母と子
※血が零れてますのでご注意ください。
白維に乞われ、春雷と霞琳が駆け付けた嬌麗の宮にはいつもと異なる空気が垂れこめていた。
出産後も嬌麗への嫌がらせは続いている。寧ろエスカレートしているといっていい。
ただでさえ子を持ったという環境の変化や、夜泣きの度に目が覚めて睡眠もまともに取れず、すっかり神経が尖りきってしまった嬌麗は、悪意に晒される度に癇癪を起して喚きながら周囲の物を投げ散らかす悪癖が悪化している。
そんなところに栄節の懐妊が公になったため、時には春雷の顔を見るなり「他の女を身籠らせるだなんて!」などと胸倉を掴む勢いで食って掛かって来ることまであるのだが、今日ばかりは違った。
一応、荒れた形跡はある。高価な装飾品である壺が破片となって床に散っている。まだ新鮮な花が見るも無残に毟られた花弁が散乱し、それを生けられていたのだろう花瓶も欠けて転がっている。いつもは投げる物を選択する程度の理性はあるというのに、今日はそれすらも欠落したというのだろうか。
ただ、今は感情が収まっているのか、俯いた嬌麗が無言で立ち尽くしていた。侍女たちもはらはらしながら遠巻きに見ているばかりで、重苦しい雰囲気に包まれている。
「鄧昭儀様、今日は一体何が――」
「来ないで!」
悲鳴のような甲高い声に制され、嬌麗に駆け寄ろうとした霞琳は思わず動きを止める。
「……来ないで。お前まで呪われてしまうわ……。」
やがてぽつりと呟きを添えた嬌麗の瞳は虚ろだった。よく眠れていないためか、その空虚な目の下には色濃い隈が浮かんでいる。頬は涙が幾筋も伝い落ちていた。
尋常ならざる様相に胸がざわつき、霞琳と春雷は顔を見合わせて頷き合い、嬌麗に歩み寄る。嬌麗はたじろいだようだった。
「来ないでって、言ってるでしょ……!」
懇願に近い泣き声を張り上げながらその場にへたり込み、嬌麗は両手で顔を覆い嗚咽を漏らし始める。
彼女が破片で怪我をしないかと焦った霞琳は急いで傍らに屈み込み、足元に散らばる壺の残骸に視線を落としてぎょっと身を強張らせた。
「な、なんですか、これ……!」
よくよく見ると、破片には何やら記号のようなものでびっしり埋め尽くされた札のようなものが貼り付いており、割れた花瓶から漏れた水だと思っていたものは赤くとろりとしている――恐らくは血のようだ。
嬌麗と霞琳が身に纏っている衣の裾がそれを吸収し、じわじわと朱の染みが広がっていく。同時に、胸の中を恐怖がひたひたと蔓延って来る感覚に襲われた。
「と、鄧昭儀様、これは一体……!」
「……呪詛だな。」
「……呪詛よ。」
春雷と幼い少女の声が重なり、霞琳は今更ながらに寧江の存在に気が付いた。
「これが、呪詛……って、あれ?公主様もこちらにいらしていたのですか?」
「ええ。遊びにね、蒼風殿下と。」
視線をくれれば、部屋の片隅に寧江が佇んでいた。その腕には蒼風が抱かれている。
待望の弟が誕生してからというもの、寧江は一日たりとも欠かさず蒼風のもとに通っていると聞いてはいたが、まさかこのタイミングに居合わせるとは。
そういえば嬌麗が癇癪を起こしている真っ最中であっても、寧江は我関せずといった態度で蒼風をあやしたり撫で繰り回したりしているという報告を白維から受けていたことを思い出す。まだ年端も行かぬ少女であるというのに凄まじいメンタルの持ち主である。もっとも、彼女のこれまでの人生に鑑みれば、直接的に人に手を出さない嬌麗の乱行など大したことではないのかもしれないが。
