再会
「慶琳、慶琳。聞こえる?」
「――姫様!」
呼ばれて、遠のいた意識が浮上する。と同時に、視界いっぱいにシャムナラ姫の顔が飛び込んできた。心配そうな表情から一転、愛らしい笑顔に変わる。何よりも大切な、あの笑顔だった。
(なんだ、姫様は生きていたんじゃないか。殺されたなんて悪い夢だったんだ。)
ほっと胸をなでおろし、こちらも自然と表情が和んだ。
背を地面に預ける己を覗き込む彼女の顔に影が差している。そのせいか、笑顔でありながらどことなく物憂げに見えた。
「おはよう、慶琳。――じゃなくて、今は霞琳だったわね。」
「姫様、何を言ってるの?慶琳でいいんだよ、霞琳は妹だ。」
怪訝そうに首を傾げると、シャムナラ姫は静かに首を横に振る。
「あなたは“張霞琳”。今までは“張慶琳”だったけれど、これからは“張霞琳”として生きるの。」
「姫様、どういうこと?」
「私の侍女として後宮に入ることを決めたあの日から、そういう運命だったのよ。きっとね。」
シャムナラ姫の細くしなやかな指が頬を撫でる。優しすぎるその手つきは肌に触れるか触れないかといった具合で、くすぐったく心地よかった。
「どうか生きて。“霞琳”として生きなさい。まだこちらに来ては駄目よ。」
ぽたり、と涙が顔に落ちる。シャムナラ姫は確かに笑っているのに、同時に顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「生きて、私の大好きなあなた。――さようなら。」
別れの言葉に動揺する余り返す言葉を持てずにいるうちに、シャムナラ姫は最後の挨拶に添えて手をぎゅっと握ってくれた。
(体温がない。冷たい手だ――。)
つまり、やはりシャムナラ姫は死んでいるのではないかという考えが脳裏に過り、冷や汗がどっと噴き出る。
「――ん……、りん……」
綺麗な声がする。透明感のある、心の中を清涼感で満たしてくれるような声。
その性質はシャムナラ姫のそれに似て、それでいて別人の声だ。
心なしか、手を握ってくれている手が温かい。その温もりを逃したくなくて、縋るように渾身の力を込めて――しかし、実際には非常に弱々しい力でしかなかったが、ともかくも誰のものとも知れぬ手を握り返した。
「目覚めたか。霞琳殿。」
「……?」
綺麗な声が名を呼んでいる。妹の名だったそれが、これからは自分の名だとシャムナラ姫に諭されたのは、夢か現か判然としない。しかし、視線だけ動かして辺りを見ても妹の姿はなく、眼前の相手が自分を見つめている状況からして、呼ばれているのはやはり自分なのだろう。
改めて声の主に双眸を向ける。まだぼんやりとしているせいだろうか、聞き覚えはある声だが、その主たる男の顔に見覚えがない。
しっとりと濡れたような艶のある黒髪、聡明さを感じさせる黒目がちで切れ長の双眸。凛として高貴さをうかがわせる顔立ちが安堵を滲ませて穏やかに緩む様は、まるで慈悲に満ちた仏のような神々しさを纏っていた。
「……貴方は?」
掠れ声で問いながら重い身を起こそうとするが、そっと手で制され、それに甘えて再度横たわる。
「私は李春雷。この国の第二皇子だ。」
(――第二皇子?)
