霧中
※若干生々しい表現がありますのでご注意ください。
「――というわけで、曹昭媛様がご懐妊の可能性があるそうです。」
「「「…………。」」」
季望から事情を聴いて帰らせた後、霞琳は執務室で緊急会議を開いていた。出席者はいつものメンバーである。
本日の議題が完全に予想外だったようで、全員が一瞬色も言葉も失っていた。
暫くして、普段の軽妙な雰囲気が鳴りを潜め真剣な表情を浮かべた徴夏が鋭い眼光を霞琳に向けて口を開いた。
「……その根拠は?」
「その、……つ、月のものが来ている気配がないそうです。」
「それはいつからだって?」
「季望がお仕えするようになってから、ずっとだそうです。……彼女は曹昭媛様のお召し物などの洗い物をしているのですが、その類の汚れを見たことがないそうで……。」
自分で口にしながら、霞琳は動揺して熱くなる頬を手で押さえた。いかに女性らしく振る舞えるようになったとはいえ、所詮は見せかけの問題である。このような女性ならではの話になると、男性が知るべきではない秘密を覗き見ているような罪悪感と羞恥心が堪え難い。
霞琳を女性だと信じて疑わない者たちには、その初心な反応は良家の令嬢らしい慎ましさや恥じらいの表れと解釈してもらえるようで、これまで性別を疑われたことはないのが幸いであった。
徴夏も特に不審には感じていないようで、霞琳に構わず春雷に不躾な問を投げる。
「おい春雷。お前、曹昭媛とはいつ寝た?」
「……最初の、慣習に従った数日だけだ。それ以来は通っても交渉はない。」
「ああ、あれは妃嬪を迎える儀式みたいなもんだから、流石にそこで手を付けないわけにもいかねえし、かといって露骨な避妊もできねえしな。……懐妊が事実だとしたらたった数回で孕ませたってことになるわけだが、お前、命中率高すぎじゃねえの。そっちでも無駄に優秀なのどうにかしろ。いっそ不能になれ。」
「……面倒をかけてすまない、徴夏。」
「あんまり優秀過ぎて困るっていうなら、僕がちょん切ってあげますからいつでもお命じくださいねー、陛下。」
「……そなたの手を煩わせるのは申し訳ないな。気をつけよう。」
徴夏の直球過ぎる物言いに青褪め、閨事の話題に赤くなったり、炎益の冗談とも本気ともつかぬ発言に目をひん剥きそうになったりと、霞琳の表情は忙しない。
二人の言葉に対する春雷の返答が何となくずれているのを気に留める余裕もない霞琳の様子にはお構いなしで、再び徴夏は真顔で霞琳に向き直った。
「なあ、月のものって月一回くらいの頻度で来るんだろ?」
「そ、そう思います……?」
「……思う?」
「あ、いえ、そう!そうです!多分!個人差はあるかと思いますけど!」
「……懐妊が事実だとしたら、この数ヶ月、月のものが来てなかったことに本人や侍女は何も思わないなんてことがあるのか?同じ女としてその辺り、あんたはどう感じる?」
「え、ええと……その、個人差がありますから……」
「……男である俺たちに、女の事情をあけすけに話すよう要求していることはすまないと思ってる。だが大事なことなんだ。」
実体験がない上に生々しさを増してくる内容に戸惑いを隠せなくなり、霞琳は視線を彷徨わせながら曖昧な回答しかできなくなる。
徴夏がいつになく真摯な態度を取って来るものだから、余計に心苦しい。真面目に答えようにも、霞琳自身にも分からないのだ。あんなにずっと傍にいた妹の月経事情でさえも、そういえば聞いたことは一度もなかったことに思い至る。それくらい、この話題は男性にとって未知の世界といえた。
「……霞琳様の仰る通り、そのあたりは個人差が大きいとは思いますよ。体調によっては数ヶ月止まったり、反対に間隔が狭まって月に数度来たりする場合もありますから。」
困惑しきった霞琳を見かねて、炎益が口を挟んだ。驚いて彼の方を振り向くと、ここは任せろとでもいうかのように目配せを受ける。これ以上襤褸を出さないためにも、霞琳はその厚意を有難く受け取り黙っておくことにした。
「曹昭媛様は貧しい暮らしで栄養不足だったのか年齢の割に発育が悪いように見受けられますし、体が未熟だと余計に周期が乱れやすくなるものなんですよ。それに、極めて低い可能性ですがそもそも初潮を迎えてないとか、反対にちゃんと毎月来ていても平民生活の名残でお召し物を汚さずに自分できちんと処理できる方なのかもしれませんしねー……とまあ、あれこれ考えてみたところで、どれもこれも想像の域を出ません。いずれにせよ医官に診せないとはっきりしないでしょうねえ。」
「医官に診せると話が一気に広まりかねぬ。不安定な嬌麗を刺激しかねないため、それは避けたい。――炎益、そなたが診てはくれぬか?」
「あはは!すみませんねえ、僕はそういうの専門外なんでー。」
炎益は流石よく知っているものだと感心しきって耳を傾けていた霞琳だが、不意に彼の雰囲気が変わり訝しさを覚えた。へらへらと緩い笑みを浮かべてはいるが、いつものように飄々と受け流す感じではなく、断固拒否といった頑なさが透けて見える。
