去りゆく日々に
五月の十日になった。
時の流れは早いもので、窓から差し込む陽の光は初夏を思わせる眩さを孕み、微風に揺れる木の枝は透明感のある緑を纏うようになっていた。
霞琳は執務室の机に向かい、窓の向こうに広がるそんな穏やかな光景を眺めながらも落ち着かない気持ちを抱えている。
今来るか、まだ来ないか――そんな自問を朝から何度繰り返しただろう。
昼を過ぎて次第に不安が勝り始めた頃、漸く訪れた待ち人を迎えて霞琳は勢い良く立ち上がって出迎えた。
「お待たせして申し訳ございません、女官長様。決裁をいただきに参りました。」
待ち人――祐君も急いでここまでやって来たのだろう。僅かに息が弾んでいる。
彼女が差し出してくる支出報告書を手に取り、霞琳は胸を撫で下ろして感慨深そうに口を開いた。
「良かった、間に合ったのですね……本当に、よく頑張ってくれました。ありがとうございます。」
「女官長様、まずは中身をお検めください。問題ないとのご判断をいただけて初めて、間に合ったと言えるのです。」
「そうですね。では少しお待ちください。」
「はい。」
霞琳は再び腰を下ろし、報告書の表紙を捲る。
予め祐君に持参するよう頼んでおいた各部署の支出資料も同時に開きながら突き合わせを行い、両者の内容が一致することを確認してから決裁印を捺した。
「――問題ありません。内侍省に提出してください。」
「ありがとうございます。……内侍省の方はさぞかし驚かれるでしょうね。」
「そうですね。それもこれも全部祐君さんの働きあってこそです。本当にお疲れ様でした。」
「畏れながら、全ては皆様が協力してくださったからこそと心得ております。それに御礼を申し上げるのは私の方です。……後宮で最後にとても良い思い出ができました。女官長様が私を信じて、自信を持たせてくださったお蔭です。心から感謝しております。」
達成感に満ちた微笑みを浮かべて頭を垂れる祐君に報告書を返しながら、霞琳は小さく頷きを見せる。
この一ヶ月半の間、祐君は困難を乗り越え着実に成果を上げてくれた。
まず報告書提出期限の厳守に向けて、取り組まねばならない事項をピックアップして計画を立て、後宮内に周知を図った。
突然資料提出期日が早まったことに対する反発は予想通り大きく、祐君は全ての宮や部署に足を運んで説明や協力依頼を行った。その時に理不尽な罵倒を受けることもあれば、女官長に気に入られていい気になっているなどと聞えよがしな陰口も叩かれていた。
さぞや精神的な苦痛も負ったろうに、祐君はそれでも諦めず懇切丁寧な説得を繰り返し、期日を守るのが難しいと言い張る部署に対しては資料作成を手伝ったり、作成時間を短縮する方法を一緒に考えたりと、一体いつ寝ているのかと周囲が疑問に思う程の働きぶりを見せた。
そのような彼女の誠意は徐々に宮女たちの心に響き始めたようで、各部署の担当者も次第に協力的になり、祐君を蔑んでいたはずの出納部署の女官にもフォローを買って出る者が現れるようになった。
いつしか祐君の周りには彼女を信頼して協調する人々でいっぱいになり、皆の努力もあって、今日の提出期日を無事に守ることができたのだ。
そし大役を果たした祐君は、まもなく後宮を去る。
「……祐君さんが後宮にいてくれるのは、今月末まででしたね。」
「はい。本当にお世話になりました。」
「新しい働き口が張萬宝のところだと聞いて驚きました。私もその店を使ったことがあるんですよ。またお世話になることもあると思いますから、祐君さんにはきっとまたお会いできますね。」
「ええ、きっと。……実を申せば、そうなることを願ってその店で働くことにしたのです。以前、女官長様は私にお尋ねになりましたよね。私の幸せは何か、と。」
「懐かしい。そんなこともありましたね。」
「それで私は改めて考えたのです。私を気に掛けてくださる方がいること、苦楽を分かち合える仲間がいること、そんな周りの方に何かを返せる自分でいること――……今回与えてくださった仕事を通じて、それが私の幸せだと思ったのです。どれもこれも、幸せといえるほど大層なものではなく、お恥ずかしいのですが。」
「いいえ、どれも素敵なことだと思います。」
「ありがとうございます。そして女官長様の存在もまた、私の幸せの一つです。だから後宮の外に在っても女官長様のお役に立つ方法はないかと模索していた時、司隸大夫様が相談に乗ってくださって。」
「……徴夏様が?」
「ええ、一晩もお付き合いくださいました。」
「一晩……?」
「はい。そんな長時間、睡眠を削って私の身の振り方を一緒に考えてくださいました。そして斡旋してくださったのが、張萬宝様の店だったのです。」
「そうだったんですか。では私も徴夏様に御礼を申し上げなくてはいけませんね。祐君さんとの縁が切れずに済むのですから。」
表向きは穏やかな表情を浮かべてはいた霞琳だが、祐君の口が開く度に心の中では百面相を繰り広げていた。
最初は寂しげだった面持ちが照れくさいような嬉しいようなものに変わり、徴夏のくだりになると、
(徴夏様、祐君さんに手を出してないって言ってたくせに!嘘吐き!)