主だった皇族の名は叔父の講義で聴いた記憶がある。そんな名前の皇子が確かにいた。
しかし、である。面識のない皇子が、眠る己の傍らに座して手を握ってくれている。この状況は一体何なのだろう。
もしかすると、今この瞬間こそが夢なのではないだろうか。夢の中では意味不明な展開が当たり前のように起こるのだから。
(うん、そうだな。夢だ、夢。だとすればさっきの、夢だと思った内容が現実で――)
そこまで考えて、霞琳の顔からさっと血の気が引く。
先程の夢が現ならば、シャムナラ姫は死んでいる。握り締めた手は生きた者のそれでは有り得ぬ程に冷たかったのだ。
記憶も意識も混乱から抜け出せずにいる霞琳は、必死に頭を回す。
覚えている出来事を遡っていくと、先程シャムナラ姫に自分は“霞琳”として生きるのだと諭され、その前は皇帝に暴力を受け、更に前は徴夏に暴室へと連行されたが、連行された理由は――。
「……霞琳殿。」
いつの間にか涙が眦から零れ落ち、枕を濡らしていた。
そんな霞琳に、心配そうな声が降る。同時に一層強く握り締められる片手を包み込む温もりは、確かに生きた者のそれだった。
(最悪だ。どちらが夢でも現でも、姫様はもうこの世にいない。)
蒼白の頬を熱い雫が伝っていく。
冷たい手を包み込む一回り大きな手から温もりがじわりと広がって来る。
「……あの。お見苦しい姿で誠に恐縮ではございますが、第二皇子殿下に拝謁――」
「ああ、口上は省いて構わない。そなたに分かりやすかろうと思い第二皇子だと名乗りはしたが、礼を尽くせという意味ではないのだ。私はあくまで私的に、例えるなら友のようにそなたと話したい。」
高貴な身分でありながら、決してそれを鼻にかけるつもりはないようだ。身分を明かした事をかえって申し訳なさげにしている態度は彼の誠実さを表しているようで、霞琳は少しだけ安堵を覚えた。
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えさせていただきます。……それで、一つお尋ねしたいことがあるのですが。」
「うん、何だ?」
「姫様――いえ、月貴妃様は、変わりなくお過ごしですか?」
春雷の顔から感情が抜け落ちる。
「……やはり、貴妃様は。」
霞琳はやっとの思いで声を絞り出し、視線を伏せた。
勿論、月貴妃は元気に過ごしている――もしかしたらそんな返事をもらえないかと、縋ってみた一縷の望みが霧散した。もっとも、記憶を整理した結果シャムナラ姫が亡くなったことを認識した上で問いかけたのだから、自ら止めを刺してもらいにいった自殺行為ではあるのだが。
いずれにせよ、何が夢で何が現か、嫌でも霞琳は把握した。
敬愛する父から見放され人々から陰口を叩かれるような自分を、ありのまま受け入れて欲してくれたシャムナラ姫。女装して後宮に供をするという重罪を犯してまで、文字通り命を懸けて傍で守りたいと願った彼女の命の灯は果敢なく消えてしまったのだ。
「……姫様が、霞琳として生きろと。私はもう慶琳ではないのだと、そう仰って……でも私は結局落ちこぼれの慶琳なのです!お供をしていながら姫様を救うこともできなかった私に生きる意味など……!」
希望の光を喪った世界で、一人取り残された恐怖と絶望に苛まれる霞琳の涙は止まらず、痛みを訴える心の叫びがとうとう唇から溢れ出た。
夢現が入り混じる脈絡のない言葉を吐き出し嗚咽を漏らし続ける霞琳の手をずっと握り締めながら、春雷は黙ったまま耳を傾けてくれていた。
(もう死んでしまいたい。誰か殺してほしい。それなのに生きろなんて、姫様は残酷だ。)
霞琳は夢で逢ったシャムナラ姫に悪態を吐く。もし彼女が生きていたら、霞琳のそんな振る舞いにすら「うふふ」と楽しげに笑うだけで、「生きろ」という言葉は決して撤回してくれないのだろう。そんな柔らかな雰囲気を纏いながらも頑なな芯を持っているところが、シャムナラ姫の魅力の一つだった。
泣きじゃくり始めてから、どれ程の時が経っただろう。漸く涙も枯れ果てたかというところで心が落ち着きを取り戻す。いくら無礼を許可されたとはいえ、皇子の眼前で取り乱す行為に恥じ入って、霞琳は細い声で春雷に謝罪を紡いだ。