春雷はそこで一旦口を噤んだが、徴夏は露骨に眉間に皺を寄せた。
「炎益、あんたもこれがどれだけ重要な問題か、理解はしてるだろ?」
「そりゃあ勿論ですよ。」
春雷たちは現在、嬌麗が皇子を産めばすぐさま立太子をする方向で動いている。劉司徒や治泰にこれ以上権力を集中させず、皇帝親政を実現するための大切な足掛かりの一つだからだ。
だが栄節が身籠っているとなれば、その子の誕生を待たずして嬌麗の子を太子に立てるわけにはいかなくなる。加えて栄節がもし皇子を産んだら、嬌麗よりも後ろ盾の強い栄節所生の皇子の方が皇太子の座に近くなってしまうだろう。
故に、栄節の懐妊が事実か否かの見極めは非常に重大で、できれば極秘事項として扱いたい問題であった。
それなのに炎益は、事の重要性を理解した上で協力を拒んでいる。彼にしては珍しい態度である。
「申し訳ないんですけど、本当にそっちの方面は不得手なんですよ。正しく診られないと思うんです。誤診したら大変でしょう?」
「それはそうだが……。」
「それに、曹昭媛様が妊娠に気付いてないなら、放っておいたらいいんじゃないですか?要は嬌麗様の出産まで曹昭媛様の懐妊を秘すことができれば、僕たちの計画は押し通せますよね。」
「……まあ、確かにな。」
「で、でも、鄧昭儀様のご出産までまだ二ヶ月くらいあります。もし本当にご懐妊だったとしたら、お腹も目立つようになりご本人もお気づきになるでしょうから、それは難しいのでは。それに、私たちがご懐妊の可能性に気付きながら見て見ぬふりをし、無理に秘匿しようとしている間、曹昭媛様やそのお腹のお子様に万一のことがあったら……。」
「……別にいいんじゃないですか?」
「え?」
「いっそのこと、曹昭媛様の子なんて産まれない方が僕らにとって都合がいい。そうでしょう?」
炎益の言葉に、霞琳は横っ面を殴られたような衝撃を覚えて双眸を見開く。
春雷と徴夏は顔色一つ変えない。二人とも、今後の計画に支障を来す恐れがある栄節の出産を望んでいないのだ。
「……なんということを仰るのですか!」
霞琳は自分のなかで沸々と湧き上がる激情に駆られるまま、耐えられずに声を荒げた。
三人は驚いたように霞琳を見つめ、言葉を失っている。
「確かに、曹昭媛様がご懐妊だとしたら私たちの計画は練り直さなくてはなりません。ですが、だからといって何の罪もない方の命を軽んじるような真似はできません。況してや、陛下の御子なのですから……!」
栄節とて、好き好んで後宮に入ったわけではない。春雷の子を身籠っているとしても、それは本人にとって不可抗力だったはずだ。
栄節にもその子にもなんら非はないのに、彼女らに不幸が起こるのを待ち望むような対応は、霞琳にとって受け入れ難いものだった。直接手を下しはしないだけで、結果的に見殺しにするも同然なのだから。それではシャムナラ姫を毒殺した范淑妃や、春嵐の側室を自害に追い込んだ劉司徒と、根本的な部分で大差がない。
剣幕に気圧されている徴夏と炎益を執務室から追い出し、霞琳はぼろぼろと涙を零した。手の甲で拭っても拭っても止まらずそれに閉口して両手で顔を覆い俯くと、頭にぽんと優しい感触が乗る。――春雷の大きな手だ。
流石に皇帝を締め出すことは躊躇われ、春雷だけは執務室に残していた。今ばかりは彼とまともに会話ができるだけの余裕がなく、霞琳は顔を隠したまま沈黙を貫く。
「……霞琳殿はそのままでいい。そなたのその心のありようが、私たちが失いかけた人間らしさを思い出させてくれる。私たちの良心だ。」
ぽんぽんと宥めるように何度も頭を撫でながら、春雷が呟いた。
「皇帝である私からすると、栄節の懐妊が利にならないことは事実。しかし一個人である私にとっては、我が子の誕生が疎ましい出来事であるわけがない。」
「……本当、ですか?」
「ああ、勿論。故に霞琳殿が怒ってくれたことは、嬉しくもあった。礼を言う。」
「……。」
霞琳は今更ながらに春雷の懊悩を垣間見た気がした。
改めて考えれば、一番苦しいのは春雷に決まっている。止むを得ない状況とはいえ栄節を身籠らせた張本人でありながら、自身の子の誕生を手放しで喜べる立場にないのだから。
そんな状況にあっても、春雷は相変わらず穏やかに微笑みを浮かべながら霞琳の涙を指先で拭う。どこまでも柔らかく、しかしそれ以上に強い人だ、と霞琳は思った。
「……曹昭媛様の件、一旦私にお預けくださいませんか。」
「何か妙案があるのか?」
「今はまだ何とも申し上げられません。ですが、まずはご懐妊かどうか確認しなくては。」
霞琳の言葉に、春雷が頷きを返す。
妙案などまだ浮かぶはずもないが、どうにかしなくてはならない。霞琳が望む後宮の平穏には、栄節ら妃嬪が幸せに暮らすことも含まれているのだ。
自身の理想のために、そして春雷が理不尽に我が子を諦めなくて済むように、知恵を絞らなくては――そう、霞琳は決めたのだった。




