様子を見に来ていた徴夏と炎益に鬼の形相を向けるも、すぐ蒼風に向き直った寧江はうっとりとした眼差しを彼に送る。

 対する蒼風は、一体何を馬鹿げたやり取りをしているのだとでも言いたげに、三人のことなどどうでもよさそうな表情で欠伸を漏らして、ぷっくりとした小さな拳で目を擦っていた。

 たったそれだけの仕草にすらも、寧江は再び「ふわああああ!」と声をあげ、可愛い可愛いと壊れた玩具のように繰り返している。


 霞琳からすると、蒼風が愛らしいのは勿論だが、彼の一挙手一投足をきらきらと輝かせた目で見つめ、年相応の無邪気さを全開にしている寧江もまた尋常ではない可愛さだ。

 しかし、それを口にすると、


「蒼風殿下の方よ、かわいいのは!」


 と何故か叱られるので、心の中で呟くだけにしている。

 しかし感情がつい顔に溢れ出てしまい、二人を見守りながらにこにことした笑みを抑えられない自覚はある。そんな己を省みて、これが所謂親馬鹿の心地というものなのだろうかとしみじみ納得する日々であった。


 欠伸の後、こくりこくりと頭を揺らし始めた蒼風を抱き上げて寝台へと移す。


「殿下はそろそろお昼寝の時間のようです。公主様もご一緒されますか?」

「もちろんよ!」


 答えるが早いか、寧江も寝台に上がり込んでいた。中央に陣取り偉そうに両手両足をででんと広げる蒼風に相好を崩しつつ、彼を潰さぬよう注意を払いながら体を横たえる。

 幼子のために誂えられた寝台は、二人が横たわるには些か狭い。況してや蒼風が真ん中にいるので尚更だ。

 寧江はそれでも彼をどかすような真似はせず、飽くまで自分が居候だという認識のためか、我が身が転げ落ちない程度のすれすれの位置取りをする。最初の頃は失敗して何度も落っこちては痛い目を見ていたのだが、着実に学んでいるようで、近頃の落下発生件数はゼロであった。


 寧江は蒼風にそっと寄り添うだけで、自分は眠らない。

 寧江に加えて蒼風の世話役も仰せつかったルェイホマも、宮女教育の時間以外は常に侍している。

 蒼風の傍に寧江とルェイホマがいてくれることは、霞琳としても頼もしいことであった。

 呪詛の失敗を受け、その犯人が蒼風を直接害そうとする可能性を頭の片隅に置いている。もしその懸念が現実になったとしても、寧江とルェイホマの二人が共にあるならば、犯人も下手な手出しはそうそうできないだろう。

 霞琳の執務室に程近く、周囲を行き来する人の多いこの宮に忍び込むのは難易度が高い。それが上手くいったとて寧江かルェイホマのどちらか一人を取り押さえたとしても、もう一方が逃げ出し助けを求められればこちらのものだ。二人もそれを心得ており、有事には散り散りに動くよう徴夏に訓練されていた。

 まだ幼いうえに尊い身分である寧江にまでそんな役目を託すのは気が引けたが、本人が自ら希望してくれたので、有難く甘えさせてもらうことにした。実年齢にそぐわぬしっかり者の彼女は、それこそが自分が蒼風のためにできることだと思い定めているらしい。己の存在意義を自分なりに定義しているようだった。


