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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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渦中の御子

「……――霞琳様、やはり無理です。どうか此度ばかりはお許しください……!」

「ごめんなさい、ラシシュ。今回ばかりは私も引けないのです。」

「ですが、私が正しく判断できるとは思えません。懐妊の見極めなどしたこともありませんのに……!」

「大丈夫、大丈夫!何事にも初めてはつきものですから!」

「そういう問題では――」

「それに、ラシシュは私たちが信頼する炎益様の一番弟子なんですから。自信を持って!師がよければ弟子もよいに決まっています!」

「そんな単純な話では――」

「はい、着きました。諦めてください。」

「うう……。」


 懸命に拒絶の語を並べ立てるラシシュの口を無茶苦茶な論理で遮りながら時間を稼ぎ、霞琳が彼女をずるずると引き摺りやって来たのは栄節の宮である。

 華やかさには欠けるが、妃嬪の住まいに相応しい気品と落ち着きのある門を見上げて、ラシシュはがっくりと項垂れた。ここまで来てしまった以上、最早何を言っても無駄だと悟ったのだろう。

 そんな彼女の姿を前にして、霞琳はにこにこと笑顔で中へと促す。無理を強いる心苦しさはあるが、それは敢えて飲み込んだ。他に手段がないのだから、ここはラシシュに頑張ってもらわなくてはどうにもならないのだ。


 先日、春雷を送り出した後、霞琳はラシシュと休憩がてらお茶をした。他愛もない雑談の流れで、ラシシュが炎益の助手として学んだ内容に話題が及び、


「最近は薬だけでなく、病気の方の対処法なども教わっております。例えば顔色や脈を診る方法ですとか――」


 などと、自身の成長ぶりを嬉しそうに語ってしまったばかりに、ラシシュは炎益の代役として霞琳に目をつけられてしまったのである。


 それからというのも、哀れなラシシュはひたすら人を診る特訓をさせられることになった。

 霞琳やルェイホマをはじめ、体調を崩した宮女がいると聞けばその者の病状を片っ端から診させられたのだ。まさかラシシュが医者の真似事をしているとは公にできないので、表向きはジュゲツナルム流の手相占いと称し、いかにも女子供が好みそうな遊びの一環として行った。手相にかこつけて、さりげなく手首に触れ脈を診るという魂胆である。

 するとこれは宮女の間で爆発的な人気を博し、自ら手相を見て欲しいと志願する者で溢れ返った。そうして大量の実践を経て、健康な者の脈と病人の脈を見分けられるようになってはきたが、妊娠は病ではないので上手く見極められるかどうか未知数だ。

 嬌麗も面白がって手相もとい脈を診させてくれたが、サンプルが一名なうえ、妊娠初期と後期では体調も異なるであろうし、経験値が零に等しいも同然の状況には変わりない。

 そんな訓練をしている最中、事情を聞き知った炎益は呆れ果てたような顔をしていたが、ラシシュが教えを乞うと丁寧に指導してくれていたらしい。自分が妊婦を診るのは御免だが、協力を拒むつもりはないということなのだろうか。いまいち彼の本心が掴めないものの、ありがたいことではあった。


 そんなこんなで、霞琳とラシシュは栄節の前に膝を着いていた。


「曹昭媛様におかれましてはご機嫌麗しゅう。手相占いにご興味がおありとのことで、ご命令に従い藍朱を連れてまいりました。」

「…………。」

「そうなのです!とても流行っているとお聞きになり、是非見てほしいとの仰せなのです!一体どのような占いなのか、皆が興味津々でして……!」


 あ、そっちか、と霞琳はにこやかな表情の裏で声なき独白を漏らした。

 栄節はいつもの通りぼんやりと興味なさげな表情で無言である。一瞬唇がもごもごとしたが、喋ったというよりは欠伸を嚙み殺すような動きであった。双眸も細くなっていたので、恐らく誤っていないはずだ。

 それよりも例の拡声器役の侍女が目をきらきらと輝かせながら、どもりもせずに勢い込んで話し掛けて来る。周囲に控える他の侍女たちもどことなくそわそわしているところを見ると、占いに興味があるのは彼女たちの方だろう。自分たちがラシシュを呼びつけるわけにも、宮での仕事を放棄して女官長の執務室に通うわけにもいかないので、栄節本人の希望という建前でこうして場を設けることに成功したのだと思われる。