(あ、一晩ってそういう意味?……徴夏様的にはいかがわしいことを期待して肩透かしを食ったんだろうなあ、絶対。いい気味です、破廉恥!)
(祐君さんに張萬宝を紹介してくれたのは嬉しい、ありがとう徴夏様!だけど同時に祐君さんを徴夏様の手許に囲い込んでいるも同然ですよね、それ……!)
等々、心の中で叫び声を上げて転げ回りたくなるような感情を必死に押し止めていたのである。
そんなことなど露も知らぬ祐君は内侍省へ向かうため執務室を後にし、霞琳はまた一人になった。窓の外に視線を投げる。先程までは気が漫ろだったせいで観賞する余裕もなかった新緑の風景が、清々しさを心に齎してくれるようだ。
そうして一時の癒しに浸かった後、きゅっと口元を引き締めて立ち上がる。これからまた一仕事が待っているのだ。
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「…………。」
「お久し振りですね。……少しやつれたようですが、顔色は悪くないようで安心しました。」
「…………。」
「食事はしっかり食べられていますか?」
「…………。」
「夜はちゃんと眠れていますか?」
「…………。」
霞琳は絹逸と向かい合って腰を下ろしていた。
拘束を解かれた絹逸は不機嫌を通り越してあからさまな敵意を剥き出しにして霞琳を睨みつけ続けており、何を訊いても返事はない。
徴夏の厳しい尋問を受けても碌に口を開かなかったという彼女の頑固な性格は相変わらずで、ある意味予想通りの反応に溜息を漏らす。
そして一ヶ月半前のあの日、春雷に望みを伝えた時のことを脳裏に浮かべた。
「絹逸さんを返してください。」
その言葉を耳にした春雷と徴夏は唖然として暫し固まってしまった。
「……霞琳殿、すまぬがそれは無理というもの。詳細がまだ判然とせぬとはいえ、彼女が罪を犯した事実は明白。放免とはいかぬ。」
「承知しております。まずは調査を進めて絹逸さんの罪の全貌を明らかにし、相応の罰をお与えください。その上でお返しいただきたいのです。」
「おい、それも無理ってもんだぞ。あの婆が犯した罪が公文書の改竄だけだったとしても、一年前のことといい一介の女官が知っていていい範疇を超えた情報を持っているうえ、過剰な思い込みで今後も何をやらかすか――」
「まさか、起こってもいないことを可能性だけで罪に問うようなことはありませんよね?それに私が出納資料を調べた限り、一年前のように公金の詐取に手を染めた痕跡は皆無です。反対に支出が過少になっているせいで泣き寝入りした商人がいることは確実で、それは後宮、ひいては陛下や国家に対する不信をいたずらに煽った可能性があり、その罪は小さくないとは理解していますが、命を以て贖うほどのものではないと思います。」
「……確かに、法に照らせば死罪には値しなかろう。」
「おい、春雷!」
「やはりそうですよね。……とはいえ、それも現時点で明らかになっている部分のみの話です。調査の結果、死罪や追放に値する余罪が認められた時は無論そちらを優先なさってください。ですが、そこまで重い罪を犯していないのであれば、どうしても私の元にお返し願いたいのです。」
二人が黙り込む。
恐らく、絹逸の罪の軽重によらず密かに処断するつもりだったのだろう。なにせ絹逸は一年前の公金詐取に感づいたほどの人物なのだ。
思考に偏りがありすぎるという欠点が長所を目立たなくさせてしまっているが、彼女とて無能なわけではない。劉司徒憎しの一念で真実を見誤ったかもしれないが、冷静に情報を分析したら金の行き着く先が范淑妃派であったことに気付くかもしれない。
春雷と徴夏としては、折角蓋をしたその事実に今更触れられたくはないのだろう。そうであれば絹逸を消しにかかる可能性がある――その霞琳の読みは当たりだったようだ。
「……一つ訊く。一女官に過ぎない立場のくせに女官長の指示に従わず、一方的にあんたを劉司徒の手先だと決めつけ敵視してきた絹逸を、なおも欲する理由は何だ?」
「後宮の改革のためです。」
「具体的に言うと?」
「後宮の中で何が起こって、どうなったか。何をしたら罪になって、どんな罰が与えられるのか。宮女にもそれを正しく知る権利があるはずです。様々なことが有耶無耶になって、面白おかしい噂ばかりが広まっていく環境は望ましくないと考えています。」
「……おい、それは俺らに対する嫌味かよ。」