 やがて蒼風が規則的な寝息を立て始めたのを確認すると、霞琳はルェイホマに後を任せて宮を出た。徴夏と炎益もそれに続く。


「お二人とも、いつも蒼風殿下のご様子を見に来てくださり有難うございます。」

「あんたに礼を言われることじゃねえよ。春雷の子を気に掛けるのは当然だろ?」

「そうそう、そうですよー。霞琳様こそ、女官長の仕事に加えて子育てまで大変でしょう?子守りくらいなら僕らも手伝えますんで、無理はしないでくださいね。」

「ふふ、有難うございます。では私は次の予定がございますので、これで。」

「おう、じゃあな。」

「行ってらっしゃーい、お気を付けてー。」


 踵を返す霞琳を見送った徴夏は、顔つきを改めて炎益に向き直る。周囲に誰もいないことを視線のみで確認し、声を潜めた。


「今回は失敗したが、いずれ必ず蒼風を皇太子にする。……その最大の障壁は曹昭媛の子だ。つっても春雷の目が厳しくて俺じゃあ手が出せねえ。炎益、あんたの方はどうだ?」

「まあ、陛下の遣いとして妃嬪の方々を訪ねることはちょいちょいありますから、接触自体はできますけど。それが限界ですかね。」

「そうか。……子流しの薬とかは作れるか?」

「すみませんが、守備範囲外ですねえ。材料になるような薬草も育ててないですし。……僕がこんなこと言うのも烏滸がましいんですけど、陛下に曹昭媛様の出産を阻止するつもりがないのなら、徴夏様の一存で手を出すのは止めた方がいいんじゃないですか?曹昭媛様の子が公主であることを願いつつ、皇子であった場合に備えて蒼風殿下の立太子にこぎつける策を練ることこそ、徴夏様が陛下のためにできることだと思いますよ。」

「……ああ、そうだな。今のは忘れてくれ。」


 見回りに行って来る、と添えて背を向けた徴夏の姿を、炎益はしばらく見つめていた。あの様子では納得していないだろうと思うが、徴夏のために炎益ができることはこれ以上何もない。

 軽く息を吐き出して気を取り直すと、炎益もまた薬草の世話をすべくこの場を立ち去った。


 ――その頃、二人と別れた霞琳は嬌麗の宮にいた。


「――といったご様子で、蒼風殿下はお健やかに過ごされていらっしゃいます。」

「……そう、それは良かったわ。」


 嬌麗は霞琳の報告を静かに聞き、やや窶れて生気の薄い顔に微かな笑みを浮かべた。

 あれからというもの、再度呪詛をかけられたような痕跡はないが、嫌がらせは相変わらず続いている。嬌麗の勝ち気な性格にも流石に陰りが見え始め、荒れ狂い方が弱まり、騒ぐよりも塞ぎ込むことが多くなっている。


「……あの、鄧昭儀様。差し出がましいかもしれませんが、やはり蒼風殿下とご一緒にお住まいになられた方が――」

「無用よ。これでいいの。……殿下は嫌がらせを受けていらっしゃらないのでしょう?ということは、犯人の目的は私だもの。殿下を巻き込まないためにも、離れていた方がいいの。」

「鄧昭儀様……。」

「……あの子のために私ができることは、これしかないのよ。」


 霞琳の提案に対し首を左右に振った嬌麗は、寂しげだが決然とした表情を見せる。

 蒼風を手放すと決めた時、嬌麗は彼に会いにきてくれると約束したが、それは一度たりとも果たされていない。それならばと、霞琳が蒼風をここに連れてくることを持ちかけたこともあったが、それも嬌麗は拒絶した。それもこれも全て、蒼風に害が及ぶことを恐れてのことなのだろう。

 嬌麗とて蒼風に会いたいはずなのだ。一緒に暮らしたいはずなのだ。しかし、蒼風を想う一心でそれを耐えている。

 あまりにも嬌麗が辛そうなので、蒼風が傍にいれば元気を取り戻せるのではないかと思った霞琳だったが、そんな安易な発想を口にした己を恥じた。そして子を想う母の覚悟をしかと感じ取る。


「……では、また蒼風殿下のご様子をご報告に伺いますね。」

「ええ、有難う、霞琳。待ってるわ。」


 嬌麗は微笑んだ。やはり寂しさは拭えていなかったが、ほんのりと増したように感じる活気が彼女の喜びを表しているようだ。

 少しでも嬌麗の慰めになるよう、蒼風の様子をこまめに伝えること――それこそが、今の霞琳が嬌麗のためにできる精一杯といえた。それしかできないもどかしさを飲み込み、明日もまたここに来ようと霞琳は決めたのだった。



