火種
蒼風と名付けられた皇子の誕生に、人々は沸いた。
朝廷でも群臣たちがこぞって皇子誕生を嘉し、春雷もまた常の通り穏やかな表情で祝辞を受け取る。しかし春雷は、その言葉が臣下たちの本心とは程遠いものであることなど百も承知であった。
この場に参列する者の大多数は劉司徒派ないしは治泰派に属しているのだから、嬌麗の皇子出産を素直に喜べるわけがない。
嬌麗は現在最上位の妃嬪である。その所生の、しかも春雷にとっても第一子である皇子はこのままいけば皇太子――という流れは誰もが否応なしに意識しているだろうが、だからといって嬌麗に擦り寄り利権を得ようとする者が現れる気配は皆無であった。
政治権力に無関心にして傍若無人な振る舞いの目立つ嬌麗のことなので、彼女自身が取り巻きを作ろうと動くタイプでもなければ、臣下たちにとっても嬌麗のような爆弾は担ぎ上げるリスクの方が高いのだろう。
となると、嬌麗や蒼風を追い落とそうとする動きが強まるはずである。当座の春雷の役目は、それを阻止し二人の立場や身の安全を確保することといえた。
そのための初手にして最大の策が、蒼風の立太子である。
蒼風が皇太子になれば、当然ながら劉司徒派からの彼への敵愾心は強まるだろう。だが劉司徒も決して若くはなく、彼の没後は息子が多すぎて跡継ぎ問題が勃発する可能性が高い。
次代で権勢が弱まりそうな劉氏に媚びるよりも、暫くは雌伏期間になるとはいえ次期皇帝という蒼風の未来に賭けようとする若き才子も現れるはずだ。それこそ、嘗て全盛を誇った王氏に与せず、その傀儡同然の存在に過ぎなかった先帝に敢えて接近した、若き日の劉司徒のような者が。
春雷はそんな者たちの躍動に期待したいのだ。流石に劉司徒のような私利私欲の権化そのものといった人間では困るが、世の中にはそうでない者も多くいることを春雷はよく知っている。
とはいえ、昭光や栄節を迎えて半年ほどしか経っていない。蒼風立太子の強行に当たり劉司徒や治泰から挙がるであろう反駁をどういなすかが問題ではあった。
しかし、機は今しかない。
もたもたしていれば、栄節の懐妊疑惑が公になってしまう。
そうなる前に、蒼風を皇太子にしなくては――。
「お目出度いといえば、もう一つありましたな。」
ほんの数瞬早く劉司徒が発した声を耳にして、春雷は直感的に敗北を感じ取った。何に負けたかというのは、自分でもよく分からない。ただ、蒼風の立太子に不吉な予兆が湧いた気がした。
微々たる心の揺らぎを表に出すまいと笑みを絶やさぬ春雷の真意を知ってか知らずか、劉司徒は笑顔というには禍々しさの滲む、にたりとした顔つきで治泰を見た。
筋金入りの劉司徒嫌いである治泰は極めて不愉快そうに眼を眇めていたが、突如自分に笑みを向けて来る劉司徒の意図を測りかねているようで、険しい視線だけは彼から外さずにいる。
「曹昭媛様がご懐妊だとか。いやはや、陛下はお若いだけあって実に精力的ですなあ。」
ざわっと全員に動揺が走った。
にまにまと下卑た笑いを浮かべている劉司徒は更に続ける。
「とすれば、劉昭容様もそろそろ……と期待して宜しゅうございますかな?思えば陛下は妃嬪が決定した際も、御三方を平等に扱うようお心を砕いていらっしゃった。当然、お情けも平等に賜っているものと……」
「……無礼が過ぎるのではないか、劉司徒。口を慎まれよ。」
「おや、目出度い話題になんともつまらぬお顔ですな。もしや李太師は曹昭媛様のご懐妊をご存知ではなかった……などということは、まさかございませんよな?」
「劉司徒!」
苦々しげに語気を荒くする治泰の様子からすると、図星と見える。
相変わらず感じの悪い笑顔を貼り付けたまま多方面への挑発を怠らない劉司徒の肉に埋もれた細い目は決して笑っておらず、春雷に昭光を身籠らせるよう圧を加えているかのようだ。
春雷はそれをまともに相手にせず、軽く往なすように柔らかく双眸を緩めるのみで返した。
いずれにせよ、栄節の懐妊を持ち出されてしまっては蒼風の立太子は見送らねばならない。計画は練り直しだ。
だがそれでいて、春雷個人としてはどこかほっとした心地を抱えてもいた。栄節が身籠っている可能性が高いことをもう秘す必要がなくなった。堂々と彼女と我が子を気遣うことができる。
ただ気掛かりなのは、治泰でさえ知らなかった栄節の懐妊を劉司徒が把握していたことだ。劉司徒派の者が後宮にも多いのは承知しているが、まさか栄節の宮にまで潜り込んでいるのだろうか。或いは――。
もどかしい思いを抱えながらも表面には出さず、春雷はこの日の朝議を速やかに終えて霞琳の元へ向かった。
「ええ!?そんなことがあったなんて……」
春雷を迎えた霞琳は、衝撃の余りそれだけ口にするのがやっとだった。