「滅相もない。ご気分を害してしまったのでしたらお詫びします。――お二人の立場上、何もかもを詳らかに知らせるわけにいかないということも重々承知しております。ですが、明らかにしても差支えのない程度のことはきちんと知らしめるべきかと。真実を覆い隠すばかりでは後宮の空気も宮女の人格も歪みましょう。今回の絹逸さんの件も、彼女が劉司徒を恨むことになった原因は、前皇太子殿下のご側室の呪詛騒動だと推察されます。だからといって彼女に情状酌量の余地はないでしょうが、冤罪をにより多くの人々の命を奪った劉司徒が罰されていないのに、一人の命も奪っていない絹逸さんが処断されるのはおかしいと思います。」
「……仕方ねえだろう、そればっかりは。」
「ええ、仕方がありません。劉司徒には絶大な権力があり、絹逸さんは何の力もない一女官に過ぎませんから。」
にっこりと笑みを浮かべる霞琳を前にして、徴夏の頬がひくりと動く。
「……やっぱ嫌味じゃねえか。命の選別をしてる俺らに対しての。」
「いいえ、お二人が私利私欲でそんなことをなさっているのではないとよく理解しております。私だって、後宮の安寧のために必要とあらばそうせざるを得なくなるかもしれません。ですが今回は、そんな必要があるとは思えません。罪は罪、その罰は罰、それを後宮内できちんと公表する。すべては無理でも、小さなことから透明性を高めていきたいのです。善悪の基準がはっきりし、情報が適切に伝わることが、宮女の意識を変えるきっかけにもなるでしょう。」
「……あのなあ、――」
「……徴夏、そこまでにせよ。ここは霞琳殿に譲れ。彼女の言には一理あるうえ、望みを叶えるという約束だ。」
「では、絹逸さんをお返しくださるのですね。」
「ああ、罪状が明らかになり、相応の罰を終えた後はそなたに任せる。……霞琳殿には、月貴妃の件でも申し訳ないことをした。確かに影響の少ない内容に限っては、余計な混乱や疑心暗鬼を招かぬためにも公にした方が良いのだろう。」
「ご配慮痛み入ります、陛下。」
春雷の決定なのでやむを得ないが賛同はしかねる――そんな態度をありありと見せていた徴夏であったが、約束はきちんと果たしてくれたようだ。
事件の調査を進めた結果、やはり絹逸の罪は公文書の改竄と命令違反くらいしか見当たらなかった。ただし商人への適切な支払いを滞らせ国家の威信を落としたという点が重視され、一ヶ月に及ぶ投獄と鞭打ちの刑に処され、官位を剥奪されることになったのだ。
こうして無官の宮女、即ち白維と同じく最下級の奴婢という身分に落とされた絹逸であったが、今日晴れて獄から出され霞琳の元へ連れて来られた次第である。
「……取り敢えず、今日から絹逸さんにお願いする仕事について説明します。場所を移しますので、着いてきてください。」
だんまりを決め込む絹逸とこれ以上向かい合って座っていても何の進展も得られないだろう。
霞琳は腰を上げて執務室を出る。ちらりと背後を窺うと、絹逸も立ち上がってちゃんと後に従った。口を利いてくれないが、指示には一応従ってくれたことに安堵する。鞭に打たれた身体が本復しきっていないようで、歩みが遅い絹逸に合わせて霞琳も歩調を落とした。
散歩でも楽しむかのようなゆったりとした速度で、二人は後宮を進む。
途中で擦れ違う宮女たちが、こちらをちらちらと見遣っては何事かひそひそ囁き合っている。霞琳の提案により絹逸のことは知れ渡っているから、きっとその話題で持ち切りであるに違いない。
罪を償った以上、絹逸がこれ以上貶められる道理はない。宮女たちが噂好きなのは仕方がないとしても、不当な差別を受けないように対処していく必要があろう。
「……こんな風に私を見世物のように連れ回して屈辱を与え、満足ですか?」
後宮の中心部を抜けて人の気配がなくなってきたところで、ようやく絹逸が初めて口を開いた。自尊心の高い彼女にとってここまでの道中は耐え難い屈辱だったようで、眦を吊り上げ険しい視線を霞琳に向けながら恨めし気な声を上げている。
「すみませんが、私にそんな意図はありません。絹逸さんはこれからも後宮で働くのですから、新しい仕事場へ案内するのに後宮の敷地内を歩くのは当然でしょう?」
「はっ、恩でも売ったつもりですか?一年前の女官のように人知れず消されるか追放されるかすると思ったのに、命を取らずにこれからも後宮で働けだなどと。……生憎ですが、私は劉司徒の手駒である女官長に感謝する気もなければ、思い通りに動いてやるつもりもありませんからね。」