******************



 劉司徒は昭光に面会に来ていた。

 侍女たちも下がらせ、宮の離れに二人きり。それでも念には念を入れ、劉司徒は常より小声で語り掛ける。


「昭光よ、お前の目から見て()()の働きは如何かな?」

「日頃より蔭から私を補佐してくれ、大変助かっております。……強いて失態を挙げるなら、私の侍女と彼とが密かに連絡を取るにあたり月貴妃のいた宮を落ち合う場として使用していたのですが、そこに人が寄り付かぬよう幽霊の噂を流したものの、陛下が動かれてしまいその宮を使うのを断念せざるを得なくなったことくらいでしょうか。」

「そうかそうか。まあ、そのくらいなら問題視するに値すまい。――以前は下賜品を上手くくすねて鄧昭儀の評判失墜に一役買い、今回は真っ先に曹昭媛の懐妊を知らせて蒼風殿下の立太子阻止に重要な役目を果たした。鄧昭儀の妊娠に気付けなんだのは惜しかったが、それを除けば私としてはなかなか優秀だと思っている。」

「お養父様の仰せの通りですわ。」


 昭光は慎ましやかに相槌を打つ。劉司徒は細い目を益々細めて下卑た笑みを装いながら昭光ににじり寄ると、彼女の白く細い手に自身の肥えた大きな手を重ねて撫で擦った。


「……して、昭光よ。お前が身籠る気配はまだか?最も美しく品のあるお前が、あの二人にこれほどに差をつけられるとは思わなんだ。」

「……申し訳ございません。」

「陛下のお渡りは?」

「……定期的には。」

 

 昭光は眉を下げて睫毛を伏せる。彼女の言は嘘ではない。霞琳に叱責されて以降、春雷は定期的に妃嬪の元へ通っている。ただ、子を成すような触れ合いはない。共寝はしても、文字通り“寝る”以上のことがないのだ。

 しかし劉司徒に対してそれを口にすることは恐ろしく、また女としての矜持が許さなかった。だから昭光は事実を伏せて誤魔化すしかできない。

 だが、笑っているようで笑っていない、細く鋭い眼差しが昭光を責め立てる。息が詰まりそうだ。


「――すみません、遅くなりましたー。」


 重苦しさに耐えかねたところで、不意に扉が開き素早く室内に滑り込んでくる人影が一つ。

 その人物は明らかに忍び込んで来たものと見えて、頭や衣服に付着している葉や砂を手で払っている。そういう行為は外で済ませてきて欲しかったが、人目につくわけにもいかないので止むを得ないのだろう。昭光は砂埃を吸わぬよう、優雅な所作でさりげなく口許を袖で覆う。

 劉司徒はぱっと表情を機嫌のよいものに切り替えて昭光から離れ、登場した人物を歓待する態度を示した。


「構わん、構わん。今日も陛下のお世話で忙しかろう。ちょうど今、お前の話をしていたところだ。私は出来のよい息子を持ったものだとな。」

「あははっ、本当ですか?僕こそ素晴らしい父親を持てて幸せですよ。これからも父上のために僕ができることを誠心誠意努めさせていだたきますね。」

「……お義兄様、お声が大きゅうございます。」

「あー、すみませんねえ。滅多にお会いできない父上とお話しできるのが嬉しいもので。――さて、父上の仰せの通り、今日も陛下にあれこれ命じられて時間が余りありません。申し訳ないのですが、今日の報告は手短に済ませたく思います。」

「おお、よいよい。お前のもたらす情報は非常に役立つからのう。今日も重要なものはあるか?」

「…………。」

「そうですねえ、今日は――」


 上機嫌で急かす劉司徒とどこか冷めた表情の昭光に向き合った人物――炎益は例の如くへらっとした緩い笑みを浮かべたのだった。


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