霞琳もまた、この日に蒼風の立太子が決まると思っていたのだ。横槍が入るのは想定内だったが、一番知られたくなかったことを一番知られたくなかった者に知られていたのだから、呆然とするしかない。
「――栄節からは、相変わらず何も言って来てはいないのだな?」
「はい。あの手相占いに託けてラシシュに診てもらって以降、こちらには何の報せもありません。時期的には、流石にもうご自身がお気づきになっていてもおかしくはない、というよりもお気づきにならない方がおかしいとは感じていたのです。それなのに何の動きも見られませんので、そもそもご懐妊ではなかったのかもしれないと思い始めておりました。私の配慮不足でしたら、誠に申し訳なく……。」
「よい。霞琳殿の方から動いてはかえって不審に思われかねぬ。」
霞琳も情報収集には特に力を入れているところであった。後宮内では栄節が妊娠しているという噂など広まっていなければ、栄節が医官を呼んだ形跡もない。だというのにどうして劉司徒の耳に栄節懐妊の報が入ったのか、霞琳も首を捻るばかりである。
「かくなる上は、まず栄節の懐妊が事実か否かを正式に確認しなくてはなるまい。栄節の宮に直ちに医官を遣わせる。霞琳殿は私と共に立ち会ってくれ。」
「承知いたしました。」
こうして二人が栄節の宮に向かうと、先触れもなしに春雷の御渡りがあったことに慌てふためく侍女たちが慌ただしくお迎えの準備を始める。
そうこうしている間に医官も到着し、栄節の診察を開始した。
傍らに佇む霞琳は緊張して息を詰めてしまう。短い時間のはずなのに、非常に長い時が過ぎたかのような心地になった頃、医官が静かに見立てを口にした。
「ご懐妊で間違いないかと。」
医官の言葉を受け、緊張からか固くなっていた春雷の表情は俄かに綻ぶ。
「そうか。……聞いたか、栄節。よく朕の子を宿してくれた。」
「…………。」
春雷は柔らかな笑みを湛え、栄節のほっそりとした一回り小さな手を握る。
しかし当の栄節はまるで他人事であるかのようにぼんやりとした顔つきのまま、何やらもごもごと唇を動かしはしたものの、それは声にならずに空気に溶けた。
固唾を飲んで見守っていた霞琳は、なんともいえない気持ちになる。
春雷は小さな命の芽生えを心底喜んでいるように見える。それが彼の本心の一つであることは疑いようがない。しかし、実際には喜び以外の複雑な感情や思惑が春雷の脳裏を渦巻いているはずで、その苦悩は察して余りある。
栄節も栄節で、感情がさっぱり読めない。皇帝の子を身籠ったというのは女性にとって誇らしいことであろうが、喜んでいるようには見えない。かといって初めての妊娠に不安を覚えているようでもない。いつもと全く変わりがないのだ。これまでも頼りない少女であったが、これが母親になる女性だと思うとますます頼りなさに拍車がかかった感が否めない。
我の強い嬌麗でさえ情緒不安定になったほどだというのに、果たして栄節はこれから受けるであろう嫌がらせの類いを乗り越えられるだろうか。いや、もしかしたらこういう性格の方が鈍感力を発揮して、心揺らさず何事も平然と受け止めてしまうのかもしれない、などと霞琳の方が当事者よりも悶々と思い悩むばかりである。
「注意事項はまとめて侍女の方々にお伝えしておきます。お食事については厨の方へと指示を出しておきましょう。――では、私はこれにて。」
「ああ、宜しく頼む。」
医官が春雷との会話を終えて立ち去るのを見送った後、霞琳は改めて春雷と栄節に向き直り深々と頭を下げた。
「ご懐妊、誠におめでとう存じます。曹昭媛様におかれましては、これからは一層お体を大切になされませ。」
「…………。」
「医官の方のご指示をよくよくお守りいただき、その他何かございましたらいつでもお申し付けください。お健やかな御子様をお産みになられますよう、私どもも尽力いたします。」
「…………。」
予想通りだが、栄節の反応は薄い。一応話は聞いてくれているようで、こくんと頷くのを確認できたからよしとしよう。
それにしても栄節の侍女たちはとんと気が利かないものだ。もし季望が察してくれなかったら、一体いつまで気づかなかったことだろう。その間に普通の生活をしていたら、うっかり流れてしまうことだって考えられる。恐ろしい限りだ。
春雷は栄節を労わった後、執務があるからと言いおいて立ち上がった。彼に従い、霞琳も宮を辞す。
執務室に向かう回廊で、二人はなんとも言えない視線を交わし合い、声を潜めた。
「……改めまして、おめでとうございます。陛下。」
「ああ、ありがとう、霞琳殿。……個人的にはやはり嬉しいが、政情を考慮すると難しい状況になってしまったな。」
「……鄧昭儀様のお耳にもすぐに入ることでしょうね。」
「そうだな。……嬌麗のことだ、荒れるだろう。」
「……でしょうね。」
案の定、嬌麗は栄節の懐妊を耳にするや否や荒れ狂い、白維たちが泣き暮らす事態に陥ったのであった。