「恩を売ったつもりはありません。それから、私は劉司徒の手駒でもありません。絹逸さんの処罰は法に基づいて行われただけですから、罪を償ったら後宮に戻されるのは当然のことです。私が特別にしたことといったら、絹逸さんにお願いする新しい仕事を決めたことくらいのものですよ。」
やっと話してくれたと思えば、もう態度を取り繕う必要はないとばかりの不遜な言動に加え、相変わらずの思い込みの激しさに閉口したくなる。しかしそこをぐっと堪え、霞琳は飽くまで冷静に、感情を除いた論理だけで返すよう努める。
「そういえば私から奪い取った元の仕事は祐君に割り当てたそうですね。随分とあの女に肩入れしていますが、贔屓も程々になさってはいかがですか?」
「贔屓しているわけではありません。絹逸さんが拘束されたのですから、譬え名目だけだったとしてももう一人の担当である祐君さんが支出報告書を作成するのは当たり前ではありませんか?」
「ふん、しゃあしゃあと……二人でつるんで私を排除したのでしょう?自分たちの思い通りに支出報告書を作るために。あの女も私を蹴落とした今、出納部署でさぞかし大きい顔をしているのでしょうね、本当に図々しくて目障りな奴。」
「私のことを悪く思うのは構いませんが、祐君さんについての誤解は解いておきましょう。……彼女はずっと、絹逸さんのことを心配していましたよ。貴女の罪を私に話してくれるまでも、長い間葛藤していました。それからもう一つ言い添えておくと、祐君さんは間もなく後宮を出ます。」
「えっ……?」
「絹逸さん、これからは是非視野を広げてください。貴女の知る情報が全てではなく、貴女の思いつく視点が全てではないのですから。これまで絹逸さんが正しいと考えたこと、その正しさに基づいてしてきたこと、そしてそれが周囲に与えた影響を振り返ってみてください。時間は幾らでもあるはずです。」
「…………。」
「とはいえ、私も自分の考える正しさを押し付けるつもりもありません。私に絹逸さんを変えられる力があるだなんて、傲慢な思い上がりをするつもりもありません。私にできることがあるとしたら、貴女が自身を省みるきっかけを用意することだけ。それに乗るも乗らぬもあなた次第です。」
「…………。」
話に一段落ついたところで、丁度目的地へと辿り着く。
見慣れない光景に怪訝そうな表情を浮かべている絹逸を振り返り、霞琳はにこりと笑みを向けた。
「さあ、着きました。――この一角は皇太子とその妻妾が住まう場所です。現在は皇太子がご不在で、最近までこちらにいらっしゃった寧江公主様も陛下が引き取られてから、誰もいなくなり荒れてしまっています。こちらの手入れが、絹逸さんの新しい仕事です。」
「…………皇太子殿下の、……」
「はい。こちらの一番大きな宮が皇太子のお住まい。隣の大きな宮は正妃やそのお子様のお住まいで、寧江公主様がいらっしゃった場所です。――そしてあちらの宮は、一番身分の高いご側室のお住まいだったとか。」
絹逸の顔色が変わり、ぱっとそちらを振り返る。霞琳に背を向けた彼女の肩が微かに震えていた。
「かつて呪詛騒動で自死を命じられた御方がいらっしゃったと聞いています。不吉だという噂が流れて、誰も手入れをしたがらず一番荒れてしまっていて、困り果てていたのです。……絹逸さんなら、そんな噂に踊らされることなくきちんと整備してくださると信じています。」
「…………。」
「因みに私は、呪詛なんて信じてませんけどね。」
「!」
絹逸は大きく目を瞠ってこちらを振り返る。しかし、にこにこしている霞琳と視線がぶつかると、すぐに顔をくしゃくしゃに歪めて前に向き直った。
「…………女官長のことは、信用なりません。」
「そうですか。」
「今のお言葉だって、私を上手く使うための方便でしょう?」
「絹逸さんがそう受け取ったのなら、私が本心だと言い張っても無駄なのでしょうね。」
「……ですが、この新しい仕事は、精一杯努めたく思います。」
「……はい、お願いします。」
「……だからといって、貴女に感謝なんてしてやりませんけど。」
「ふふ、構いません。感謝されたくて絹逸さんにお願いしたわけではありませんから。」
「…………。」
絹逸は鼻声になっていた。やがて両手で顔を覆い、しゃくりあげるような声が漏れる。
そうして佇んだまま動こうとしない絹逸の背を暫く眺めてから、霞琳はふっと表情を緩めた。そして彼女一人をこの場に残し、静かに踵を返して執務室に向かったのだった。