 いずれにせよ、栄節の体調を診たいと考えていた霞琳にとっては願ったり叶ったりであった。何食わぬ顔でラシシュを促し、栄節のすぐ近くまで進ませる。


「高貴な御身に触れますこと、何卒お許しくださいませ。」


 深く頭を垂れて委縮しているラシシュに頷き、栄節は無造作に片手を差し出した。ラシシュはその手を大切に包み込むように触れ、固定する流れでさりげなく指先を脈に添える。


「……最近お加減が優れないようなことは?」

「…………。」

「ああ!そういえば、ご気分が悪くなられることがございます。お食事を召し上がれない時もあるほどで……。」

「まあ、それは宜しくありませんね。きちんとお休みになれていらっしゃいますか?」

「…………。」

「お休みになってはいらっしゃるのですが、お疲れなのか日中も気怠そうで、眠そうにされていることが多いのです。――手相占いでそこまで分かるだなんて、凄いですね……。」

「本物の占い師なら何もかも見通せるのかもしれませんが、生憎と私は真似事をしているだけにございます。所詮は素人の遊びとお心得くださいませ。――そのうえでの発言としてお聞き願いたいのですが、暫くお体には特に気を配られた方が宜しいご様子。侍女の皆様方も曹昭媛様のご体調をいつも以上に気に掛けていただければと。」

「…………。」

「承知いたしました!お任せください!」


 それとなく体調を聞き出し、懐妊が事実であった場合に備えて体調面への注意を本人や侍女に促す――そのような霞琳の指示を的確にこなすラシシュは、やはり優秀な人材である。元々あまり鋭くはない栄節やその侍女たちは、ラシシュの言葉を素直に受け入れたようだ。


「藍朱様、つ、次は私の手相も見ていただけないでしょうか!?」

「わ、私も!」

「私も見てほしいですう!」


 興味津々といった表情で殺到する侍女たちに囲まれ、ラシシュはもみくちゃになりながら一人ずつ順番に対応している。

 そんなラシシュに霞琳は内心で感謝と謝罪を贈りながら、栄節をちらりと盗み見た。栄節は侍女たちの振る舞いにも特段関心はないようで、ぼんやりとした無表情を崩さない。が、今度は袖で口許を隠して小さく欠伸を漏らしたようだ。うとうとと重たげに落ちて来る瞼を懸命に持ち上げようと、ぱちぱちと目を閉じては開くのを繰り返している。

 吐き気や倦怠感、眠気の類は、嬌麗が懐妊して暫く経った頃にも顕著に見られた症状だ。


(やっぱり、曹昭媛様は……。)


「……ご懐妊、かと。」

「……ですよねえ。」


 栄節の宮からの帰り道。

 深刻な面持ちで声を潜めるラシシュの言葉に、霞琳は頷いた。予想通りである。


「ですが、所詮は素人判断です。誤っている可能性も大いに……。」

「勿論、それは承知しています。ラシシュの見立ての正誤を論じるつもりはありません。あくまでご本人や侍女が気付き、医官に診てもらうまでは見守りに徹するのみです。ラシシュの言葉があるので、きっとお体を大切にお過ごしくださるはず。そうすれば万が一にも御子が流れるような事態に陥ることはないでしょう。……今の私たちにできるのは、ここまでです。」

「……はい。」


 ラシシュは何とも言えなさそうな面持ちで口を噤んだ。彼女も複雑なのだろう。栄節と同じ女性だからこそ、霞琳とは異なる葛藤を覚えていても不思議ではない。


 栄節に、お腹の中に宿った命の存在に早く気付いてほしいような、もう暫くは気付かずにいてほしいような、しかし後者の場合であってもどうか母子共々健やかに過ごしてほしい――そんな身勝手な願いを抱きながら、着実に時は過ぎていった。

 しかし、栄節が医官を呼んだとか、身籠ったとかいう話は一向に聞こえてこない。


 段々と忙しさにかまけて、もどかしさも薄れてきたある日、霞琳の元に至急の報せが齎された。


「鄧昭儀様が破水されました!」

「なっ……陣痛は?」

「まだのようです!」

 

 霞琳は手にしていた書類を放り出し、直ちに嬌麗の元へ向かう。

 つい前日も、もうそろそろなのにまだ生まれない、お腹が重くて辛い、気持ちが落ち着かないなどといつものように不満を垂れ流し、変わった様子はなかったというのに、お産とはかくも唐突に始まるものなのか。

 いよいよだ、と期待と不安が入り混じる気持ちで胸を一杯にしながら、霞琳は嬌麗のいる部屋の扉を開いた。


「いつ出て来るのよ!」

「もう、やってらんないわ……っ!」

「お前たち、どうにかしなさいよ!」


 部屋の外まで響き渡るような悲鳴とも怒声ともつかぬ声を上げる嬌麗の傍らに跪き、霞琳は緊張した面持ちで話し掛ける。


「鄧昭儀様、私です!お分かりになりますか?」

「霞琳……?」

「そうです、参上するのが遅くなり申し訳ございません。」

「本当よ、っ……もう、本当に……お前がいないと、不安なんだからあ……っ!」


 先程までの周囲の者を困らせてばかりいた我儘や八つ当たりの数々も、嬌麗なりの必死な虚勢だったのかもしれない。霞琳の姿を確認するや、くりくりとよく動く猫のような瞳から零れ落ちた大粒の涙こそ、嬌麗の本心であろう。