そしてまた、こんな状況下にあってなお、すやすやと熟睡している蒼風に早くも大物感が漂っている。全く目を覚ます気配のない幼子を抱え、寧江は蒼風用の小さな寝台に歩み寄ると彼をそこに寝かせた。うー、と小さな唇から寝言のような声が漏れたが、やはり起きることはなくよく眠っている。
「これまでの嫌がらせに比べ、随分と手が込んできたものだ。……嬌麗と蒼風を同時に呪わんとするとは許し難い。」
「直ぐに徴夏様に知らせましょう。」
「無論、捜査はする。……だが。」
春雷が珍しく憤りを露わに険しい顔を見せる。しかし、口惜しげに口を噤んだ。
途絶えてしまった言の葉の先の推測は容易い。――調査したところで犯人は見つかるまい。これまでの嫌がらせのように。
嬌麗もそれを察したのだろう。わなわなと体を震わせ、いつもは愛らしい猫のごとき丸い目に憎悪が迸る。
「……誰よ。誰なのよ、こんなことする奴は!呪い返してやるわ!」
「鄧昭儀様、落ち着いてください!」
「落ち着けですって!?ふざけるんじゃないわよ、どこまで私を虚仮にすれば気が済むの!?殺してやるわ!」
感情的になって立ち上がるや否や、誰ともしれぬというのに犯人に向けて駆け出しそうになる嬌麗の袖を、霞琳は咄嗟に掴んで止めようとする。が、力任せに振り払われて尻もちをついた。春雷が背後から支えてくれたお蔭で転倒は免れたが、臀部がしっとりと濡れ始めて気持ちが悪い。あの血が衣類に浸み込んできているのだろう。
「ほんぎゃ……!」
つい声高になっていたこの一連のやりとりのせいで、蒼風が目を覚ましたようだ。眠りの世界から唐突に現実へと引き戻されたためか、むずかって泣き声を上げ始める。
正常な精神状態だったなら、嬌麗はそんな我が子を抱き上げて愛しげにあやしたことだろう。しかし、今ばかりは違う。彼女は完全に追い詰められており、まともではない。
「うるさい!」
「いけません、鄧昭儀様!」
「嬌麗!」
つかつかと寝台に歩み寄ったかと思えば、嬌麗は愛憎入り混じる眼差しを蒼風に落とし容赦なく片手を振り上げる。
霞琳と春雷は制止の声を掛けるのが精一杯で、物理的に彼女を制するには間に合わない。
万事休す――そう思われた時、
「――だめ!」
寧江がその小柄さを活かし、寝台と嬌麗の間に割り込んでいた。毅然とした表情で嬌麗に対峙し、背後の蒼春を守るように両手を大きく広げている。
もし嬌麗が手を振り下ろしていたら、寧江の顔を張り飛ばしていたに違いない。それを承知の上で、寧江は躊躇いなく果敢にも立ち向かったのだ。
「だめよ、叩いちゃ。母親は子を守るものなの。」
「…………」
寧江の声は霞琳の胸に重く響いた。実母から暴力を受けていた少女の言葉には説得力がある。彼女もまた、一人で抱え込むことの苦痛をよく知る少女だ。そして今は、上手に周囲の大人に甘え、頼ることを覚えて、着実に健全な成長を遂げている。
嬌麗は寧江と実母の関係をよく知らない。だがそれでも心にちくりと刺さるものがあったのか、空中で手が止まっていた。
それを視認し、もう叩かれる懸念は去ったと判断したのか、寧江の顔つきは厳しいものから笑みへと変わる。
「でも、一人で守るのは辛い時もあるでしょう?そんな時は頼って良いのよ、周りの人を。――そうよね?霞琳。」
「は、はい!勿論にございます!」
「ほら、いるじゃない。あなたの味方、ちゃんとここに。」
霞琳の言質を取ると、寧江は嬌麗を励ますようににっこりと笑いかけた。そして泣きじゃくる蒼風を抱き上げ、まるで何事もなかったかのようにあやし始める。
なんということもない日常に戻ったような光景を前にして、霞琳と春雷はほっと胸を撫でおろした。
暫く固まっていた嬌麗もやがて我に返ったらしく、力なくずるりと手を下げた。そして仲睦まじい義姉弟の様子を眺めているうち、涙を両目に溢れさせてか細い声を漏らす。