「……大変お見苦しい姿を晒してしまいました。誠に申し訳のうございます。」
「いや、構わない。……だが、そうか。やはりそなたは正蓋殿の次男、慶琳殿だったのだな。――ならばそなたに意味がなくとも、私にはそなたを生かす意味がある。」
湧き出る激情のまま口走った言葉から、春雷は冷静に事実を拾い上げていたようだ。それも「やはり」という単語からは、既にある程度の情報収集と予測は済ませていたことが窺い知れる。
淡々とした彼の物言いを受けてびくりと霞琳の肩が跳ねたのは、素性を知られたからか、それとも不本意に生かされかねない状況になったからか。いずれなのかは自分でも分からないが、泣いてすっきりしたせいか思考が鮮明になって来るにつれ、己の所業を改めて理解した。
後宮に女装した男性が紛れ込む。
本来、そんなことがあってはならないのだ。その行為が露見してしまった今、張家の存続や、既に故人になっているとはいえシャムナラ姫、ひいてはジュゲツナルム王国に対しても責めが及びかねない重罪といえよう。
「……殿下。妹の名を騙り月貴妃の侍女として後宮に参ったのは、すべて私一人の責任でございます。父は何も知りません。戎月国王も。ですから罰するなら私だけに――!」
情けに縋り慈悲を乞うよう、握り締めた手にもう片手を添えて必死に訴える。自分でも無様だと感じる程に、再び涙が零れた。家を滅ぼし、外交関係に亀裂を入れてしまったら、落ち零れの所業どころで済む話ではない。どうせ惜しくはない命なのだから、それを差し出す事で張家を、ジュゲツナルム王国を守れるのなら本望だ。
しかし春雷は、自分を生かす意味があると言っていた。ならば自分は一思いに死なせてももらえず、生きながらいかほどの償いをすれば許されるのだろう。
知らず知らずのうちに震えていた手を、そっと春雷の手が握り締めてくれる。はっとして上げた霞琳の顔は、何日も高熱にうかされ食事もできずに窶れ気味で、泣きじゃくり目許は赤く腫れ、見るも憐れな面持ちになっていた。
「……慶琳殿、落ち着きなさい。そなたは既に十分すぎる程の罰を受けている。」
「え……?」
覚えていないのか、とでも言いたげに、しかし何処か気まずそうに視線を外す春雷は、霞琳の両手からするりと抜いた片手で下腹部を指し示す。
怪訝に思いつつも寝具の内側で自らの体に両手を這わせて確かめる、と――なかった。男性の体にあるべきはずのもの、つい先日まであったはずのものが、ない。
「――!?」
「父上――陛下がなさったことだが、それは正式な処罰ではなく単なる私刑だと認識している。……私が止めに入らなければ、陛下は恐らくそなたを嬲り殺しにした後、張家を弾劾して取り潰していただろう。」
暴室で皇帝に弄ばれたことは覚えている。殴られ、蹴られ、剣で傷つけられた痛みまで蘇ってきそうになり、霞琳は吐き気を催して口を押さえた。あの時は意識が朦朧としてはっきりと分からなかったが、斬りつけられたのはそれだったのだろう。
春雷はそんな霞琳の頭を優しく撫でながら、静かに言葉を続ける。声質が透明感に満ちた涼やかなものだから、かえって内容の恐ろしさが際立った。己の行為の愚かさを改めて思い知らされる。そして同時に、あの時助けに来てくれたのは春雷だったのだと合点がいった。
「……殿下は何故、暴室にいらっしゃったのですか?」
「徴夏から、陛下が直々に張家の令嬢を取り調べると聞いた。陛下は張家を疎んじていらっしゃったからな、ただではすまぬと思ったのだ。」
「陛下が、張家を、疎んじて……。」
思わず復唱する。幼い頃から皇帝への忠義を教え込まれ、実際そのように誓い行動してきた父の背を見て育ってきた。張家が皇帝に警戒されているとは聞き及んでいたが、あれが忠臣でなくば何なのかというほどに律儀な父を見てきた者として、張家が皇帝から厳しい目を向けられる理由がどうしても理解できずにいたのだ。
疑問が顔に出ていたのだろう。霞琳にも理解できるよう、春雷は丁寧な説明を続けてくれたのだった。