 縋るように伸ばされた片手を、霞琳は確りと両手で包み込む。


「もう大丈夫です。私がお傍についておりますから。」

「……本当に?ずっと傍にいてくれる?」

「はい、本当です。」

「……私、ちゃんと産めるかしら?」

「必ずや。」

「……ちゃんと男の子かしら?」

「それは……」


 霞琳は言葉に詰まった。こればかりは下手な相槌など打てない。

 いつも根拠に乏しい過剰な自信に満ち溢れ、傲慢で気の強い嬌麗。そんな彼女を以てしても、皇子を産まねばならないというプレッシャーに打ち克つのは至難の業だったらしい。

 今までそれに気付けずにいた霞琳は、己を恥じた。友として、女官長として、嬌麗に寄り添っているつもりでいたが、全然足りていなかったのだ。


「……男の子じゃないと、いけないんでしょ?」

「そんなことはございません!」

「……でも、男の子じゃないと寧江をがっかりさせてしまうわ。」

「まさか、妹ができたとお喜びになると思いますよ。」

「……でも、女の子だったら皇太子になれないわ。跡継ぎを産めないと春雷様に見捨てられちゃう。春雷様が他の女にとられちゃう……!」

「陛下はそのような御方ではありません。鄧昭儀様のことを変わらず慈しんでくださり、また御子を授かる機会にも恵まれましょう。」

「でも、その子がまた女の子だったら――」

「鄧昭儀様!」


 霞琳の強い口調に圧され、嬌麗はぴくりと身じろいで口を噤んだ。まるで叱られた子どものように、こちらを窺う気弱な視線を向けて来る。


「――鄧昭儀様、まだ御子様の性別はわかりません。まずはお健やかな御子様をお産みください。陛下にとっても、鄧昭儀様と御子様の無事が一番のお望みかと。」

「……霞琳。」

「それに、皇子でいらっしゃったなら、悩むこともございませんでしょう?」

「……そうね、そうだわ。お前の言う通りよ。」


 ずっと悪い方へと想像を膨らませていた嬌麗の表情が、漸く綻んだ。まだぎこちなさは残るが、やっと前向きな心情になれたようだ。

 ほんの少し落ち着きを取り戻した嬌麗は、霞琳の手をそっと握り返す。


「……霞琳、一つ頼みがあるのだけれど。」

「何なりと。」

「この子が生まれたら、お前も一緒に育てて頂戴。」

「……はい?」

「……私、ちゃんとした母親になれる自信がないの。だからお前にも手伝ってほしいのよ。月貴妃の指南役だったお前なら、皇子や公主の教育だってきっとできるわ。」

「畏れながら、教育係なら陛下が一流の師をご用意くださるものと――」

「信用できないもの、そんな奴ら。」


 ぴしゃりと嬌麗が霞琳の言を遮る。

 反射的に口を閉ざした霞琳を見つめて、嬌麗は再び涙を滲ませながら笑っていた。


「……この後宮で、私が心から信用できるのはお前だけ。だからお前じゃないと駄目なの。わかる?」

「……承知いたしました。陛下のお許しが得られましたなら、誠心誠意御子様にお仕えいたします。」

「……ありがとう、霞琳。」


 やっと安堵したようなほっとした表情を浮かべ、嬌麗は穏やかに瞼を下ろした。

 が、そんな会話を交わして間もなく、嬌麗は本格的に産気づく。

 

「痛っ、……っく、う……っ、痛い痛い痛いいいいい!」

「はっ、うぐ、っ……なんなのよ、これえええ!!」

「も、死んじゃ……っ、お前たち、ちゃんと引っ張り出しなさい、よ……!私を殺す気……!?」


 脂汗を額に浮かせながら息も絶え絶えな絶叫を繰り返し、一体どれほどの時間が経過したことだろう。


「いやああああ!」

「――ほぎゃっ……!」


 嬌麗の悲鳴と重なったせいで、誰もが幻聴かと疑った産声。それが現実だと確信するや否や、部屋中が歓喜に包まれた。


「おめでとうございます!皇子の御誕生です!」

「皇子……!」


 感極まった霞琳はぐっと嬌麗の手を握る両手に力を籠める。

 先程までわんわん騒いでいた嬌麗も、呼吸の度に胸を大きく上下させながら力尽きたようにぐったりとしていたが、眼前に差し出された生まれたばかりの我が子を目にして微笑んだ。


「……猿の人形みたい。」

「……猿より余程お可愛らしいですよ。」

「そうね、……とても可愛い猿よ。私の子。」

「……そうですね。」


 霞琳と嬌麗は顔を見合わせ、どちらともなく「ふふ」と笑った。





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