「……霞琳、この子を連れて行って。別の宮を用意して。」
「でしたら、鄧昭儀様もご一緒に。」
「嫌よ。」
「何故――」
「だって、ここはお前が私のために見繕ってくれて、春雷様から賜った宮だもの。私のための場所だもの。だから出ていかないわ。それにそんなことをしたら、呪詛を仕掛けてきた奴らに益々舐められて調子づかせてしまう。私だって、負けたみたいで嫌なのよ。」
「鄧昭儀様……。」
「……でも蒼風は駄目。呪われた場所にいたらいけないわ。元気に大きくなってくれなきゃ駄目。だからお前が連れて行って、きちんと育ててあげて欲しいの。」
「……お住まいが離れても、殿下に会いに来てくださいますね?」
「勿論よ、私の可愛い可愛い殿下だもの……!」
嬌麗は破願した。涙は止まっていなかったが、確かに笑おうとしていた。
存分に甘やかされて育ち、精神的に未熟な嬌麗なりの、蒼風の守り方がこの決断なのだろう。待望の我が子が愛おしくないはずがない。それでも心の弱さが原因で手を上げてしまう恐れがあるのなら、手元から遠ざけて安全な場所に移すことを選んだ。霞琳なら、蒼風を守り抜いてくれると信じて。
その切実な気持ちが痛いほど伝わって来たから、霞琳もそれ以上は何も言わずに跪いて頭を垂れた。鼻の奥がつんとしたが、自分まで泣いてはいけないと必死に堪える。
そして霞琳はその場ですぐに春雷の承諾を得て、寧江ともども蒼風を連れて部屋を出た。
堰き止められなくなった感情が一気に溢れ出したようにわあっと泣き崩れる声と、それを優しく慰める声が背後から聞こえてきたが、敢えて振り向かずに宮を後にする。嬌麗が折角最後まで気丈な態度を貫いたのだ。だから、その気持ちを尊重したかった。
それから暫く水面下で調査が行われたが、徴夏からの報告はやはり捗々しいものではなく、犯人は見つからなかった。
壺はいつの間にか嬌麗と蒼風の部屋の床下に置かれていたらしい。符にびっしりと書き込まれた内容は、二人の命を奪おうとする呪文だったという。
血の入った花瓶は白維が嬌麗の部屋に持ち込んだものだった。白維の話によると、美しい花を生けた花瓶を嬌麗の部屋に飾ってほしいと、宮を訪ねて来た女官から手渡されたらしい。女官曰く、庭園の花が綺麗に咲いたから妃嬪に贈るよう春雷から命じられたとのことだったが、春雷はそんな指示はしておらず、昭光と栄節のもとには花など届いていなかった。明らかに嬌麗・蒼風を狙った犯行である。白維の記憶を頼りに女官を捜してみたが、特定には至らなかった。
騙されたとはいえ呪いの品を持ち込んでしまったことに大きなショックを受けた白維は、嬌麗が苦しんだのは自分のせいだとわんわん大泣きして大変だった。
霞琳は只管に宥め、悔やむよりもこれまで以上に嬌麗を支え尽くすように努めるよう諭したところ、白維もまた嬌麗への忠節を改めて誓い気持ちを収めたようだった。
嫌々ながら嬌麗に仕えていた最初の頃とは比較にならぬ程、二人の関係はいつしか固い絆で結ばれていたものとみえる。このぶんならばきっと、白維は今後も嬌麗の力になってくれるだろう。
蒼風の保護と養育。
嬌麗の身の安全と心の癒し。
栄節と腹の子の健康。
昭光と劉司徒の動向。
後宮の改革。
王皇太后と春雷の関係。
――その他諸々、霞琳の前には課題が山積みになっている。どれもこれもが重く圧し掛かってくる感覚に、霞琳の口から深い溜息が漏れる。
だが、霞琳は一人ではない。抱え込まずに、誰かを頼って良いのだ。
春雷、徴夏、炎益、ラシシュ――心強い面々の顔を浮かべて、僅かに頬を緩めた。




